第2章 3年目の真実-5
「真悟様、真悟様!」
遠くで覚さんが呼んでいる声が聞こえて、僕は目を覚ました。
わっ!
僕はベッドから飛び起きた。
寝起きに全身包帯の長髪女性は心臓に悪い。
僕はベッドライトを点けて、改めて覚さんの姿を目視した。
「驚かせてしまって申し訳ございません」
覚さんは小声で詫びた。
「真悟様が夢で何やら恐ろしい目に遭っているようでしたので、お起こしした方がよろしいかと思いまして」
自室がチャイナ少女のせいでめちゃくちゃになったせいで安眠の場を失った僕は覚さんが寝ているベッドの横にあるもうひとつベッドで寝ていた。母さんは安楽イスに腰掛けたままで、そして、千里眼さんは未だ包帯に縛られ点滴スタンドに吊るされたままの状態で寝ていた。千里眼さんに同情してしまうが、勝手に解くと今度は僕が母さんに吊るし上げを喰らってしまう可能性があるし、熟睡しているみたいなのでここはそっとしておこう。
覚さんって、夢まで読み取ることができるの?
「いいえ。私にはそのような能力はございません。ただ真悟様が少々うなされておりましたので気になってお声を掛けさせていただきました。差し出がましかったでしょうか?」
ううん、そんなことない。助かったよ。ありがとう、覚さん。
「あの真悟様」
覚さんが一瞬躊躇した後に申し訳なさそうに口を開いた。
「私のことは覚と呼び捨てにしてください。それと、敬語も必要ございません」
じゃあ、僕のことも真悟でいいよ。
「それはどうかご勘弁ください」
でも、それだと不公平感がある気がするんだけど。
「後生ですから、このままで真悟様と呼ばせてください」
捨てられた子ネコのような目で見られたら嫌とは言えない。無表情な人かと思ったけど、そうじゃないみたいだ。もしかしたら、感情を表に出すのが苦手なだけかもしれない。以前の母さんがそうだったように。
あ、そういえば覚に訊きたいことがあったんだけど、いいかな?
「はい、何でしょう」
寝る前にインターネットで調べてみたんだけど、覚って妖怪の種類の名前なんだよね? 自分自身の名前ってないの?
「名前ですか?」
うん。だって、ネコをネコって名前で呼ぶのも変だろう。だから、覚にもちゃんとした名前があるんじゃないかと思ったんだ。
覚は首を傾げた。
「私は生まれたときから覚としか呼ばれたことがございません」
僕は枕の下からホワイトボードとマーカーを取り出し、紫という文字を書いた。
ゆかり、ってどうかな? 君と初めて会った時に紫陽花が思い浮かんだんだ。だから、紫と書いて、ゆかり。
「紫……?」
嫌かな?
「いいえ、ステキな名前です。ありがとうございます、真悟様」
覚、いや、紫は頬を紅潮させ口元をほころばせた。
僕はこの時初めて紫の笑顔を見た。
笑顔は万国共通のコミュニケーションツールだ。きっとそれは人だけじゃなくて妖怪も同じなんだと思う。
ふと、あのチャイナ少女のことがまた脳裏に浮かんだ。彼女も笑うことがあるんだろうか。闇色の瞳の奥に何を秘めていたんだろう。憎悪なのか、それとも、悲哀なのか。彼女と笑いあえることができたら、きっと。
「真悟様、大陸からやってきた娘ですが、三年前に真悟様の中に四凶のお一人様を封印した者と同族ではないでしょうか?」
うん、そうだね。僕もそう思うよ。
そして、傷が癒えたら再び襲撃に来るだろう。今度はちゃんと話し合うことができればいいんだけど。
「真悟様は私が命を賭してお守りいたします」
「そういうセリフはケガが完治してから言いなさい。もっともそんな真似はさせないけど」
鬼の形相で、紫の背後に母さんが立っていた。
「杏樹様、申し訳ございません」
紫は頭を垂れると、そそくさと自分のベッドに舞い戻った。申し訳ございません、は今や紫の口癖と言っても過言じゃないな。
ちなみに、杏樹というのは母さんの名前だ。
僕もベッドライトを消して布団の中に避難した。けど、降りしきる雨音が耳について離れず、眠れずにいた。
そういえば、ついでといっては何だけど四凶についても調べてみた。
古代中国の伝説の王である五帝の一人、舜帝に中原――黄河中下流域にある平原――の四方に流された四柱の悪神。名は《渾沌》、《饕餮》、《窮奇》、《檮杌》。僕ののどちんこに封印されているという《渾沌》は、犬のような姿で長い毛が生えていて羆に似た足を持っている。目はあるのに見えないし、耳はあるのに聞こえない。いつも自分の尻尾を咥えてグルグルと回っている。善人を忌み嫌い、悪人を好む。
これはあくまでインターネット上で伝説の生物として記されている内容だ。
実在しているなんて、平和ボケした日本人は考えもしないだろう。僕だって数時間前までは妖怪が実在するなんて思いもしなかったんだから。
僕は喉仏にそっと手を置いた。
伝説上の生物が僕の中にいる。
いまいち実感がわかなかった。
でも、紫と千里眼さん、チャイナ少女は《渾沌》を巡って僕の前に現れた。事実として受け入れなければいけない。
ダメだな。雨が降っているせいか、ネガティブなことばかり考えてしまいそうになる。
一瞬、指先に痺れを感じた。
過呼吸の前触れだ。この二年間、過呼吸の発作は起こらなかったから安心していたんだけど。
考えるのは止めだ。寝ることに集中しよう。
古典的だけど、僕は羊を数えた。
が。
結局、眠りについたのは日が昇る頃だった。