第2章 3年目の真実-3
母さんの話によると、救急隊が駆けつけた時には通報者の男はどこにもいなくて、返り血を浴びて倒れている僕のそばには引き千切られたような右腕が転がっていたらしい。警察が雪の上に落ちた血を追っていったけど、神社の境内を出ると血痕は忽然と消えていた。その右腕は通報者のものなのか、それとも通報者によって危害をくわえられた第三者のものなのかは不明。近隣の病院に片腕を失くして治療にやってきた人間もいなかったという。となると、唯一の目撃者である僕だけが真実を知っているということになる。が、僕にはその時の記憶がなかったため、警察も難色を示していたらしい。
当時、猟奇的な犯罪としてニュースやワイドショーで取り上げられていたらしいけど、退院してすぐに萬島に移住した僕は知りもしなかった。今思えば、母さんが僕の目に触れないように配慮してくれていたのかもしれない。
「これが母さんの知っているすべてよ」
『ありがとう、母さん。おかげで少しだけ霧が晴れたような気がするよ』
三年前のことを思い出そうとして脳裏に浮かんだあの右腕は夢や幻ではなく、僕が三年前に見た現実だった。
僕は再び記憶の糸を手繰り寄せる。
落ち着け、僕の心臓。
大丈夫だ。
自分に言い聞かせる。
ゆっくりと思い出せ。
あの時、首を吊ろうとした僕の眼前に男の人が現れて、そして、言ったんだ。
確か――
「この空け者め!」
そうそう、空け者。
って、違う。
誰だ、僕の思考の邪魔をした奴は?
しゃがれた老人のような声がして、僕と母さんは声の主を探して視線を彷徨わせた。けど、おじいさんらしき人物は見当たらなかった。その代わり、どこから入ってきたのかわからないけど頭上に一羽の鷲が飛んでいた。褐色の大きな羽根を広げた鷲はベッドで眠っている覚さんが胸の上に着陸した。鷲を間近で見たのは初めてだけど、こんなに大きいとは思わなかった。羽根を広げた状態で僕の身長を裕に超えている。
「儂の言いつけを守らんと勝手なことをしたあげく、この体たらくとは情けない。いつまでのん気に寝ておるつもりだ。さっさと起きんか!」
鷲は覚さんの頬を翼でベシベシと叩き始めた。どうやら先刻の老人の声の主はこの鷲のようだった。突っ込みたいことは多々あるけど、どこから突っ込めばいいんだろう。タイミングがわからない。
すると。
「鷲の分際で私が治療した患者に何てことするのよ!」
母さんが鷲の首根っこを、まさにその名の通り鷲掴みにして覚さんから引きはがした。母さんは患者を心配しすぎて常軌を逸した行動に出ることがあった。島民に慕われながらも「鬼医者」を呼ばれる所以である。
「人間風情が何をするか!」
「わ、鷲がしゃべった? 真悟、この鷲しゃべったわよ!」
母さんは大仰に驚いて一歩退いた。
今頃気付く? そこは最初に気付くべきだろう。
僕は胸中で母さんに突っ込みを入れた。
「儂は鷲ではない! 儂は」
「千里眼様?」
目を覚ました覚さんは驚愕の表情を浮かべていた。半身を起こそうとする覚さんを母さんは止めた。動くと治療したばかりの傷口が開く可能性があるからだ。
だが、鷲にはそんなこと関係ないらしい。その尖った黄色いくちばしで覚さんの顔面を今にも喰いつきそうな勢いで翼を広げて飛んだ。
「私の目が黒いうちは患者には手を出させないわよ!」
母さんは猟犬のような鋭い眼光を放ったかと思うと、処置台の上に置いてあった包帯を使って瞬時に鷲を見事に捕獲した。鬼医者モードが発動したようだった。その間、僕は目を瞬かせることくらしかできなかった。
「彼女は絶対安静なの。話があるならここでしなさい」
母さんは包帯でぐるぐる巻きにした鷲を点滴スタンドに吊るした。
覚さんは床に臥せたまま、鷲に許しを請う。何とも滑稽な光景だ。
「出すぎた真似をしてしまい、申し訳ございませんでした」
「そもそもお主のような低級妖怪を喰ろうたくらいで四凶の一人の封印が解けると思うたか?」
「申し訳ございません」
「例え事が上手く運び封印が解けたとして、この儂が喜ぶとでも思うたか?」
「申し訳ございません」
「ですが、先ほど大陸からやってきたと思われる祓い屋に真悟様が襲われました。一刻の猶予もございません」
「何? なぜそれを先に言わんか!」
「申し訳ございません」
激昂する鷲とは対照的に、覚さんは抑揚のない謝罪の言葉を繰り返していた。初めて会った時にも思ったけど、この人は感情をあまり表に出さない。本人がそれを意識してやっているのか無意識にやっているのかどうかは僕にはわからない。でも、誰かのために何かを一生懸命やり遂げようとしていることだけは理解できた。
「まあこの度のことは大目に見てやろう。結果的にお主の愚行が四凶の一人を守ったようじゃからな」
鷲はゴホンと咳払いしてから僕の方に視線を動かした。
この鷲がもしかしてもしかしないでも……。
「はい、そうです。この方が千里眼様です」
僕は鷲――千里眼さんを凝視した。人間に復讐を誓った妖怪の長っていうからおぞましい大男を想像していたのに、ずいぶんイメージと違ったなぁ。
「お主、今儂を愚弄したであろう? 儂は覚のように人の心を読むことはできぬが、お主の顔を見れば一目瞭然じゃ。お主に四凶の一人が封印されてなどおらねば、今頃はその喉笛に喰らいついておるところじゃ」
僕は口元をぴくぴくさせながら笑うのを必死に堪えていた。例えるなら、猟師が仕掛けた罠に引っかかって捕らえられたマヌケな鷲が猟師に喉笛に噛みつくと言って威勢よく凄んでみたところで恐怖に慄きはしないだろう。人語をしゃべる鷲が存在していたら、の話だけど。
「千里眼様、大陸の祓い屋はまた真悟様を襲ってくるかと思われます。一刻も早く四凶のお一人様の封印を解かれた方がよいのではないでしょうか?」
「わかっておる。じゃが……」
千里眼さんは言葉を濁した。が、大きなため息を吐き出して続けた。
「儂らは封印の解き方を知らん」
処置室の空気が一瞬凍りついた。
封印の解き方も知らないのに最凶妖怪の封印を解いて人間への復讐に利用しようなんてよく考えついたものだ。あまりにも無謀すぎる。というか、何とも傍迷惑な。
でも、さっき千里眼さんが言ったように、覚さんの破天荒な行動が結果として僕の命を救ってくれた。
ここは素直に覚さんにお礼を言っておこう。
ありがとう、覚さん。
「私はただ無我夢中でやっただけです。こちらこそ私のような者にこのような恩恵を施してくださりありがとうございます」
「医者がケガ人を手当てするのは当たり前のこと。それにあなたは真悟の命の恩人のようだし」
と、母さん。
話が落ち着いてきたところで、僕は本題に入った。
『千里眼さんはどうして僕の中に妖怪が封印されていると知ったんですか?』
僕はホワイトボードを千里眼さんに向けた。千里眼さんが首を傾げる姿はどう見ても鳥類そのものだ。
「申し訳ございません。千里眼様は文字が読めません」
ごもっともな意見だった。人語がしゃべれるからといって文字が読めるとは限らない。
僕は思わず頭を抱えた。
仕方ない。これからは覚さんに通訳をお願いしよう。そうすれば、ホワイトボードに書く手間も省ける。
いいですか、覚さん?
「かしこまりました」
そう言って、覚さんがホワイトボードに書いた質問を千里眼さんに伝えてくれた。
「それは封印された主が一番わかっていることではないのか?」
僕は当時のことを覚えていないんです。
千里眼さんはやはりそうであったか、とうなずいて遠くを見た。
「あれは三年ほど前のことじゃった。儂はいつものように松の上から周囲の様子を伺っておった。すると、神社の境内で犬によく似た獣と若い男が対峙しておるのが見えた。当時、日本妖怪たちの間では二百年ぶりに大陸から四凶の一人がやってきたというウワサで持ちきりじゃった。四凶の一人は人間であろうと妖怪であろうとかまわず本能の赴くままに殺戮を繰り広げる魔獣だと畏怖しておった。儂はあれが四凶の一人であると直感した。そして、若い男は祓い屋であろう、と」
僕はゴクリと唾を呑んだ。
「若い男は四凶の一人を追い詰めた。しかし、そこに一人の童がいたために攻撃を躊躇し、四凶の一人に右腕を食い千切られた」
僕は膝の上に乗せた手をきつく握りしめた。
すべてを知りたい。
さっきまではそう思っていた。けど、いざとなったら怖気づく。鼓動が速くなる。口から心臓が飛び出しそうだ。
と。
震える僕の拳を母さんの手が優しく包み込んでくれた。母さんの手の温もりが僕の動悸を鎮めてくれた。さすがは医者だ。この時、実は母さんの方がひどく動揺していたらしく、自分の気を静めるために僕の手を握ったのだと後から聞かされた。
「四凶の一人が大口を開けて狼狽する童に襲いかかろうとした時、右腕を失った瀕死の若い男が何か叫んだ。すると、四凶の一人の体が吸い込まれるかのように童の口の中に消えていったのじゃ。おそらくは滅することが叶わず、封印するのが精一杯だったのであろう。儂は去っていく若い男を追ったが、日本中どこを探しても若い男の姿は見当たらなんだ。術のようなもので姿をくらましたのかもしれぬ。はたまた、あの深手ではすでにどこかで朽ち果てておるかもしれんがな」
千里眼さんは視線を僕に戻し、口を開けてみい、と促してきた。言われたとおりに口を開けると、千里眼さんは自由を失った翼で僕の喉の奥を指し示した。
「お主の喉の奥にぶら下がっておる物に四凶の一人が封印されておるはずじゃ」
のどの奥にぶら下がっている物?
もしかして口蓋垂のことを言っているのだろうか? つまり、僕ののどちんこに四凶の一人と言われる化け物が封印されている、と?
僕は愕然とした。よりにもよってどうしてこんな小さな口蓋垂に化け物を封印したりしたんだ?
「そこまでは儂は知らん。祓い屋の考えることなど知りたくもないわい。じゃが、今頃になってあの時の童を捜す羽目になるとは思いもせなんだがな」
千里眼さんが切なく笑ったように見えた。
そっか。三年前までは人間に復讐しようなんて考えてなかったんだな。だから、今になって僕の行方を必死になって捜してたんだ。
だけど、封印の解き方を知らないってのは、やっぱりマヌケだな。
「誰がマヌケじゃ!」
千里眼さんが目を血走らせて憤慨していた。
どうやら覚さんは僕が思っていたことをすべて千里眼さんに伝えていたらしい。
覚さん、僕の心をすべて通訳しなくていいですよ。
「かしこまりました」
そういえば、千里眼さんは備後地方の妖怪だと覚さんから聞いたけど、どこでそれを見ていたんですか?
「千里眼様はその名の通り千里先まで見通すことができる能力を持っておられます。ですから、昼間は遠くの様子をよく眺めておられます」
へえ、すごいな。
「ですが、日が暮れると近くすらまとも見ることができません」
「覚、余計なことを言うでない!」
僕は千里眼さんに気付かれないように苦笑した。
やっぱり鳥目なんだ。
だから、日が暮れて僕たちがチャイナ少女から襲撃を受けたことを知らなかったんだ。
目が見えないというのに、姿が見えなくなった覚さんのことが心配になって視界の悪い中を萬島まで飛んできたのかな?
口は悪いけど、千里眼さんは仲間思いの優しい妖怪なんだな。だからこそ、消えていった仲間のために人間に復讐しようと誓ったのかもしれない。
けど、その四凶の一人を解放することが千里眼さんにとって本当に人間への復讐になるんだろうか? 千里眼さんの話だと、四凶の一人は人間も妖怪も襲うって言っていた。つまり、千里眼さんたち妖怪も殺されてしまうってことになる。
この世から誰もいなくなることが千里眼さんの望みなのだろうか? そんな復讐、悲しすぎるよ。
「真悟様はお優しい方なのですね」
覚さんにすべてを見透かされたようで、いや、実際に見透かされているのだけど、僕は急に恥ずかしくなって赤面した。
「はい、そこまで」
ドクターストップが入って、覚さんの通訳は続行不能となった。しゃべるだけでもかなりの体力を消耗する。目を覚ましたばかりの重傷人には少し酷だったかもしれない。
ご苦労様、覚さん。
覚さんが首を小さく左右に振った。
「今度は私から質問よ」
母さんは至極真面目な表情で千里眼さんに迫った。
「封印が解けたら真悟はどうなるの?」
「……知らん」
「は?」
「封印の解き方も知らんのに封印された者がどうなるかなど知っておるはずがなかろう」
ごもっともな意見だった。
考えてもなかった。もし封印が解けて五体満足だったとしても、その場で四凶の一人に食い殺されるんだろうな。千里眼さんの気持ちはわからないでもないけど、できることならやっぱり封印は解けないでいてほしい。
封印を解かずにすべてがうまくいく方法があればいいのに。
僕が三年前のことを思い出せば、何かいい方法が思いつくかもしれない。
僕は三年前の真実を母さんと千里眼さんから聞いた。でも、すべてが明らかになったわけじゃない。謎はまだ残っている。後は僕自身が思い出すだけだった。
が。
「こりゃ、人間。儂をさっさと解放せんか!」
「うるさい。もうしばらくそこで猛省してなさい、この役立たず」
「役立たずじゃと? 儂を誰だと思うておるか! その昔、毛利元就を山陽山陰の覇者へと導いたのは他でもないこの儂じゃぞ」
「はいはい。年を取ると過去の栄光をいつまでも引きずって自慢したがるのよね」
「鷲を人間の年寄りといっしょにするでない! たかが四十年足らずしか生きておらん小娘が無礼な口を利きおって」
「ちょっと! 今のセリフ聞き捨てならないわね。訂正してちょうだい。私はまだ華の三十代よ!」
僕からしてみれば三十九歳も四十歳も変わらない気がするけど、女性にとっては死活問題らしい。
千里眼さんと母さんが不毛な口論が延々と続き、集中することができなかった。
僕は小さなため息をこぼした。