第2章 3年目の真実-1
出血の割には致命傷となる傷がなかった。
そう言って、覚さんの治療を終えた母さんは安堵の息をもらした。
診察室兼処置室は学校の保健室をほんの少しだけ大きくしたような感じで、手洗い場、薬品ケース、備品ケース、ベッドが二つ、そして、パソコンが乗っかった診療机があるだけで最低限必要なものしか置いてなかった。
田舎の小さな診療所だけど、電子カルテの導入ととびっきりの美人女医という点では他の病院には負けていないと思う。
とはいえ、午前中の待合室は受診にやってくるお年寄りたちの憩いの場所と化し、午後は目の保養にやってくる漁師たちでごった返す。夕方以降は急患でもない限り、この診療所にやってくるのは学校帰りにお菓子目的で寄り道する子供くらいである。
つまり医者を本当に必要とする人はあまりやって来ないというわけだ。まあ医者の立場からすれば複雑な心境かもしれないけど、医者が必要とされていないということはみんなが健康である証拠であって、いいことなのかもしれない。
今日は雨のおかげか、夕方から患者さんが来なかったらしい。母さんの話によると、茅結が休んでいるから島民のみんなは遠慮して来なかっただけだろう、ということだった。
茅結というのは角南茅結さんのことで、以前母さんと同じ大学病院で働いていたらしく、母さんを慕って東京からわざわざ萬島にやってきた、というか追いかけてきた宝塚歌劇団大好き二十五歳の押しかけ看護師だ。
実は看護学生時代にとある男性医師に二股をかけられていたことを知って逆上し男性医師を殺そうとしたことがあったらしい。で、その病院で働いていた母さんにそんなクソ男のために今まで生きてきた人生を棒に振ることはない、と一蹴され、まるで憑き物が落ちたかのように男性医師への憎悪と殺意は消えたらしい。
私が看護師を目指したのは人の役に立ちたかったからなのに一時の気の迷いでくだらない男に引っかかってしまって、そんな大切なことを忘れてしまっていた。それを思い出させてくれたのが杏樹先生だった。
茅結さんは僕にそう語ってくれた。
そして、二度と男を好きにならない、と。
そんな茅結さんだが、今朝実家のお母さんからおじいさんが危篤と連絡があり、緊急里帰りを強いられることになったのだった。
でも、ちょうどよかった。茅結さんも島民のみんなも巻き込まれなくて。
僕は丸イスに座って、処置室のベッドで眠っている覚さんの顔を見た。全身に包帯を巻かれた覚さんはミイラ男ならぬミイラ女だった。包帯の隙間から覗く青白かった頬には赤みが戻ってきていた。
消毒液の独特の臭いが鼻にツンとくる。
落ち着いてきたところで、僕は予備のホワイトボードとマーカーを使って母さんに礼を言った。
『ありがとう、母さん』
「これくらいのこと朝飯前よ。彼女はもう大丈夫だから、真悟は少し休みなさい」
僕は首を横に振った。
診療机の上にあるデジタル時計は十九時十七分を表示していた。物凄く長い時間のように思えたけど、あれから一時間くらいしか経ってないんだな。
『僕は大丈夫だから、母さんの方こそ休みなよ。体、大丈夫?』
「母さんの体はそんなに柔じゃないわ。医者をなめんじゃないわよ」
母さんは親指を立てて白い歯を見せた。こういう時の母さんは宝塚歌劇団のトップスターみたいにかっこよくて頼り甲斐があった。丈夫をアピールするために今にも高らかな声で歌いだしそうな勢いだ。島のおばあちゃんたちが黄色い声で騒ぐのもうなずけた。一部では鬼医者と囁かれているみたいだけど。
「それにしても、母さんビックリしちゃった。いきなり三角関係の修羅場に遭遇しちゃうなんてね。真悟、二股かけるならもっと上手にやらなきゃダメよ」
『…………』
僕はホワイトボード上でも言葉を失った。
母さんはぽかんと口を開けている僕を見て微苦笑すると、堪えていたものがドッと溢れ出してきたかの如く号泣した。まるで迷子の子供がやっとの思いで親を見つけたかのように。
母さんは医者として覚さんの治療を優先させたけど、本当は僕のことが心配でたまらなかったんだろう。あれが三角関係の修羅場でないことくらい誰の目にも明らかだ。
――次は必ず殺す!
チャイナ少女はそう捨てセリフを残して去ったけど、すぐの襲撃はない、と思いたい。彼女だって傷の手当ては必要なはずだ。
ケガ、大したことなければいいけど。
問答無用で襲ってきたにもかかわらず、僕は心の片隅でチャイナ少女の身を案じていた。
迷いのないまっすぐな瞳が今も脳裏に焼きついている。
『心配かけてごめん。僕にも詳しい事情はわからないけど、わかる範囲で母さんに説明するよ』
僕は泣きじゃくる母さんをなだめながら、ホワイトボードに覚さんが現れてからチャイナ少女に襲撃されるまでの事柄を簡潔に書き綴った。