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第1章 来訪者-2


 西の空がどんよりとしている。また雨が降るかもしれないな。

 まだ日は沈んでいなかったけど、僕は開けっ放しだった窓を閉めるとカバンを学習机の上に放り投げてベッドに腰を下ろした。

 とりあえず大きく深呼吸して息を整える。

 覚さんは着物を着崩したまま薄暗い部屋の真ん中で立ち尽くしていたかと思うと、糸が切れた操り人形のように崩折れた。

「私が下っ端妖怪だから食べていただけないのですね」

 いや、下っ端だからとかそういう問題じゃなくて。しつこいようだけど、僕は妖怪を食べる趣味は持ち合わせていないから。

「真悟様に食べていただけなかったら、千里眼様に合わせる顔がございません」

 千里眼? そいつも妖怪なんですか?

 覚さんは静かにうなずいた。

「千里眼様は備後地方の妖怪を束ねる長です。ですが、仲間がどんどんと減っていき、今は千里眼様と私の二人きりとなってしまいました」

 覚さんの瞳が悲しみで色濃くなったように見えた。

 妖怪も今や絶滅危惧種なんだな。って、妖怪が昔はどれくらい存在していたのか見当もつかないけど。そもそも妖怪の存在を知ったのだって今日が初めてだし。

「千里眼様の話によると昔は妖怪たちも人間と共存していた時代があったそうです。ですが、私が生まれた頃には妖怪は人間たちに疎まれるようになっていて、共存の道は閉ざされていました。妖怪たちは住処を失っていきました。そして、仲間たちは千里眼様の目の前から次々と消えていってしまったのです」

 覚さんは弱い声音で呟いた。

 人間たちが自然を破壊し、自分たちの都合のいいように街や道路をたくさん作ったせいだろう。その代償が地球温暖化、集中豪雨、在来種の減少。

 僕も自然破壊者の一人なのかもしれない。そう思ったら胸が締めつけられる。知っているつもりで何も知ろうとしなかった自分が恥ずかしく思えた。

「なぜ泣くのですか?」

 え?

 覚さんに言われて、僕は自分が涙を流していることに気付いた。腕で慌てて涙を拭う。

 ごめん、気にしないで話を続けて。

 覚さんは本当に気にした様子も見せず、かしこまりました、と話を続けた。

「千里眼様はついに人間たちに復讐することを誓いました。けれど、私たちにそんな力はありません。ですから、真悟様を探し出し、私を食べていただこうと」

 人間に復讐したくなる妖怪の気持ちが少しだけわかるような気がした。人間は自分さえよければ他人がどうなろうと関係ないと思う酷薄な生き物だ。でも、そうじゃない人間だっている。だから、できることなら復讐なんて愚かな行為は考えないでほしい。

 あれ? 何か論点がズレてないか?

 ちょっと待ってください。人間に復讐するためにどうして僕が覚さんを食べなくてはいけないんですか? それに、唯一の仲間である覚さんがいなくなったら千里眼さんは一人ぼっちになっちゃうじゃないですか?

「それは」

 覚さんは可憐な人差し指で僕の口元を指した。

「真悟様の中に史上最凶と謳われた四凶のお一人様が封印されているからです」

 突拍子もない言葉に僕は驚愕するというより唖然とした。

 僕の中に四凶の一人という妖怪が封印されている、と?

「そうです。三年ほど前、祓い屋が真悟様の中に四凶のお一人様を封印したと千里眼様からお聞きしております。記憶にございませんか?」

 三年前?

 僕が自殺を図ろうとしたあの日のことを言っているのだろうか?

 忘れたくても忘れられない。だけど、靄がかかったような曖昧な記憶しか残っていない。そういえば、僕が目を覚ました時、警察に事情聴取された。思い出そうとすると、心臓の鼓動が速くなり、激しい頭痛に襲われて何も答えることができなかった。

 だから、できることなら思い出したくはなかった。

 思い出したくても思い出せない病。

 僕はこの発作をそう呼んでいる。

 やばい。

 鼓動が速くなってきた。

 喉の奥が燃えるように熱く、全身に激痛が走った。

 きつく目を閉じると、引き千切られたような人の腕が雪を鮮血に染めながら転がっていくのが見えた。

 白い靄の向こうに犬のような獣の影が見えた。

 何だ、これ? こんなの僕は知らない。

 僕は目を大きく見開き、声にならない雄叫びを上げた。

 大気が震えた。

 教科書やノートが学習机ごと突風に煽られたかのように壁へと叩きつけられた。カーテンがカーテンレールごと引き千切られ、窓ガラスに大きな亀裂が生じる。部屋の中で台風が発生したみたいだった。

 一体何が起こってるんだ?

 僕の体はどうしちゃったんだ?

 体中の骨が悲鳴を上げ、バラバラに砕け散りそうだ。

 僕はこのまま死んじゃうのか?

 ダメだ、僕は母さんより先に死なないと誓ったんだ。

 死ぬわけにはいかないんだ。

 だけど。

 意識が遠のいていく。

「真悟様!」

 覚さんの声が僕の意識を引き戻し、優しく包み込んでくれた。

「どうかお気を静めくださいませ」

 覚さんの温もりに包まれた僕の体から痛みが徐々に消えていった。

 呼吸を荒げ、肩で大きく息をする僕の額の汗を、覚さんは着物の袖で優しく拭いてくれた。

 覚さん、ありがとうございます。

 僕がお礼を言うと、覚さんは狼狽したように手を引っ込めた。

「私は何という過ちを犯してしまったのでしょう。真悟様の中で四凶のお一人様が目覚めようとしていたかもしれないのに邪魔をしてしまいました」

 覚さんは青ざめた顔を両手で覆い隠した。

 何だか振り出しに戻ったような気がする。

「やはり真悟様に私を食べていただき真悟様の中に封印されている四凶のお一人様に目覚めていただくしか手段は残っておりません」

 やっと理解できた。

 つまり覚さんは僕の中に封印されている妖怪を目覚めさせるために自らを生贄にしようとしていたわけだ。そんなことをして封印された妖怪が目覚めるかどうかは定かではないけど。そもそも僕はその四凶の一人について何も知らない。

「そうなのですか?」

 覚さんは押さえていた両手をパッと広げて、僕に詰め寄ってきた。どうやら僕の心をまた覚さんに読まれてしまったようだ。着崩れた着物の襟から豊満な胸の谷間が覗いて見えた。しかし、今は邪な気持ちなどわいてこなかった。全身が萎えて指一本すら動かない。

 そんな時に限って災いは起こるものらしい。

 亀裂が生じていた窓ガラスがまるで拳銃を発砲でもしたかのような音を立てて割れた。

 同時に。

 割れた窓から人影が飛び込んできた。

「そこまでだ、《渾沌》!」

 僕の眼前に憤然として現れたのは、牛のような動物の刺繍が施された真紅色の袖なしチャイナドレスを着た一人の少女。

 チャイナドレスイコール中国人という僕の浅はかな知識を覆すかのように、彼女は流暢な日本語で力強く言い放った。

 外はいつの間にか雨が降っていたらしく、肩にかかる漆黒の髪から雫が垂れていた。殺意に満ちた黒曜石のような大きな双眸が僕を睨みつけている。チャイナドレスと同じ真紅に濡れた唇は敵意むき出しに見えた。

 好意的じゃないのは一目瞭然だ。何しろチャイナ少女の右手には黄金色に輝く柄の短刀がしっかりと握られているのだから。

 彼女が何者で何の目的で現れたのかは知らないけど、逃げないと間違いなく殺される。

 しかし、僕の体はまだ回復していない。

 やばい。このピンチをどう切り抜ければいいんだ。

「真悟様、お気をつけください。四凶のお一人様の名を呼んでおりました。おそらくこの者は大陸からやってきた祓い屋です」

 覚さんがかばうように僕とチャイナ少女の間に入ってきた。

「低級妖怪が一匹混じっていたか? ちょうどいい。お前もいっしょに滅してやる!」

 チャイナ少女は不敵な笑みをこぼすと、チャイナドレスの胸元から笹の葉を取り出して草笛でも吹くかのように唇に押し当てたまま、短刀を振りかざした。

 その時。

 僕の部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「真悟、ごめんねぇ。お邪魔かと思ったんだけど、さっき窓ガラスが割れた音が聞こえたような気がしたものだから心配になっちゃって」

 母さんだ。どうしてこんな間が悪い時に来ちゃったんだよ。

 母さん、来ちゃダメだ!

 そう叫んでも僕の声は母さんには届かない。

 最悪な場面で母さんがドアを開けた。

「下等民族が私の邪魔をするな!」

 チャイナ少女は口に押し当てていた笹の葉を母さんに向かって投げつけた。すると、笹の葉が回転を始め、小さな竜巻が発生して母さんの体を呑み込んだ。

 母さん――っ!

 母さんは壁に叩きつけられ、短い悲鳴を上げて倒れこんだ。

「真悟様、ここは私が何とかいたしますからお母様を連れて早くお逃げください」

 覚さんがチャイナ少女の右腕にしがみついていた。

 僕は何とか動くようになった両腕を使ってベッドから滑り落ち、ほふく前進で母さんに向かっていった。

 一メートルほどの距離がとてつもなく長く感じられた。

 必死に伸ばした手がやっと母さんに届きそうになった時、何かが僕と母さんの間に落下してきた。

 覚さんだった。

 銀の髪が舞い、まるで空気の抜けかかったボールのようにフローリングの上で一回跳ねてから吸いつくように倒れ伏せた。

 着物がズタズタに切り裂かれ満身創痍の覚さんは柳眉を歪めながら、必死に起き上がろうとするが力尽きてうつぶせてしまう。薄紫色の着物が朱色へとその色を変えていく。

「お役に立てずに……申し訳ございません」

 覚さんが苦痛に耐えながら掠れた声で謝った。

 僕は肩越しにチャイナ少女を振り返った。

 チャイナ少女が短刀を一振りすると、真っ白なシーツに覚さんの血が飛散した。

 どくん。

 脳裏に三年前の記憶が蘇る。

 鮮血に染まる雪。

 千切られた右腕。

 誰かの叫ぶ声。

「手間を取らせてくれる」

 チャイナ少女は舌打つと僕の髪の毛を掴んで後ろへと引きずり、仰向けになった僕の上に馬乗りになって短刀の切っ先を僕の首に押し当てた。

 どくん。

 どくん。

「自分が殺される理由がわからない、といった顔だな? 知りたければあの世で《混沌》に聞くがいい。あの世に行ければの話しだがな」

 チャイナ少女は僕を見下ろし、鼻で笑った。彼女が本気で僕を殺そうとしているのがわかった。

 殺される?

 殺す?

 どくん。

 どくん。

 どくん。

 心臓が早鐘のように鳴り響いた。

 視界が真っ白になった。

 それからどうなった僕は覚えていなかった。




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