第6章 約束-4
「やっと姿を現したか、《渾沌》よ」
啓晶さんが恍惚とした表情で僕を見ていた。
《渾沌》?
「これがあんたの目的だったって言うのか?」
顔面蒼白の勇さんは吐き捨てるように言った。
「真悟様! 真悟様!」
紫は喉が張り裂けんばかりの声で僕の名を必死に呼んでいた。
何が起こったんだ?
体に違和感がある。まるで自分の体じゃないみたいな感覚。
「この時を待っていたぞ」
僕の口から低くくぐもった声が発せられた。
僕の声じゃない。
不気味で陰湿で、人を不快にさせる。
僕はこの声をさっき聞いた。
声の主は、《渾沌》だ。
――《渾沌》はお前の肉体と同化し、取り込まれたお前の存在は無と化す。
昨夜の麗鈴の言葉を思い出した。
僕の体は《渾沌》に乗っ取られた? いや、正確には僕の精神が《渾沌》の体の中にいるというべきなんだろうか?
立場が逆転している。
もう僕の肉体は存在しないのか?
いずれは僕の精神は消えてなくなるのか?
――それは死を意味しているということだ。
死という言葉に押しつぶされそうになる。
気が狂いそうだった。
「真悟、そこにいるんだろう? 待ってろ、すぐに助けるから」
勇さんが消え入りそうな声で気丈にも雄雄しい笑みを見せた。三年前のあの時と変わらぬ同じ笑顔で。
僕は少しだけ冷静さを取り戻した。
そうだ。僕は勇さんを信じると決めたんだ。だけど、勇さんにばかり頼ってはいけない。自分でも何とか助かる方法を見つけ出すんだ。
勇さんは吐血しながらも立ち上がる。紫はこの状況に居ても立ってもいられなくなってセーラー服のスカーフを包帯代わりにして勇さんの背中に巻いた。
「すまないな」
「私にはこれくらいのことしかできません。どうか真悟様をお救いください」
「わかっている」
勇さんは笹の葉で再び右腕を形成した。
「その傷では《渾沌》を封印する霊力は残っていないんじゃないかい?」
「すべてがあんたの思い通りになると思うなよ」
「思ってなどいないさ。三年前、《渾沌》が日本人の子供の中に封印された時はさすがの私も焦ったよ。まさか二百年前と同じことが起こるとはね。運命とは皮肉なもの」
自嘲する啓晶さん。
やっぱり《渾沌》は二百年前にも日本に来たことがあったんだ。詳しいことはわからないけど、どうやらその時も日本人の中に《渾沌》が封印されたらしい。代々白家の当主が封印してきたという《渾沌》が一族以外の、しかも他国の人間の中に封印されたなんて、そんな忌まわしい過去を記録として残しているわけがない。麗鈴が知らないのも当然だ。啓晶さんがなぜそのことを知っていたのかは謎だけど。
「白家は古より《渾沌》の封印を皇帝から任命され、そのためだけに存在を許された一族なのはお前も知っているだろう? 私もその任を全うするため幼い頃から懸命に修行を積んできた。だが、当主に選ばれたのは大した霊力も持たない兄の方だった。女という理由だけで私は白家の当主になれなかった。霊力は兄より私の方が勝っていたというのに。私は自分の運命を、そして、白家を呪った。私の存在を拒絶する一族など滅んでしまえばいいと思った」
「そんな子供じみた理由で《渾沌》に一族を殺させたっていうのかよ? まさか三年前の再封印の失敗はあんたが画策したのか?」
「お前たちの父親も長兄というだけで当主になった人間だった。少し私が横やりを入れてやっただけで集中力を切らしてくれたよ」
「親父たちも浮かばれないな。血の繋がった人間に裏切られるとは」
「その血の繋がりこそが私にとっては呪いだったんだよ」
「ならば、なぜあの時にオレと麗鈴もいっしょに殺さなかった? こんな手の込んだ真似する必要はなかっただろう?」
「麗鈴に《渾沌》を再封印する霊力がないことは端からわかっていた。ただあの子を見ていると出来の悪い兄を思い出す。だからこそ、麗鈴に再封印を失敗させ、失意のどん底で絶望を与えてやりたかった」
「おばあさま、それは本当ですか?」
「それ以外にお前に何の利用価値があるっていうんだい?」
麗鈴は二重のショックを受け、うなだれる。
ひどい。
どうして人を傷つけるようなことが平気で言えるんだ?
啓晶さんは嬉々として両手を高らかに掲げた。
「さあ《渾沌》よ。今度こそ思う存分暴れるがいい。私を拒絶した世界など滅ぼしてしまえ」
「言われるまでもない」
言うが早いか、《渾沌》は啓晶さんに牙を剥いた。
「我はすべてを滅ぼす」
《渾沌》は驚愕する啓晶さんの左肩に喰らいついてほくそ笑んだ。
骨が砕ける嫌な音がした。
左肩から胸半分が大きく食い千切られた。
事切れる瞬間、啓晶さんはとても満足そうな笑みを浮かべたように見えた。
「これがあんたの望んだ結末だったのか?」
勇さんは屍と化した大叔母を見つめて切なそうに呟いた。
未だにショックから立ち直れていない麗鈴に啓晶さんの死が追い討ちをかける。茫然自失といった感じだ。
悲しすぎるよ。
人間は弱い。時には傷つけあい、憎しみあう。だけど、僕は人の優しさを信じたい。人との繋がりが失意のどん底にいた僕を救ってくれたから。
今だってそうだ。
勇さんが、紫が、みんなが必死に戦っている。
希望を捨てちゃダメなんだ。
「貴様らに希望などない」
《渾沌》は更なる絶望を僕に与えた。




