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第1章 来訪者-1


「私を食べてください」

 学校から帰宅した僕を出迎えてくれたのは三つ指ついた和装姿の女性だった。母さんじゃないことは明白だ。髪の色も長さも違う。狭い玄関一面に絹糸のような銀の髪が広がっている。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。わけでもないけど、重要なのはこの人が言った言葉だ。

「どうか私を食べてください」

 女性は淡々と復唱すると顔を上げた。

 青紫色した双眸が狼狽する僕の顔を直視していた。その瞳の色が紫陽花のイメージと重なって見えたのは、今が雨の季節だからかもしれない。青磁色した形の良い唇。顔立ちは典型的な日本美人だが、どこか異世界の住人をイメージさせるのは髪と瞳の色が黒くないからかもしれない。薄紫色の地味なデザインの着物がどこか陰のある大人の女性の雰囲気をかもし出している。二十歳前後といったところかな。

 それにしても、初対面のはずの女性がなぜうちの玄関で僕にそんなことを言うのか理解できなかった。

 他所の家と間違えてるのかな? いや、例え間違いだとして他所の家でもそんなことは普通言ったりはしないだろう。

 残念な人なのかな?

 美人なのに、もったいない。

 僕は小さな吐息をもらすと、カバンの中からA4サイズのホワイトボードとイレーザー付マーカーを取り出した。

 僕は三年前、正確には二年と五ヶ月前から声を出すことができなくなってしまった。

 心因性失声症。

 それが病名らしい。いじめが最大の要因になっていたのは明白だ。入院中に何度もカウンセリングは受けたけど、治る気配は一向になかった。

 それからというもの僕はこのホワイトボードとマーカーを使って人と対話するようになった。

「いいえ、間違えてなどおりません」

 女性は僕がホワイトボードに文字を書き出す前に、丁寧な言葉遣いで僕の疑問に答えた。

 僕は思わず顔をしかめた。

矢倉(やぐら)(しん)()様でしょう? 市立萬(よろず)(しま)中学校に通う中学三年生。現在は、島の診療所で働く母親と二人暮らし。小学六年生の時にいじめを苦に自殺しようとして失敗」

 チクリと胸に小さな針が突き刺さる。

 忘れたくても忘れられない、未だに消し去ることができずにいる僕のトラウマ。

 声を失った僕は母さんと共に東京から瀬戸内海に浮かぶ小さな離島、萬島に移住した。人口三百人足らずの、橋がかかっていない萬島には医者がいなかったせいもあって、母さんが診療所を立ち上げた時は島民総出で盛大にお祝いしてくれた。

 あの一件をきっかけに僕も母さんも変わった。

 あの日、母さんは病室のベッドの上で声にならない悲鳴を上げていた僕を抱きしめて泣きながら何度も謝った。それからの母さんは仕事の鬼をやめて、僕の話をちゃんと聞いてくれるようになった。優しく笑うようになった。

 青と緑のコントラストが織り成す自然に囲まれた萬島が、僕と母さんの絆を深めてくれたような気がした。

 僕は萬島に来てからいじめに遭うことはなくなった。同級生がいないってのもあるけど。そして、死にたいなんてバカな考えは思いつかないようになった。母さんより先に死んではいけない。二度と母さんにあんな悲しい思いをさせてはいけないと思った。何よりも人を傷つけたり悲しませたりする行為は絶対やってはいけないんだ。

 そんな風に思えるようになったのは、この島の人たちのおかげかもしれない。声が出ない僕を哀れんだり蔑んだりすることなく、普通に、いや、まるで家族のように優しく接してくれたからだ。

「そして、彼女いない暦十五年。未だに童貞」

 僕はあからさまに動揺した。マーカーを取る手がぶるぶると震えて、文字を書くことができなかった。

 声が出ていたら、こう言ってやりたかった。

 余計なお世話だ!

「申し訳ございません」

 女性は口調とは裏腹に気に病んだ様子も見せず、おもむろに立ち上がるといきなり着物を脱ぎ始めた。床に広がっていた長い銀糸が彼女の美しい裸体に絡みつく。

「どうか私を食べて怒りをお鎮めください」

 も、もしかして食べてください、ってそっちの意味?

 いきなりそんなこと言われても無理だ。第一こんな所でそんなことできるわけもないし。いや、そういう問題じゃない。この人は僕のことをからかっているんだ。初対面の人間に私を食べてくださいって言う時点ですでに普通じゃない。

 僕の脳みそは爆発寸前だった。

「私は真悟様をからかってなどおりません」

 あれ?

 気が動転していて気付かなかったけど、僕は一言もしゃべっていないのにさっきからどうして会話が成立するんだ?

「それは私が(さとり)だからです」

 自らを覚と名乗った女性は冷淡にそう告げた。

 覚、さん?

「私は人の心を読むことができる妖怪なのです」

 妖怪?

 妖怪って、のっぺらぼうとかろくろ首とか人ならざる者たちのことを言っているんだろうか? 覚さんは僕の中の妖怪のイメージとはすごくかけ離れている。だって、外見は人間にしか見えない。しかも、無表情なところがあるけど、物凄い美人の、だ。

「私は人によく似ていますが、人とは異なる者です」

 そう言われても、妖怪をこの目で見るのは初めてだし、そんな簡単には納得できない。でも、僕が思っていることがわかるってことは、やはり普通の人じゃないってことなのかな。雪女って言われたらすぐに納得したかもしれないけど。っていうか、妖怪って架空の生物だと思っていたけど、実在していたんだな。

 これはかなり衝撃的な事実だ。

 僕は半信半疑で裸体の美女を凝視した。

 やばい。理性が吹っ飛んでいきそうだ。

「後生ですから、どうか私を食べてください」

 このセリフを聞くのは何度目だろうか。

 僕は真摯な眼差しを向けてくる覚さんに抱きつかれ、押し倒された。

 微かな花の香りが鼻腔をくすぐる。

 鼻息が荒くなる。

 体が硬直していく。

 僕だって健全な男子だ。例え、妖怪であろうと裸のお姉さんに抱きつかれて平然としていられるわけがなかった。

 ましては今の僕のポリシーは、前向きに生きる、だ。ここは前向きに彼女の善意――かどうかは知らないけど――を尊重してあげるべきだ。

 僕はホワイトボードとマーカーを手から放し、覚さんに身をゆだねることにした。

 童貞よ、さようなら。

 目をゆっくりと閉じる。

 次の瞬間。

 ぐいっと口を上下に大きく引っ張られ何かが押し当てられてきた。

 はい?

 片目を開けて様子を伺ってみると、覚さんが自分の頭を僕の口の中にぐいぐいと押し込んでいた。

「さあどうぞ」

 どうぞ、って言われても。

 僕は呆気に取られた。

 どうやらこの人は本当に僕に食べてもらう気でいるらしい。あっちの意味ではなく。

「そっちの意味とかあっちの意味とかよくは知りませんが、私は生まれて百六十年ほどの若い妖怪なのでお口に合うと思います」

 百六十年? 百六十年前と言えば幕末時代。今の日本最高齢は百十五歳。彼女が人間なら長寿番付一位は確定だ

 この時点で僕はやっと覚さんは妖怪なんだと実感した。

 いや、のん気に感心している場合じゃない。

 この状況を何とかしないと。人に見られたら大騒ぎになる。

 思った時にはすべてが手遅れだった。

 ダイニングルームへと繋がっているドアが開いた。

 母さんだ。診療所に患者さんがいない時は、いつも僕の帰宅を見計らって顔を覗かせてくれる。診療所と自宅は隣り合わせに建っていて、自宅のキッチンの勝手口から診療所へはいつでも行き来できるようになっていた。東京にいた時は、学校から帰っても「おかえり」と言ってくれる人はいなかったけど、今は違う。

 しかし、今日に限っては誰もいない我が家であってほしかった。

「真悟、おかえり。今日の晩ごはんなんだけど、コハルさんがそら豆の天ぷらを……」

 白衣姿の母さんが一瞬にしてフリーズした。

 僕は慌ててホワイトボードとマーカーを拾って立ち上がると、母さんに説明した。

『母さん、落ち着いて! この人は覚さんっていう妖怪で』

 そこまで書いた時点で母さんのフリーズが解除された。

「真悟、お前って子は……」

『誤解だって! 母さんが思っているようなことは何も』

「でかした!」

 母さんはメガネの奥の双眸を潤ませながら僕の両肩をバンバンと叩いた。

 え?

「真悟ったら彼女をうちに連れてきたことないから、もしかしてあっちの趣味かと思って心配してたんだけど、健全な男の子で安心したわ。まあこの島に若い女の子がいないって問題もあるけどね」

『あっちの趣味なわけがないだろう。じゃなくて、この人は彼女じゃないんだよ』

「いいのよ、下手な言い訳しなくても。さすがに母さんもあんな場面に出くわして驚いちゃったけど、真悟のことは信用してるから」

『いや、だから』

「邪魔者は退散するから、どうぞごゆっくりと」

 そう言って母さんはドアの向こうに消えた。

 と思ったら、またすぐにドアが開いた。

「続きなら自分の部屋に上がってやりなさい。患者さんが玄関の前を通ることだってあるんだからね」

 母さんは妖艶な笑みを浮かべて再びドアの向こうに消えいった。

 三年前の僕は母さんとこんな風に笑いながら話ができるなんて想像もしてなかっただろう。過去があるから現在がある。こうして穏やかな気持ちでいられるようになったのは三年前の一件のおかげだと思うと複雑ではあるけどね。

「おくつろぎのところ申し訳ありませんが」

 僕の背後に覚さんが立っていた。覚さんの存在を一瞬だけ忘れていた。僕は慌てて脱ぎ捨ててあった着物を覚さんにかける。

 とりあえず、僕の部屋に行きましょう。あ、先に言っておきますが、僕には妖怪を食べる趣味はありませんから。

 彼女は僕の心が読めるからホワイトボードに書かなくてすむのが助かる。

 何かを言いたそうにしていたけど、僕は覚さんの手を引っ張って二階へ上がった。




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