第5章 最後の夜-1
白家は人に仇なす妖怪や悪霊などを笹の葉を用いて退治する、中国の道士で、秦の時代に封印されたという四凶の一人である《渾沌》の封印を守護する役目も担っていた。《渾沌》は代々白家の当主の胎内に封印されているため、当主の霊力が衰える前に新当主に《渾沌》を再封印になければいけなかった。その再封印の儀が行われたのが三年前だったらしい。
そして、悲劇は起こった。
再封印は失敗した。
術に落ち度はなかったとおばあさまは言っていた、と麗鈴は力説していた。おばあさまというのは、勇さんたちの祖父の妹、つまり大叔母のことらしい。
原因はわからなかったが再封印の失敗により、新旧当主である勇さんと麗鈴の父親と祖父も白家一族は自由の身となった《渾沌》に無残に食い殺された。勇さん、麗鈴、大叔母の三人を残して。
勇さんは泣き叫ぶ麗鈴を残して、即座に《渾沌》を追った。
日本にやってきた勇さんは、とある神社で《渾沌》を追い詰めた。そう僕が自殺を図ろうとした神社だ。
勇さんは《渾沌》を自分の体内に封印する術式を唱えた直後に、僕の存在に気付き、《渾沌》に襲われかかった僕を助けようとして右腕を食いちぎられた。
その時、僕は見たこともない化け物に畏怖して無様な悲鳴を上げたんだ。
思い出した。
恐怖のあまり忘却のかなたへ追いやっていた記憶が蘇ってきた。
《渾沌》はくわえていた勇さんの右腕を吐き捨てると、僕の口の中に入ってきたんだ。
巻き込んですまない、少年。だが、必ず救ってみせる。
遠のく意識の中で、重傷を負ったにも関わらず雄雄しい笑みを浮かべる勇さんの声を聞いた。
「なぜあの者の中に《渾沌》を封印したのです?」
勇さんから真相を聞かされた麗鈴は僕を指差して激昂した。
僕は三年前の記憶から現在に引き戻された。
母さんも紫も千里眼さんさえも、ただ黙って勇さんの話を聞いていた。
「実はオレにもよくわからん。一般人には《渾沌》を封印できるだけの霊力はないはずだというのに。ましてや、術式も唱えずに。まるで《渾沌》が自ら少年の中に入っていたようにも見えた」
「《渾沌》が?」
「当時のオレは周囲から百年に一度の天才などと言われて調子に乗っていたからな。しち面倒くさい儀式なんか省略してでも《混沌》は封印できると思っていた。すべてはオレの未熟な霊力が招いたことだ。だから、オレはまず傷を癒し、《渾沌》を封印するための修行を積んだ。そして、ここへやってきた」
「《渾沌》の封印なら私がやります! そのために私だってこの三年間おばあさまの厳しい修行に耐えてきたのです!」
「お前にはまだ無理だ。それに、これは白家当主であるオレの役目だ」
「今の白家の当主は私です」
麗鈴は凛とした声で言った。ツンデレ妹の面影はどこにもなかった。
「何だと?」
「お父さんが亡くなった後、勇兄さんはすぐに《渾沌》と追った。残った私が当主になった。それだけのことです」
「あのばばあの考えそうなことだな。まあオレは親父のような操り人形の当主にはなれねぇからな」
勇さんは嘆息した。
どこもお家事情がいろいろとあるんだなぁ。
勇さんって最初見た時は生真面目そうな印象を受けたけど、何だかずいぶんとアウトローな感じの人みたいだ。
「ですから、私のやることに口を出さないでください」
麗鈴は殺意のこもった闇色の双眸を僕に向けてきた。
咄嗟に紫がかばうように僕の前に立ち、負けずと麗鈴を睨み返した。
「お前、あの時の妖怪か? 人間のような格好をしているから気が付かなかったぞ」
麗鈴は目を細めて嘲笑した。
「私が滅したはずなのに、なぜここにいる?」
紫は抑揚のない口調でしゃべり出した。
麗鈴の表情が一変した。傲慢な笑みは消え、暗闇の中で怯える子供のように視線が定まらなくなる。
どうやら紫は麗鈴の心を読んだみたいだ。勇さんとの再会で動揺しているせいで、無心になれなくなったのかもしれない。
「あなたは勇様に劣等感を抱いているようですね。どんなに修行しても兄には敵わないと思っている」
「何を根拠にそのようなことを」
「私が生きていることが何よりの証拠です。あなたには妖怪を滅する能力がないのでしょう?」
麗鈴は言葉を詰まらせた。
図星のようだった。
「兄としてひとつ言わせてもらっていいか? 麗鈴に妖怪を滅する能力がないわけじゃない。確かに麗鈴の霊力はオレに比べるとずいぶんと低い。それは修行したところでどうこうなるもんじゃない。だが、身体能力だけはオレより勝っている。だから、こいつは呪術ではなく、体術で妖怪を滅してきた。あ、実体のない悪霊はさすがに無理だったけどな」
それってフォローになってるのかな? でも、勇さんの言っていることが真実なら、なぜ紫は滅せられなかったのだろうか? 確か紫には致命傷となる傷はなかった。紫が人に仇なす妖怪ではなかったから、滅することを躊躇したということだろうか? ならば、口は悪いけど本当は優しい子なのかもしれない。
「私を愚弄しないでください!」
突然、麗鈴の姿が勇さんの眼前から消えた。
次の瞬間。
麗鈴は勇さんの背後に立っていた。
「もう私は勇兄さんの知っている麗鈴ではないのです」
「そうか? オレには変わっていないように思えるが。相変わらずすばしっこいな」
勇さんは麗鈴に自分の喉笛に切っ先を突きつけられながらも軽口を叩いていた。
麗鈴の短刀は母さんが保管しているはずだ。なのに、彼女の右手には黄金色に輝く柄の短刀が握られている。まさか勇さんが持っていた短刀を奪い取ったっていうのか?
僕は千里眼さんに解説を求めた。
しかし。
「あの娘の動き、儂にも見えなんだ」
千里眼さんは頭を振って低く唸った。
「今の私は一族を守るためなら人間だって殺すことができるのです」
麗鈴は剣呑なセリフを吐くと目からビームでも出てきそうな鋭い眼光を放ち、僕を睥睨する。
今持っている短剣を投げつけてきそうな勢いだ。
「何を考えている?」
「あの者を殺し、《渾沌》を私の中に封印するのです」
「ずいぶんと剣呑なことを言うんだな。殺さなくても再封印はできるだろう?」
「おばあさまから一族以外の人間が《渾沌》を封印してしまった場合は宿主を殺して封印を解け、と教わりました」
物騒な話をまるで世間話でもするかのように淡々としゃべる麗鈴の顔を見て、僕は総毛立った。
「またロクでもないことをお前に吹き込んだもんだな、あのばばあは。そういえば、お前はこの少年の中に《渾沌》が封印されているとなぜ知っているんだ?」
「…………」
麗鈴は答えなかった。
「ばばあはオレが生きていることだけはお前には伝えなかったみたいだな」
「それはきっと私の修行の邪魔になると思って」
麗鈴は慌てて言葉を切った。
勇さんは透かさず身を翻し、麗鈴から短剣を奪い返す。
どうやら麗鈴は勇さんの誘導尋問に引っかかったらしい。ちょっぴり悔しそうな顔をしている。
そんな妹の姿を見て、勇さんは苦笑した。
「オレはこの三年間結界を張って居場所を知られないようにしていた。特に、ばばあにはな。まあオレが生きていたことぐらいは感知していただろうけどな」
「おばあさまのことを悪く言うのはやめてください。おばあさまは白家のことを思って常に行動しているのです」
「白家のことを思って、ね。これ以上話していてもキリがないな」
「そのようですね」
「明日の夜、《渾沌》の再封印を行う」
勇さんは力強い口調で告げた。
何だか風雲急を告げる展開になってきた。しかも、当事者の僕そっちのけで話が進行していっている。
封印が解かれると、僕はどうなるんだろうか? 三年前の再封印の儀式は例外として、過去の再封印の儀式は成功しているようだけど、今まで《渾沌》を体内に封印してきた先代たちはどうなったんだろうか? 死んでしまったんだろうか?
僕も死んでしまうんだろうか?
どんどんネガティブなことばかり考えている自分がいた。
やばい。こんなことばかり考えていたら、って思った時には手遅れだった。
急に胸が苦しくなってきた。
手の指先に痺れを感じる。
この感覚は、過呼吸だ。
萬島に来た頃はしょっちゅう過呼吸になっていた。久々に味わう嫌な感覚だ。
「真悟!」
母さんは数箇所穴が開いた紙袋を僕の口に当ててきた。
僕は吐いた空気をまた吸い込む。これは血中の二酸化炭素濃度を上げるペーパーバッグ法という過呼吸になった時の治療方法だ。
母さん、まだ用意してたんだ。
おかげで過呼吸はすぐに治まった。
「もう器がもたないのは勇兄さんの目にも明らかでしょう? 今夜にでも」
麗鈴は言いかけて、ベッドにいきなりへたり込んだ。
「だから、言ったでしょう。今は薬のおかげで熱が一時的に下がっているだけだと。あなたは絶対安静なのよ。あなたも兄だからといって医者の許可もなく、患者を興奮させるような言動はしないでちょうだい!」
母さんは今度は麗鈴のもとに歩み寄り、問答無用でベッドに寝かしつけると、勇さんを叱責した。
鬼医者モードが発動したみたいだ。
「あ、悪い」
勇さんはバツが悪そうに頭をかいた。
医者の母さんにかかったら、勇さんも形無しだ。
「放せ、女! 私はこんな所で悠長に休んでいる場合ではないのだ! 一刻も早く《渾沌》を再封印しなくてはならないのだ!」
「後はオレに任せて、お前は休んでいろ。どんな修行を積んできたか知らないが、再封印は明日の夜に行うのが最良だとお前も知っているはずだろう?」
「それは……」
勇さんに指摘されて言葉を詰まらせる麗鈴。
勇さんは懐から笹の葉を一枚取り出すと、口元に押さえつけ、
「縛」
短く唱えると麗鈴に投げつけた。
すると、笹の葉が縄に変化して、麗鈴の体をベッドに縛りつけた。
道士って、そんなこともできるんだ。
「勇兄さん!」
「その程度の術を解けもしないのにデカイ口をたたくな。お前はこの美人女医さんの言うとおり絶対安静にしてろ。今はここでじっくりと体力と霊力の回復を図れ」
口答えする麗鈴に勇さんは容赦なく猿ぐつわまで咬ませた。
麗鈴は不服そうに唸り声を上げていたが、勇さんは完全無視して話を進める。
「真悟、この島にも竹林はあるよな?」
勇さんに名前を呼ばれてドギマギしながら、僕はコクコクと何度も頷いた。
何だか変だけど、一瞬体内温度が上昇したんだ。
勇さんは男の僕から見てもかっこいいのは認めるけど、そっちの趣味はないと思いたい。
「真悟様」
紫が僕を支えるように右腕をぎゅっと掴んだ。
心配かけてごめん。もう大丈夫だから。どっちかっていうと、紫の方が顔色悪いけど大丈夫かい?
「申し訳ございません」
いつもの口癖をか細く呟いただけで、それ以上何も言わなかった。
妖怪退治のプロフェッショナルが二人もいると妖怪にすごいプレッシャーを与えているのかもしれない。
千里眼さんもいつになく寡黙だ。
「そういえば、さっきは何だか苦しそうにしていたが、当事者だっていうのにお前はどうしてさっきから一言もしゃべらないんだ? オレに文句のひとつでも言ってもいいんだぞ」
僕は目を瞬かせた。
今更?
「真悟は例の一件以来しゃべることができなくなったのよ。もしかしたら、その《渾沌》が喉蓋垂に封印されているせいじゃないかと、私は思っているのだけど。プロの見解を聞かせてもらえるかしら?」
「喉蓋垂に?」
勇さんが怪訝な顔する。
緊張が走り、汗ばんだ拳に力が入る。
しばし黙考してから、勇さんは口を開いた。
「口蓋垂って何だ?」
茅結さんに続いて、勇さんにまで肩透かしを食らうとは思ってもみなかった。
「口蓋垂っていうのは、のどちんこのことよ。ここ。わかる?」
母さんは柳眉を逆立てて、僕に口を開けさせると喉の奥を指差した。
「何だ、のどちんこのことか? そう言ってくれればすぐにわかったっていうのに、日本人はわざわざ難しい言葉を使うんだな」
勇さんは僕の口元を凝視した。
「《渾沌》が封印されているのはそこじゃない。ただ《渾沌》を封印した宿主は何らかのリスクを背負うことがある。じじいは聴力を失い、親父は右目の視力を失った。しゃべれないのはそのせいだろう。まあ封印を解けばわかることだ」
僕は思わず千里眼さんに視線を向けた。すると、千里眼さんはバツが悪そうに視線を背けた。たぶん僕の目が訴えていたんだろう。のどちんこに封印された、なんてどうしてそう思ったのか追求したかったけど、今はそんな雰囲気じゃないことくらい僕だって理解している。
「もうひとつ訊かせて。封印が解かれた真悟はどうなるの?」
かあさんが核心をついた。
「オレは約束した。必ず救ってみせる、と。そのために必要な準備をこれからする。真悟、竹林に案内してくれ」
勇さんは真摯の眼差しでそう答えた。
僕は信じてみようと思う。
勇さんの言葉を。