第3章 ひとときの幸せ-5
潮浦展望園。
曲がりくねった細い坂道を登った小高い場所にある、萬島に三つしかない観光スポット――僕調べ――の一つ。島の南西部に位置していて、瀬戸の海と島を眺望することができる。夕暮れ時にはロマンチックな絶景も見られる。
最近では観光スポットをアピールするために古い東屋を壊して西洋風な東屋に建て替えられた。建造したのは、もちろん板垣のおじさんだ。
僕たちは瀬戸内海を眺めながら、その西洋風の東屋でお弁当を食べることにした。
千里眼さんは人間の食べ物は口に合わん、と言って、また散飛に行ってしまった。千里眼さんの主食って、やっぱり小動物だったりするのかな? 僕の中ですっかり威厳を失っていた千里眼さんは野生的には見えない。
僕は千里眼さんが野うさぎを捕獲しようとして失敗に終わって途方に暮れる姿を想像して、思わず吹き出した。
そんな僕を見て紫がクスリと笑い声をもらした。
「千里眼様は木の実がお好きなんですよ」
へぇ、そうなんだ。意外だ。リスみたいにどんぐりを頬張っている千里眼さんは容易の想像できない。で、紫は何が好きなの?
「特に好きな食べ物はございません。私も長年山奥で暮らしていましたので、山菜やきのこなどを食べておりました」
なら、コハルさんのいなり寿司食べてごらんよ。すっごく美味しいから。
僕は弁当箱のフタを開けて、紫に勧めた。
紫はいただきます、と言ってからいなり寿司を口に入れた。そして、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「美味しいです。私、こんなに美味しい物を食べたのは初めてです」
だろう? コハルさんの作る物は何だって美味しいんだ。
僕は両手を合わせてからいなり寿司を頬張った。甘煮込んだジューシーな油揚げと酢飯が絶妙な味を作り出している。朝摘みした新鮮なゴボウとニンジンもたっぷり入っている。それだけじゃない。しいたけ、シャキシャキ食感のれんこんも入っていて、ゴマの香ばしさがますます食欲をそそる。
ましてや自然に囲まれた場所での食事は格別美味しく感じるものだ。
「真悟様、あれは何ですか?」
紫は南の方角を指差した。ビニールハウスが見えた。
あれはいちご農園だよ。萬島のいちごは全国でも有名で美味しいんだ。五月までいちご狩りができたんだけど、もうシーズンオフになっちゃったから紫に食べさせてあげられないのが残念だな。これからの季節だと、イチジクか桃かな。イチジクなんかは道を歩いてると誰かが必ずくれるんだ。紫は食べたことあるかい?
「野いちごなら食べたことはありますが」
イチジクもいちごに負けないくらい甘くて美味しいんだ。
「このいなり寿司よりもですか?」
うーん、それは難しい質問だな。コハルさんが作ってくれたいなり寿司と自然の産物を比べるのは無理だ。
「それだけどちらも美味しいということなのですね」
ナイスフォロー、紫。
こんな美味しい物が食べられるってのは幸せなことだと思うよ。
「私にもこんな美味しい物が作ることができるでしょうか?」
できるよ。何ならコハルさんに教えてもらえばいいよ。
僕がそう言うと、紫は表情を曇らせた。
「申し訳ございません」
お得意の言葉を述べると、貝のように口を固く閉じてしまった。
そこで僕はぴんときた。
もしかして、今朝僕の呼びかけに反応しなかったことと関係してる?
「今朝?」
コハルさんと話をしていた時だよ。僕、紫に話しかけていたのに全く反応してくれなかったから。
「申し訳ございません。私はまだ真悟様以外の人間の方には慣れておりませんので、普段は人の心に耳を傾けないようにしているのです。ですから、あの時は真悟様のお声もお聞きしておりませんでした」
紫は少し躊躇して続けた。
「私は以前に人里で暮らしてしたことがありました。その時にある人に読み書きを教わりました。最初のうちは私も人間との暮らしを楽しんでいました。ですが、時代と共に人々は笑顔を失っていき、心の中で怒りや恨みや妬みといった負の感情を抱くようになっていったのです。私はその感情に押しつぶされそうになり、人と関わることのない山奥で暮らすようになりました。あれ以来、私は人の心は読まないようになりました。コハル様はそんな人間とは違うとはわかっているのですが」
そうだったんだ。気付いてあげられなくてごめん。
「いいえ、真悟様が気に病まれることはございません。私のわがままです。実際、私は真悟様の心を勝手に読んでしまいましたし」
それこそ、紫が気に病むことじゃないよ。しゃべれない僕がホワイトボードとマーカーなしで会話ができるのは紫のおかげなんだし。
「そう言っていただけると、とても嬉しいです。あの……真悟様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
何だい?
「真悟様は恐ろしくはないのですか? いきなり私のような妖怪が現れたかと思えば、自分の中に……その」
四凶の一人が封印されていることが?
紫は小さくうなずいた。
恐ろしくないと言ったらウソになるけど、考えたってどうにもならないものはどうにもならない。だから、悩まないようにしてるんだ。っていうのも、ウソ。本当は怖くて怖くてたまならい。四凶の一人の封印が解かれてしまったら僕はどうなるんだろうか? 死んでしまうんだろうか? そのことばかりが頭から離れなくて今日のテストだって全然集中できなかった。
「真悟様はお強いのですね。ちゃんと自分の弱さを知っていらっしゃる」
強くなんかないよ。ただ物事を前向きに考えるよう努力しているだけ。三年前の過ちを二度と犯さないためにもね。
そんな風に思えるようになったのは、この萬島の人たちのおかげかもしれない。みんなの優しさが今の僕を支えてくれてるんだ。
「ステキな方たちが住む島なのですね、ここは」
紫は東屋から島を羨望の眼差しで見下ろした。
人だけじゃないよ。さっきも言ったけど、萬島には美味しい物がたくさんある。色鮮やかな旬の野菜や果物。その旬の食材を生かしたコハルさんたちが作ってくれる料理。そして、瀬戸内海の空気。
「空気、ですか?」
うん。僕は東京に住んでいたからね。
僕は空を仰いだ。今朝の雨がウソのような晴天だ。
東京の空はどんなに天気が良くても靄がかかったようなくすんだ青空で、こんな澄んだ青空じゃなかった。高層ビルが立ち並び、アスファルトで舗装された道路では車が排気ガスを撒き散らしながら走っている。緑といったら、街区公園に申し訳なさ程度に生えている樹木くらいだ。そんな場所の空気が美味しいわけがない。でも、東京しか知らなかった僕には、それは当たり前のことだと思っていたんだ。だから、萬島に来て、汚染されていない空気の美味しさや自然が人の心を癒してくれるものだとは初めて気が付いたんだよ。
「私は山で生きてきたのでそういった人間の気持ちはよく理解できません。ですが、真悟様といっしょに見る景色には私も心癒されるものがあります」
そう言ってくれると嬉しいよ。あ、そうだ。お弁当食べたら食後の散歩をしようか? 残り二つの萬島の観光スポットを案内してあげるよ。
「観光スポット?」
僕は北を指差した。
ここからだと見えないけど、あっちに一文字山っていう萬島唯一の山があって、そこから見る夜空がまた最高なんだ。星に手が届く、っていう感じでさ。まあ今は昼間だから星空は見えないけど、一文字山から見る瀬戸内海も絶景だよ。
「ステキですね。見てみたいです。でも、大陸の祓い屋がいつ襲ってくるかわかりませんし、今日はもうお帰りになった方がいいのではないでしょうか?」
できれば、襲ってきてほしいんだけど。
紫が怪訝な顔をした。当然の反応だ。
誤解しないで。あのチャイナ少女が僕ののどちんこに四凶の一人を封印した男の人と同族なら封印の解き方を知っていると思ったからなんだ。
「ですが、あの娘は真悟様を殺そうとしました。封印の解き方を知っているとは到底思えません。第一、話をする機会など与えてくれはしないでしょう」
知らないかもしれないし、知っているかもしれない。さっきも言っただろう。僕は前向きに考えたいんだって。だから、少しでも可能性があるのなら、それに賭けたいんだ。
「真悟様がそこまでおっしゃるのなら。万が一の時は私が身を挺して真悟様をお守りいたします」
紫は生気に満ちた熱い眼差しを僕に向けてきた。
僕はそんな紫を見て苦笑した。
人間に命を狙われて、妖怪に命を守られる。変な話だな。
ありがとう、紫。でも、僕のために紫が傷つくところはもう見たくないんだ。それに今回は千里眼さんっていう心強い用心棒がいることだし。
「あ……」
紫は小さな声を上げて顔を引きつらせた。ホント、表情が豊かになったなぁ。いや、今は感心している場合じゃないんじゃないのか? 紫はどういう意味で顔を引きつらせたんだ?
「実は千里眼様は遠くを見ることができるだけで、殺傷能力は持ち合わせてはおりません。ですから、大陸の祓い屋が襲ってきても何もできないかと」
紫は消え入りそうな声で申し訳なさそうに言った。
千里眼さんって妖怪の長なんだよね?
「はい。今は」
今は、って、いつから?
「仲間がいなくなり、千里眼様と私の二人だけになってからですから、七十年くらい前でしょうか」
僕は茫然自失した。千里眼さんってお人好しで情に絆されやすいタイプっぽいから、妖怪たちにおだてられて面倒な役割を押しつけられたのかと思っていたけど、棚ぼた的に長の地位を得とくしていたとは思いもしなかった。そもそも二人だけしかいない妖怪の間に長という存在が必要なのかどうかはいささか疑問ではあるけど。
「あ、真悟様。このことは千里眼様には内緒にしておいてくださいね」
僕もその方がいいと思ったよ。これ以上千里眼さんの機嫌を損なうのは得策とはいえないからね。正直、千里眼さんをおだてるネタもあんまりないし。
「そうですね」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
危機感がない、ってまた千里眼さんに叱られるかもしれないけど、こうして紫と過ごす平穏な時間を何よりも大切にしていきたかった。
初夏の日差しが火照った頬をチクチクと刺激する。
ねぇ、紫。これから先どうなるかなんてわからないけど、住むところがなくなったんならここで暮らせばいいんじゃない?
「私が、ですか?」
紫にしては珍しくきょとんとした顔をしている。
萬島は妖怪にも住みやすい環境だと思うんだ。消えてしまった仲間は戻ってこないかもしれないけど、千里眼さんだって自分の住処があれば人間に復讐しようと思う気持ちがなくなるかもしれないし。
「そうですね。千里眼様もこの島は気に入っているようですし、何よりこの島なら仲間たちも戻ってきてくれるかもしれませんね」
え? 死んじゃった妖怪って復活できるの?
「仲間たちは他の地に移り変わっただけで死んではおりません」
えぇーっ?
僕は胸中で素っ頓狂な声をあげた。そして、あの時言った紫の言葉を思い出していた。
――仲間たちは千里眼様の目の前から次々と消えていってしまったのです。
死んだとは言っていない。
「千里眼様は争いを好まない方でした。当時の長は人間たちと戦う道を選び、反対した千里眼様を残して去っていってしまったのです。それから間もなくして人間同士の戦争が起こり、仲間たちは行方知れずとなってしまいました」
紫は瞳の色を悲しみで曇らせた。
確かに千里眼さんは人と争えるような性格の持ち主ではない。殺傷能力は持ち合わせていないのだから当然といえば当然だけど。マヌケでおだてに弱くて、すごく仲間思いの妖怪なんだ。そんな千里眼さんを追い詰めてしまったのは他でもない僕たち人間だ。因果応報ってやつなのかな。
そう考えると、切ない。
「ご自分を責めないでください。おかしな話ですが、千里眼様が復讐すると言い出さなければ私はこうして真悟様とお会いすることはありませんでした。私は真悟様に出会えたことがとても嬉しいのです。こんな気持ちになったのは初めてです」
紫ははにかんで頬を朱色に染めた。
風が潮の香りを運んできて、紫のおさげ髪を小さく揺らした。
コバルトブルーのキャンパスに白い油絵具で描いたような輪郭がハッキリとした雲。
太陽の光に照らされてキラキラと水面を輝かす海。
まるで毬藻のように点在する小さな島々。
図書室でも思ったけど、いつも見慣れている景色がこんな風に神秘的でキレイに見えるのは紫がそこにいるからなのかもしれない。
僕は紫から目が離せずにいた。
そうだね。複雑な心境だけど、こうして紫に出会えたのは千里眼さんのおかげかもしれないんだね。
「はい。すべて千里眼様のおかげです」
「何が儂のおかげなんじゃ?」
タイミングが良いというか悪いというか、千里眼さんが散飛から戻ってきた。
ここでこうして美味しいお昼ご飯が食べれたのは偵察してくれている千里眼さんのおかげだな、って言っていたんですよ。
「お主は母親と違って儂の価値がよくわかっておるようじゃの」
千里眼さんは優越感を抱いたのか、うんうんと大きくうなずいた。
僕は吹き出しそうなるのを必死に堪えて頬を引きつらせた。
紫はうつむいて体を震わせていた。
「何じゃ、お主ら。何がそんなに可笑しいんじゃ?」
さすがの千里眼さんも気付いたらしい。
やばい。ここは話題を切り替えた方がよさそうだ。
僕は紫に一文字山へ行くことを告げてもらった。
すると。
「お主には危機感といったものが全くないようじゃな」
予想通りの言葉が返ってきた。
「日が暮れると儂の目が利かなくなる。そうなる前に家に帰るのじゃ」
これは予想外だった。日が暮れる、って今は昼の一時過ぎだ。日照時間が長くなっている今の時期、日が暮れるまでには萬島を徒歩で一周してもまだまだ時間に余裕がある。
大見得を切って用心棒を買って出たはいいけど、やはり千里眼さんも不安なんだろうな。
仕方ない。ここは年長の意見を尊重しよう。
ごめん、紫。一文字山はまた今度ということで。その時は星空を見に行こう。
紫は小さくうなずいた。
昼食タイムを終えた僕らは帰路に着くことにした。
だけど、この時の僕にはちょっとした悪戯心が芽生えていたのだった。