第3章 ひとときの幸せ-3
その日の正午。
期末テスト初日を終えた僕は、校内の図書室に向かった。
大正時代に建てられたという木造校舎のロウカは歩くとお化け屋敷のような軋んだ音を立てる。数年前に小・中学校が統合され、元々中学校だった校舎を共有するようになったけど、ピーク時には中学生だけでも三百人を超えていたことがあったらしい。その頃は校舎も生徒たちの活気で溢れかえっていたんだろうなぁ。
そう考えると、一人で校舎の中を歩くのは何だか寂しい。
降っていた雨は二時限目の英語のテスト中に止み、今ではロウカに暖かい日差しが差し込んできている。僕は自分の影と追いかけっこしながら図書室へと急いだ。
立てつけの悪い引き戸を開けて図書室に入ると、紫は窓際の席で勤勉な女子高校生のように真摯な眼差しで何かの本を読んでいた。今回も板垣のおじさんのおかげで先生に説明する手間が省け、僕がテストを受けている間は図書室で待っていればいいという話になったのだった。
紫を見ていると、母さんのセーラー服を着ているせいなのか、古びた校舎のせいなのか、それとも図書室特有の本のにおいのせいなのか、自分が昭和時代にタイムスリップしたような錯覚を覚える。
不思議だな。いつも来ている見慣れた図書室なのに、紫がいるだけで別世界のように見えるなんて。
紫、待たせてごめん。
そう心の中で思いながら紫に近付いたのに、紫は読書に夢中になっていて全然気付いてくれなかった。
何を読んでるんだろう?
僕は紫の横からそっと覗き込んだ。
それは鬼退治のスペシャリスト、桃太郎の絵本だった。図書室も小学校と共有しているのでこういった絵本が何冊か置いてある。
物語はすでに終盤で、鬼を退治した桃太郎がイヌ、サル、キジの三匹のお供を従えて、鬼の宝物を持っておじいさんとおばあさんも元へ帰るところだった。
おじいさんとおばあさんは桃太郎の無事を喜んでみんなで仲良く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
というハッピーエンドで終わるはずなのだが、紫は鬼の宝を荷車に積んで運んでいる桃太郎の絵を凝視したまま、次のページへ進もうとはしなかった。
怒っているような悲しんでいるような、感情的にはどちらもいいとはいえない複雑な表情を浮かべている紫に、僕はまたしても声をかける――しゃべれないけど――タイミングを失ってしまった。
どうしよう? 出直してきた方がいいかな?
紫の後ろで右往左往していると、机の角にカバンをぶつけてしまい静寂の図書室に無粋な雑音を響き渡らせてしまった。
紫はビクっと肩を震わせ、慌てて本を閉じた。そして、ゆっくりと振り向き、僕と目が合うと、雪肌の顔を一瞬にしてゆでだこのように真っ赤に変貌させた。
こんなに動揺した紫を見たのは初めてで、何だか初々しくてかわいかった。
「し、真悟様? いつからいらしたのですか?」
ちょっと前、かな。
「私としたことが真悟様をお待たせさせるような真似をしてしまって本当に申し訳ございません」
気にしなくていいよ。紫の方が長い時間僕をずっと待っていたんだから。それより退屈じゃなかった?
「本を読んでいましたので」
そういえば、桃太郎まだ読み終わってないよね? 急がないから最後まで読んでいいよ。
紫は桃太郎の絵本を一瞥してから首を横に振った。その表情はどこか虚ろで儚くて、寂しそうだった。初めて会った時のことを思うと、ずいぶんと感情を表に出すようになっていた。でも、できることなら悲しい顔は見たくない。
「真悟様は桃太郎の話はご存知でしょうか?」
ほとんどの人が知ってると思うよ。いろんな説があるみたいだけど、一般的な桃太郎はその絵本の話じゃないかな?
「私は桃太郎の前に一寸法師を読みました。なぜ鬼は退治されなければいけなかったのでしょうか?」
悪いことをしたからじゃない?
「それは真実でしょうか?」
そこまで言われると自信がなくなってくるけど、厳つくて怖い顔をしているから悪者に見えるのが人間の心理といったところだろうか。
「真悟様も他の人間と同じように外見で善し悪しを判断してしまうのですか? 私の知っている鬼たちは人を襲ったりしない心根の優しい者たちばかりでした」
怒気のこもった強い口調に、僕は一瞬たじろいだ。
僕は外見のせいでいじめに遭った人間だ。小学六年生の頃の僕は吹けば飛んでいきそうなひ弱な子供だった。当時の写真を見ると自分でも気色が悪いって嫌悪するくらいだ。今では身長に見合った均整の取れた体型になったつもりではいる。おかげで、外見で人を判断することはしないようにしている。ハッキリと断言できないところが情けないけど。
紫の知っている鬼は良い鬼ばかりだったんだね。人間だって善人がいれば悪人がいる。それは鬼も妖怪も同じなんじゃないかな? 紫が怒る気持ちはわかるけど、ここにある絵本だけが鬼のすべてを書いているわけじゃないって知ってほしいんだ。例えば、秋田県にはなまはげっていう災いを祓い祝福をもたらす良い鬼だっている。
「真悟様のお心も知らず、我を忘れて不躾なことをお訊きして申し訳ございませんでした。私は……」
紫はその場で土下座して深々と頭を下げた。
そんなことしなくていいよ!
僕は床に伏せた紫の手を引っ張って立たせた。
「あの本を読んでいると、私も人間に退治されるのではないかと恐ろしくなったのです。今までそのようなことは考えたことなど一度もなかったというのに、真悟様が私を退治しようとするのではないかと思ったら胸が苦しくて苦しくて張り裂けそうになるのです」
怯えた表情を浮かべて涙を流す紫を、僕は抱きしめずにはいられなかった。不安になった時は人の温もりが恋しくなる。人間だとか妖怪だとかそんなの関係ない。抱きしめることで、紫の不安を払拭してやりたかった。金曜日の夜、激痛に襲われた僕を紫が抱きしめて落ち着かせてくれたように。
紫の体はやわらかくて温かかった。
「真悟様……」
大丈夫だよ、僕が紫を退治するわけないだろう。紫は僕の命の恩人なんだから。
「大陸の祓い屋が来た時、私は殺されたと思っておりました。でも、杏樹様のおかげでこうして生きながらえることができました。今の私は命を失うことが恐ろしくたまらないのです。真悟様と離れてしまうことが悲しくたまらないのです」
僕だって紫と離れるのは悲しいよ。だから、チャイナ少女が襲ってきても自分の命を捨てて僕を守ろうなんてしないでほしい。みんなで生き延びる方法を考えようよ。
「はい」
紫は小さくうなずいた。
そして、
「あの、少しお力を緩めてもらえないでしょうか?」
小声で申し訳なさそうに言った。
僕は紫を抱きしめたままだったことをすっかり忘れていた。
あ、ごめん!
慌てて紫との距離をおく。何だか気恥ずかしくて紫と目が合わせられない。
我ながら柄にもないことをやってしまった。誰もいなくてよかった。
と思っていたけど、残念なことに傍観者はしっかりと存在していた。
「お主らさっきから何をやっておるんじゃ?」
開いた窓の桟にはジト目の千里眼さんがいた。
僕の肩の上でじっとしていた苦痛から解放された千里眼さんは、歓喜して偵察という名目の散歩ならぬ散飛に出かけていたのだった。口封じの包帯は、窓ガラスを割ったという冤罪を着せられた千里眼さんにちょっとだけ同情した僕が解いてあげたのだった。
「せ、千里眼様、いつからいらしたのですか?」
僕が思うより先に紫が口を開いた。
「大陸の祓い屋がどうのこうのといった件からかのぅ。そもそも覚が滅せられなかったのは大陸の祓い屋の腕が未熟だったに過ぎん。人間に恩義を感じるなどお門違いじゃ。お主は昔から人間には……」
それから延々と千里眼さんの説教が始まった。
包帯を解いたのは失敗だったかもしれない、と僕は後悔した。