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第3章 ひとときの幸せ-2


「真ちゃん、おはよう」

 通学路をしばらく歩いていると恵比寿様のような満面の笑みを浮かべた農作業服姿のおばあちゃんが僕に声を掛けてきた。

 小森コハルさん。百歳は超えているらしいけど、背筋がぴんと伸びた元気なおばあちゃんだ。みんなからは「島の生き字引」と言われている。コハルさんは一人暮らしで、庭先の畑――普通の畑くらいの広さはあるけど――でいろんな野菜を育てている。診療所から三十メートルほど離れているけど一番のご近所さんで、自分の庭で採れた野菜を使った料理をよく差し入れしてくれる。そして、学校に行く僕をいつも見送ってくれる。それは雨が降ったからといって変わることはない。

 祖父母というものを知らない僕にとって、コハルさんはおばあちゃんのような存在だった。

 コハルさんを見ていると、東京にいた頃に通っていたお弁当屋のおばちゃんを思い出す。当時の母さんは帰りが遅かったので夕飯はいつも弁当で済ませていた。そんな僕を哀れに思ったのか、おかずを一品サービスしてくれていた。恰幅のいい優しいおばちゃんだった。

 僕がカバンからホワイトボードとマーカーを取り出すと、紫は機転を利かせて傘を持ってくれた。

『おはようございます。この間はそら豆の天ぷらありがとうございました。すごく美味しかったです』

「あれくらいどうってことないよ。それよりもその日は大変だったみたいじゃね。それかい? 真ちゃんの部屋の窓ガラスを割ったっていうマヌケな鷲は? 首輪をしているところを見ると本当にペットしたんじゃねぇ。さすがは杏樹先生、寛容じゃわ」

 コハルさんが僕の左肩にまるで置物のように鎮座している千里眼さんを指差した。

 実は、母さんが考えた設定は紫のだけではなかった。千里眼さんのもちゃんと用意していたのだ。僕の部屋の割れた窓ガラスを修理してもらう際に、雨の中路頭に迷って突っ込んできた鷲をペットとして飼うことにした、と島の便利屋さんである板垣のおじさんにそう説明したのだった。

「嘴でもケガしたんかい?」

『まあそんなところです』

 僕は苦笑した。

 千里眼さんはしゃべらないようにと母さんに嘴を包帯で巻かれていた。まさにこれが本当の口封じだ。それがなければ今頃、誰がマヌケな鷲じゃ、と激昂しているところだ。実際、僕の肩の上で嘴をモゴモゴさせて羽根をバタバタしてイラつかせているのが何よりの証拠だ。

「で、そっちのべっぴんさんが東京から療養にやってきたっていう親戚の娘さんかい? 可哀想に。まだ若いのに髪の毛が真っ白じゃないかい」

 コハルさんは紫へと視線を動かす。

 正確に言うと、白髪じゃなくて銀髪なんだけどね。しかも、親戚っていう設定がいつの間にか付け加えられている。

 さすが島の歩く電波塔、板垣のおじさん。あっという間に広まっている。なぜだか尾ひれがついているけど。っていうか、板垣のおじさんの習性を見事に逆手に取った母さんもさすがだ。おかげで紫と千里眼さんの説明をする手間が省ける。

『うん、そうなんだ。紫って言うんだ』

 紫、コハルさんにあいさつして。

 僕の心を読んでいるはずの紫なのに、いつまで待ってもコハルさんにあいさつしなかった。

 紫?

 僕は横目で紫を見た。

 紫はまるで蝋人形のように無表情のまま立ち尽くしていた。

 僕は肘で紫を突っつくと、アイコンタクトで僕の心を読むように伝えた。が、知り合って日にちが経たない僕らの間にそんなものが通用するわけもなく、紫は相変わらず立ち尽くしたままだった。

「何の病気かは知らんけど、この島におればすぐに元気になるじゃろうけぇ。安心しんさいや」

「ありがとうございます」

 紫が頭を下げた。

 このまま何も言わなかったらどうしようと不安に思っていただけに、僕はちょっとだけ安堵した。

「そういえば、ちーちゃんのおじいさんはどうなったんね?」

『あれから何の連絡もないんです。この様子だと当分は帰ってこれないかも』

「なら、今日も診療所へ行くのは止めとこうかねぇ」

『行ってあげてください。誰も来なかったら母さんが寂しがりますから』

 元気な人に病院に行けと勧めるのも変な話だ。だけど、コハルさんにとって診療所で母さんと話をすることが楽しみのひとつになっているので、それを奪ってしまうのは忍びない。今では診療所は病院というよりは島民の憩いの場所になっているわけだし。

「それじゃ、ゴボウとニンジンたっぷりのいなり寿司を作って、昼に杏樹先生といっしょに食べるかねぇ」

『僕の分はちゃんと取っておいてくださいよ。母さん、全部食べちゃうから』

「わかっとるよ。べっぴんさんの分ものぅ。ところで、気になっとたんじゃけど、何で相合い傘しとるんね?」

 コハルさんに突っ込まれて、僕は動揺しまくった。さっきまで意識してなかったのに、急に紫といっしょに傘の下にいることが恥ずかしくなった。

 紫は相変わらずの無表情なだけに狼狽しまくっている自分自身が醜態をさらしているように思えて、羞恥心で顔がみるみる火照っていくのがわかった。

『いや、これはその……別に相合い傘しているわけじゃなくて。家に傘の予備がなくて、だから仕方なく』

 傘の予備がないのは事実なのに、何だかヘタな言い訳しているようで情けなかった。

「なら、これ使いんさい」

 そう言って、コハルさんは自分が差していた傘を押しつけてきた。

『でも、それだとコハルさんが濡れちゃいますよ』

「うちには傘はなんぼでもあるんじゃけぇ気にせんでええよ。ほら、早よう学校行かんと遅刻するで」

『ありがとう、コハルさん。じゃあ、いってきます』

「気ぃつけていっておいで」

 コハルさんに見送られて、僕たちは再び歩き出した。コハルさんから借りた傘は僕が差すことになった。紫は僕の傘を差して、僕の三歩後ろを歩いていた。

 紫。

 名前を心の中で呼んでみたけど、やっぱり反応がなかった。

 どうしちゃったんだろう? 母さんは完治したって言っていたけど、どこかまだ痛むのかな?

 気になった僕は足を止めて、振り返った。

 すると、いつの間にか軽四ワンボックスカーが紫の後ろに停まっていた。

「朝から二人で登校とは仲がいいのぅ」

 運転席の窓から角刈り頭の板垣のおじさんが細い目をさらに細くしてニヤニヤした顔を出してきた。

「独身には目の毒じゃ、こりゃ」

 板垣のおじさんは萬島生まれ萬島育ちでこよなく萬島を愛している三十七歳。実はおじさんと言うと怒られる。未だに独身なのは、自分の理想の女性がいないから、だと言っていた。そんな板垣のおじさんにも三年前についに理想の女性が現れて、プロポーズしたことがあるらしい。でも、二つ返事で断られたらしい。そのプロポーズの相手が僕の母さんだったを知った時は仰天した。あの母さんのどこに理想の女性像が見出したのかは謎のままだ。しかも、板垣のおじさんはあきらめていない。使われていない古民家を診療所にリフォームしてくれた板垣のおじさんは、家の健康診断と称しては母さんに会いに来ている。息子の僕としては母さんのことはきっぱりとあきらめて新しい女性を見つけてほしい。板垣のおじさんのことが嫌いじゃないだけに。

 今朝も雨が降るから修理した窓が気になって見に来ました、とか言って母さんに会いに行ったんだろうな。

「いやぁ、明け方から急に雨が降り出したもんじゃけぇ、修理した真悟の部屋の窓が気になってさっき真悟の家に寄ってきたんよ」

 がははは、と野太い声で笑う板垣のおじさん。

 わかりやすい性格だなぁ。いい人だけに、母さんにはもったいない。窓ガラスの修理代だって超格安にしてくれたに違いない。

「これから中学校の講堂の雨漏りの修理に行くけぇ、ついでに送っててやるわぁ。早ぅ乗れぇや」

 半ば強制的にワンボックスカーに乗せられて僕たちは学校へ行くこととなった。

 紫にコハルさんといる時のことを訊くタイミングを完全に逃してしまった。



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