プロローグ
死にたい。
死にたい。
死にたい。
そうだ、死んでしまおう。
今までどうしてそんな簡単なことに気が付かなかったんだろう。
死ねばきっと楽になれる。
当時、小学六年生の僕が永遠に続く苦痛から逃れるための手段はこれしか思いつかなかった。
どちらかというとひ弱そうに見える僕は小学六年生になって成長期と共に背だけが一気に伸びてそのひ弱さにますます拍車がかかり、クラスメイト数人からいじめを受けるようになった。
最初のうちは「キモい」だの「バイ菌」だのといった罵詈雑言を浴びせてくるだけだった。だけど、それが徐々にエスカレートしていったのは蝉の鳴く声を聞きながらエアコンなしの部屋で汗水流して宿題を敢行した夏休みが終わり、二学期が始まった頃からだった。
靴やカバンはどこかに隠された。
教科書やノートを破り捨てられた。
下校中に待ち伏せされて男子数人に殴られた。
給食時間に牛乳を頭からかけられた。
お金を要求されたこともあった。
定番いじめのオンパレードが毎日のように繰り返された。
いじめている人間は自分がやっている行為をいじめと認識していない。だから、人が傷付くことをやってもヘラヘラと笑っていられるんだ。
いじめられたことのない人間だって同じだ。いじめられる人間の気持ちなんて考えたこともないんだろう。だから、クラスメイトたちは僕がいじめられているのを見ても平気な顔をしていられるんだ。
それは担任の女教師も同じだった。いじめに遭っていると勇気を出して告白しても、いじめられている気がしているだけじゃないの? もうすぐ卒業するんだからそれくらい我慢しなさい、と平然とした顔で言われた。
母さんは仕事が忙しいと言って僕の話を全然聞いてくれない。
僕には父さんという存在は最初からいなかった。
誰も僕を助けてくれない。
――自分を救えるのは自分だけ。
どこかで聞いたことのある言葉が僕の背中を押した。
僕はオレンジ色に染まった学校に背を向ける。
天から降り注ぐ氷の結晶が紅潮した僕の頬に張り付き、キンキンに冷えたアスファルトが足に激痛を与える。
僕は足元に視線を落とし、今朝は真っ白だったはずの泥色の靴下――靴はいつものようにどこかに隠された――を脱ぎ捨てると、一心不乱に駆け出した。
寒さなんて感じなかった。
感じるのは心の痛みだけ。
でも、もうすぐ何も感じなくなる。
すべての苦しみから解放されるんだ。
僕は何度も人や物にぶつかりながら、神社へ向かった。下校途中にいつもお参りしていた名前も知らない小さな神社だ。
どうか明日からいじめられませんように。
僕は神様にお願いした。
結局は神頼みも徒労に終わった。だから、僕は死に場所にここを選んだ。ささやかな報復のつもりだった。
僕はランドセルからなわとびを取り出して首に巻くと、拝殿の手すりにくくりつけた。
後は僕がこの手すりから飛び降りればすべてが終わる。
ここで僕はただの肉塊へと変わる。
僕は最後に大きく深呼吸をした。
次の瞬間。
口の中に何かが入った?
「!」
僕は足を滑らせて手すりから落下した。
目を覚ました僕が最初に見たのは、蛍光灯のぼんやりとした明かりだった。
ここは天国なのか?
それとも、地獄なのか?
「真悟、目が覚めたの? 母さんがわかる? 真悟、真悟!」
母さんが半狂乱状態で僕の名前を呼んでいた。
久しぶりに見る母さんは鼻水を垂らし大きな声で泣きじゃくっていた。息子の僕が言うのも何だけど、母さんは宝塚歌劇団の男役みたいに凛々しくてかっこいい女性だ。しかも、沈着冷静、というか感情を表に出すことをしないクールな性格の持ち主だ。そんな母さんが人目もはばからずに醜態を曝け出しているのを初めて見た。
どうやら僕は自殺に失敗して、病院のベッドの上で寝ていた。
僕は点滴の針が刺さっていない左腕をゆっくりと動かして、首に手を当てた。包帯が巻かれていた。
そうか、僕は死ねなかったのか。
やっぱりここは地獄だ。
明日から僕はまたあいつらにいじめられるために学校へ通わなければいけないのか?
そう思ったら急に胸が締めつけられて苦しくなった。
涙が止め処なく溢れてくる。
気が狂いそうだ。
「真悟、どこが痛いの? 真悟?」
心配した母さんが僕の手を握りしめてくる。
僕は母さんの手を払いのけて、胸をかきむしりながら雄叫びを上げた。
誰か僕を殺してよ!
が。
その言葉は誰の耳にも届かなかった。
声が出なかった。
僕は命と引き換えに声を失ったようだった――。