Episode07【岩戸神楽】その⑨
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古びた木材の肌触りは、その建物の過ごした年月を物語っていた。
時折引っかかる粘着質な糸を払いながら、手足を前後に動かし前方を見つめる。動きにくい着物にも似た装束だというのに、それを一切きにすることなく悠々と匍匐前進で進むのは太陽童女☆アマテラス。思考がキラメキ過ぎて現在進行形で困ったちゃんな、私の雇い主のお姉さんである。
結論から言えば、貞操は無事奪われずに済んだ。
”お前に好き勝手させると儂の報酬がなくなってしまう”と、火具槌さんが頑張ってくれたおかげか、紆余曲折あってベリアルさんのページを1枚プレゼントするという結果に落ち着いたのだ。そもそも、ベリアルさん本書の許可云々はいいのかと聞かれればーー、
ーーわたしは さよの もの。
頬を染める代わりにピンク色のインクを滲み出しながら答えてくれたので問題無いのだろう。まだ照れているのか、表紙の一部が桃色に滲んでいます。蛍光液で落ちますかねこれ?
犬が先立ち、童女が進み、私が追う。黙々と暗く狭い通路を這っていると、カタリと何かが外れたような音が聞こえた。
先に習い狭い通路から這い出れば、ゆらゆらと蝋燭の影絵が浮かぶ廊下へと繋がっていた。古い武家屋敷にありがちな、薄暗く煤けた廊下だ。今のご時世、電灯ではなく蝋燭で燈を灯しているところが余計にそれを増長させる。
さて、そろそろ白状しよう。
只今、私こと秋月小夜は秋山香織邸ーーもとい火野邸内部へと潜入中なのであった。
「何度か改築している筈じゃから、築五百年というところかの。じゃが、建物の基礎や柱は初期のものを使っているから溜め込んでいる神秘の総量は中々のものじゃよ」
足を踏み出すと、軋り、軋り、と床板が鳴き声をあげた。先導するお犬様の言う通り、相当古い建物のようだ。おそらく、しかるべきところに申請すれば一発で文化財登録されるだろう。
「ほれ、こっちじゃ。しっかりと儂の後ろを付いてこないと、壁から異界に引きずり込まれるぞ。長い年月を過ごしたものには色々と神秘も宿るが、性根が歪んだりするからの」
「いや、突然恐ろしいこと言わないで下さいよ! えっ、香織の実家ってそんな魔窟じみたところだったんですか!?」
「儂が封印されている時点で今更じゃよ。そもそも……今は魔術と呼ぶんじゃったか。魔術に関わっている家なんぞ大概魔窟じゃ。というか、普段お主はここ以上にとんでもないモノと関わっているじゃろうが。何故この程度で驚く必要がある?」
いや、とんでもないモノと言われましても。
イマイチ火具槌さんの言葉の意味が理解し難く小首を傾げていると、服の背中の裾を引っ張られた。反射的に振り返れば、満面の笑みを浮かべる天照さん。
「さーちゃんさーちゃん、アレ見て!」
「……アレ?」
と、天照さんが指を差すのは薄暗い通路の先。はっきりとは見えないが、丁度曲がり角になっている場所。そこに、
「……日本人形?」
赤い着物を着せられた全長五十センチほどの市松人形が鎮座していた。
ーー既にこの時点で、思わず身体が硬直した。
生気を感じさせない無機質な眼球が、此方をじっと射抜いている。
ーー頬が引きつり、背筋を氷で撫でられたような寒気が走る。
精巧に造られた童女の口元がゆっくりと三日月を模るように裂けていく。
ーー下腹部から股下にかけてを見えない衝撃が襲った。やばい、これ尿意だ。
錆びた歯車のようなぎこちない動きで石膏の首を傾げると、何を言葉に出す訳でもなく輪郭を朧げに歪めていく。
ーー声帯が、声にならない引き攣った音を立てた。
人形は、そのまま崩れるように廊下の暗闇に溶けていった。
「ーーひっ!?」
咄嗟に、天照さんに抱きついた。涙目を浮かべながら童女に抱きつく女子高生という見た目的にはみっともない構図だが、なり振り構っている余裕なんてものはなかった。
駄目だ。
今のは駄目なやつだ。理屈云々や理由などという前に本能が拒否している。アレは、本当に”良くないモノ”だ。
「見れた? 今のは凄く珍しいよ! 正真正銘の悪霊って呼ばれる霊体だ。ヒトから生まれた亡霊なんかと違って国産みの時代から存在する神霊だよ! てっきり、とっくの昔に絶滅したと思ってた!」
レアモンだよレアモン! と、はしゃぐ天照さんではあるのだが、私はそんな場合じゃない。
いや、もう、ぶっちゃけ本気で漏らしそうになりました。
「安心せい、儂か天照の近くに居れば襲っては来ぬよ。この建物は異界化し過ぎて火野の人間も安易に立ち入らない場所じゃからな。外界から切り離されたような場所になり、偶にああいった類のモノが迷い込んだり住み着いたりするのじゃよ。ほれ、先を急ぐぞ」
「ひぃ! よ、よりにもよってそっちに進むんですか!?」
そう言うと、先ほど人形の消えた通路奥へと進んで行く。思わず足が竦んだが、こんな場所に取り残されるよりはと、天照に屁っ放り腰でくっ付きながら後に続いた。
「おぬし、怖がるところが多分にズレておるの……」
「さっきのは駄目です。危険です、発禁です。あんなの直視してたら間違いなく頭が狂いますっ!」
「それだけ危機感知能力は高いくせに、何故近くのモノには怯えぬのか……。肩から下がっておるソレの方が悪霊なぞよりよっぽど危険なのじゃが?」
「ベリアルさんには初対面でアリスインワンダーランド的な何かをされましたが、私はこうして元気です。何もーー問題ありません」
「この子の価値観って不思議だよねー。善悪で判断してるわけじゃないし、好き嫌いってわけでもなさそう。うーん、神様悩ませるなんてナニこの怪生物?」
「失礼なーーっひ!? いま、人形がっ! 浮かんでこっちに!?」
「ははは、遊んでいるだけじゃよ。よっぽどおぬしの反応が面白いようじゃな」
「むぐっ、さーちゃん苦しいから! くびっ! 首締めないで!」
付かず離れず視界から消えないギリギリの位置でアクロバット飛行を決めているモノから必死に目を逸らしながら足を進める。奥に進むにつれて浮かぶ人形の数が増えているように見えるのは気のせいだ。きっとそうだ。
ふと、頬を撫でられたような感触がした。
まるで薄い水の壁を通り抜けたような冷んやりとした感覚。あちらとこちらを隔てていた境界をくぐり抜けたような錯覚だ。
いや、もしかしたら実際に”そういった何か”があったのかもしれない。
「さて、ここじゃよ。良いかの?」
行き止まり、正確には苔の蔓延った壁の前で呟いた。これは問いかけではなく確認だ。私にーーこの先に進む覚悟はあるのかと。
「これは火野の屋敷が建てられる以前から存在した岩戸じゃ。いや、これがあったから屋敷が建てられたというべきか。代々火野の当主のみが存在を知らされるものの、岩戸の向こう側に”何が”あるのかを知るものは既に居ない。理解できるかの? 岩戸については語りつがれるが”中身”については一切伝えられていないのじゃよ。元々知らぬのかーー口伝ですらも知られたくない臭いものでもあるのか」
「……この先に、私の望む答えがあるんですね?」
「確約はできないが恐らくの。この数百年、儂も分霊を使って何も調べなかった訳ではない。行動できる範囲で核を探して調べ尽くした結果、残った場所が此処というだけなのじゃ。問題は、岩戸の開き方が不明瞭なこと。そこで、おぬしのベリアルを使う。そいつで岩戸を騙くらかせ。分霊である儂だけなら難しかっただろうが、幸か不幸か天照が居る。こやつの霊格ならば、ベリアルの対価を十二分に用意することが出来る!」
なら、答えは決まっている。
「行きましょう。私は知るために此処にいるんですから」
肩に下げていたベリアルさんの表紙を開き、私は苔の蔓延る岩戸に触れてーー、
”真か偽か 価値なき天秤においては両者とも意味をなさない”
無価値(言葉)を紡いだ。
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