16話「残念です」
「……誘拐?」
その単語は、日常生活でまず聞くものではないだろう。
しかし、小桃も絹代も黙って頷くだけだった。
「ずっと昔の話らしいんだけどね。神子ちゃんが身代金目的で攫われたことがあったらしくて。といってもあたしは詳しく知らないけど」
「それじゃあ今回もってことですか?」
「その可能性が高いだろうね」
河上神子がお嬢様であることは理解していた。理解はしていたのだ。
だが、今日の遊園地デートとやらがそんな物騒なものに繋がると予想できるはずがない。
強引なお嬢様の遊びに付き合うだけだと、そう思っていたのに。
「彩さんだけに頼っているわけにはいきません。わたしたちも探しに行かないと」
絹代の声によって、現実に引き戻される。
そうだ。誘拐だのなんだのと、うじうじ考えているだけでは進まない。ここで立ち止まっている時間を神子捜索のために使わなければ。
「じゃあ、行きましょう。神子先輩を探しに」
その場にいる3人の瞳に、迷いはなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
自分の愚かさに腹が立つ。彼女の護衛として存在していることを、忘れてはいけなかったのに。
「……神子様」
午後のゆるやかな空気を裂くように、彩は園内を走り抜ける。その速さに驚いたように、何人もの親子が振り向くが、気にしてはいられなかった。
「神子様!どこですか、返事をしてください!」
答えは返ってこない。呼び続けることによって不安は増してゆく。
自分のしていることに意味はあるのだろうか。失態を誤魔化そうと、必死に探しているフリをしているだけではないのか。……違う、違うのだ。そんなことを考えても無駄なのに、黒い何かが彩を飲み込もうとしていた。
このままではいけない。落ち着け、落ち着け、考えろ。
冷静さを取り戻すため足を止めると、そこはレストランに向かうとき神子が熱心に眺めていた巨大迷路だった。昼食の時間帯のためかそれともあまり人気がないのか、客は見当たらない。
ここにいるのではないか、と一瞬考えたが、トイレに行ってそのままふらふらと外に出て行きはしないだろう。
やはり―――誘拐か。
それは真っ先に思い至ったこと。しかし認めたくなかったことだ。
ゆっくりと、ポケットの中の携帯電話に手を伸ばす。
自分ではどうしても解決できないときの最終手段。本当は使いたくなかったなんて、この非常時に言ってはいられない。ゆっくりとボタンを押して、目的の番号を見つける。
自分の責任だ。自分の、責任なのだ―――……
「―――――ふざけるなっ!!」
ぴたり、と力を込めようとした手が止まる。
聞こえた、今、確かに聞こえた。神子の声が。
「神子様!」
瞬間、彩は駆け出していた。彼女の声がした方向、すなわち巨大迷路の中へと。
巨大迷路は屋外にあるため光が差し、暗い印象は受けなかった。だからと言って出口が分かりやすいわけではなく、植物と石で造られた壁のせいで思うように進めない。
何度も右へ左へを繰り返し、自分が彼女の元へ向かえているのか不安になる。
「どこですか、神子様!」
もう一度声が聞きたい。そのために彩は先の見えない道を進んでいく。しかしその呼び声は、意中の人物には届かなかった。
「神子サマ…か。へぇ、あんた、あの嬢ちゃんの知り合い?」
右へ曲がろうとしたそのときだ。
行く手から黒い服を着た男が現れ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「……神子様を、知っているのですか」
一歩後ろへ下がった彩を、男は下卑た笑いを浮かべながら見つめる。答える気はないらしい。
「神子様は、どこですか」
「さぁ、知らねぇな。ところであんた綺麗な顔してるなぁ。俺と遊ばねぇ?」
「……神子様は、どこですか」
このままでは、自分の知りたい情報を聞き出すことはできない。彩はやり方を変えることにした。
黒く鈍く光るソレを、男の首元に突きつける。殺傷能力はない玩具だが、脅しにはなるだろう。
「おいおい、そんなピストル見せられたって怖くねぇぜ」
だが、動揺することなく男は平然としている。大抵の人間は驚くはずなのだが。
「それ、オモチャだろ?俺、本物見たことあるからなぁ。ごめんよぉビビってあげられなくて」
ぎゃははは、と下品な笑い声が響く。拳銃の形をした玩具を掴もうとした手を、彩はすっと避けた。
「そうですか。残念です」
ばれてしまったなら、しかたがない。
もう一つの方法でこの男を喋らせるだけだ。
玩具の引き金を指で引く。これが本物なら銃弾が飛び出すのだろう。
しかしこれは―――水鉄砲だ。
「ぎゃああああっ!!!!」
目に液体が降りかかると、男は地面に倒れこみゴロゴロと転がった。
彩はその様子を眺めながら、銃口と言ってもいいだろう部分をハンカチで拭う。
きっと痛くて、堪らないのだ。
水鉄砲だからといって、必ず水がはいっているわけではない。
そう、このように「石鹸水」が入っていることもあるだろう。
当然、痛いに決まっている。
「さあ、答えてもらいましょう。神子様は、どこですか」
反抗するようなら、再び痛い思いをしてもらうしかない。彩の武器は一つではないのだ。
「ぐっぁあああっ!」
「ぶはっ!!」
突然、壁を挟んだ向こう側から、何かがぶつかる大きな音と誰かの叫び声が耳に入ってきた。何故だろうか、空気が重い。
動きを止め、気配を探るために意識を集中する。
「やっやめっ!!」
「へぶっ!」
「ぐわああっ!」
聞こえる声で、数人の男性がいることはわかる。そして彼らが……襲われていることも。
ぐちゃりと何かがつぶれる音、悲鳴。混乱した様子の男たちが逃げ惑う足音。
しかし唐突に何の音もしなくなり、静寂が辺りを満たす。彩の緊張が高まった。
「くそっ仲間がいたのか!!」
彩が石鹸水を浴びせた男が、恐怖で顔を引きつらせながら、立ち上がる。
「…どっどけよ!」
そして彩を押しのけ入口の方へ走って行き、男は見えなくなった。だが―――……
直後、男が向かったはずの方向で「ぎゃああっ!」という叫びが聞こえ、また静かになる。
引きとめるべきだったのか、しかしそれよりも男たちを襲った存在が気にかかる。
先程の男の仲間ではないようだが、神子の失踪事件に関係が無いとは言えない。
……どくん、どくん、と自分の心臓の音がやけにうるさく響く。
「……神子様」
早く彼女を助けなければならない。その役目は自分のものだ。
ゆっくりと息を吸い一歩踏み出せば、すぐに壁の向こう側を確認することができた。
最初に見えたのは、うっすらと舞う土埃。
そして、視線を落とせば―――黒い服を着た男たちが、何人も倒れている。
慌てて近づき確認すると、死んではいないことがわかった。気絶しているだけだ。
どうして、こんなことになっているのだろうか。
少しでも意識のあるものに話を聞けないかと、仰向けに倒れている男に目をやる。
「……?」
その男の服が一瞬きらりと輝いた。
いや、服ではない。黒い服に付着した何かが光ったのだ。
正体を確かめるべく、近づき、そっと手で掴みあげる。
「…………髪?」
金色の長い髪の毛が、太陽の光を眩しいほどに反射していた。