第二話
聖国サンクタリア。
大陸中央に位置し、人類が信仰する女神の加護を最も強く受ける聖地。
そして、俺たち魔族にとっては「最も近づいてはいけない場所」ランキング、不動の第一位だ。
「……空気が、不味いな」
馬車を降りた瞬間、俺は思わず顔をしかめた。
呼吸をするたびに、肺が焼けるような不快感が襲ってくる。
大気中に満ちる、過剰なまでの清浄なマナ。
普通の魔族であれば、ここに立っているだけで皮膚がただれ、一時間もしないうちに魔力欠乏でショック死するだろう。まさに猛毒の沼だ。
だが、俺には耐性がある。
俺の魂の根底にあるのは、かつて人間だった「勇者」の記憶。その魂がフィルターとなり、聖なるマナの毒性を中和してくれている。
それでも、吐き気がするほど居心地が悪いことに変わりはないが。
「次は君だ。進め」
無機質な声に、思考を引き戻される。
目の前には、天を衝くような白亜の城壁。そして、そこへ吸い込まれていく若者たちの長い列。
勇者養成学校の入学試験会場へと続く、唯一の関所だ。
俺は列に並びながら、巨大な門を見上げた。
門のアーチ頂部には、純金と白銀で作られた巨大な女神像が掲げられている。
問題は、その「目」だ。
巨大なルビーで造られた両目が、受験生一人一人をギョロリと見下ろしている。
Sランク聖遺物、『真実の瞳』。
邪悪な心を持つ者、あるいは魔族の波長を持つ者が通れば、即座に瞳が赤く発光し、聖なる雷が落ちて対象を消し炭にするという、凶悪極まりないセキュリティシステムだ。
(……魔族除けの聖遺物か。前世のゲームじゃ、ただのイベントアイテムだったくせに)
俺はポケットの中で、魔王から渡された指輪を強く握りしめた。
『認識阻害の指輪』。魔族のオーラを完全に遮断し、人間として偽装する国宝級のアイテムだ。
これに加え、俺自身の「元人間の魂」を前面に押し出せば、理論上は通過できるはずだ。
理論上は。
「次! 止まるな!」
列が進む。
俺の数人前にいた、ガラの悪い大男がゲートをくぐった瞬間だった。
――カッ!!
女神像の瞳が赤く輝き、音もなく閃光が走った。
「ぎゃあああああ!!?」
男が悲鳴を上げ、地面に転げ回る。
全身から黒い煙が上がっていた。
「……ふん。闇ギルドの構成員か、あるいは呪いのアイテムでも持ち込もうとしたか。連れて行け」
衛兵たちが慣れた手つきで男を引きずっていく。
周囲の受験生たちが、恐怖でざわめいた。
死にはしなかったようだが、一発アウトだ。あの感度、噂以上だ。
俺の心臓が、嫌なリズムで跳ねる。
(おいおい、洒落になってないぞ)
俺は闇ギルドどころか、魔王の息子だ。
バレれば「連れて行け」じゃ済まない。その場で国中の騎士団と魔術師部隊に囲まれてハチの巣だ。
だが、ここで引き返せば、それこそ怪しまれる。
進むしかない。
「次」
俺の番が来た。
俺は無表情の仮面を貼り付け、一歩を踏み出した。
意識するのは、前世の記憶。
俺は人間だ。俺は勇者だ。魔族じゃない。
指輪よ、全力で仕事をしろ。俺の膨大な魔力を、一ミリたりとも外に漏らすな。
一歩。
女神像の影に入る。
肌にピリピリとした圧力が走る。視線を感じる。無機質な、しかし絶対的な上位存在からの監視の目。
(……通せ)
二歩。三歩。
女神像の真下。
心臓が破裂しそうだ。
俺の魂の奥底にある「闇」が、聖なる光に反応して暴れ出しそうになるのを、必死で抑え込む。
その時だった。
――チリッ。
頭上で、何かが弾けるような音がした。
俺は反射的に上を見た。
女神の赤い瞳が、一瞬、ほんの瞬きほどの時間だけ、明滅した。
(――ッ!?)
バレたか?
俺は身構え、即座に防御魔法を展開しようとし――。
「……よし、通過」
衛兵の声。
雷は、落ちてこなかった。
「あ、あれ? 今、少し光りませんでしたか?」
別の衛兵が怪訝そうに空を見上げている。
俺の背中に冷たい汗が伝う。
「気のせいだろう。雷は落ちてない。反応があったなら、こいつは今頃黒焦げだ」
「……そうですね。太陽の反射か」
「ほら、さっさと行け。後ろがつかえてる」
衛兵に促され、俺は小さく一礼してゲートを抜けた。
城壁の向こう側へ。
(あっっっぶねぇ……!!)
心の中で絶叫する。
通過できた。だが、完全にスルーされたわけじゃない。
おそらく、俺の魂の「人間部分」と「魔族部分」が混ざり合っているせいで、聖遺物が判定エラーを起こしたんだ。
限りなくグレーに近い白。
綱渡りもいいところだ。
俺は誰にも気づかれないよう、深く息を吐き出した。
寿命が三年は縮んだ気分だ。
さっさと人混みに紛れよう。そう思って足を早めた、その時。
「……あなた」
凛とした、鈴を転がすような声が背中に刺さった。
ビクリと肩が跳ねる。
ゆっくりと振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
透き通るような銀髪。宝石のような蒼い瞳。
雪のように白い肌は、聖国の人間特有の輝きを放っている。
腰には、装飾の施された細身の剣。
一目でわかる。ただの貴族令嬢じゃない。纏っている剣気が、他の受験生とは桁違いだ。
この世代のトップランナー。
アリシア・ヴァン・クルーガー。剣聖の家系。
(……なんで、こんな大物が俺に声をかけてくる?)
俺は内心の焦りをひた隠し、キョトンとした顔を作った。
「えっと、何か?」
「今、ゲートが反応しましたよね?」
ドクン、と心臓が跳ねる。
衛兵ですら「気のせい」で済ませた一瞬の明滅。
こいつ、見ていたのか。
「さあ……僕は何も気づきませんでしたが」
「嘘をおっしゃい。確かに一瞬、赤く光りました。聖遺物が誤作動を起こすなんて聞いたことがありません」
少女は探るような目で、俺の足先から頭のてっぺんまでをじっくりと観察した。
その視線は、獲物を見定める狩人のようだ。
「あなた、何か隠し持っているのではなくて?」
「隠し持ってるって……危険物なら、没収されてますよ。それに、もし僕が怪しい人間なら、今頃雷に打たれてます」
「……論理的には、そうね」
少女は納得がいかない様子で、形の良い眉をひそめた。
やりにくい。
この手の「直感が鋭いタイプ」が一番厄介だ。
俺はあくまで「無害な田舎の少年」を演じるために、困ったように頭をかいた。
「ただの太陽の反射ですよ。それより、行かなくていいんですか? もうすぐ説明会が始まりますけど」
「…………」
少女は数秒間、俺の目をじっと見つめた後、ふいっと視線を外した。
「……そうね。私の見間違いだったのかもしれないわ。失礼したわね」
「いえいえ」
「でも」
去り際、彼女はもう一度だけ振り返り、射抜くような視線を残した。
「私、自分の目には自信があるの。あなたのこと、覚えておくわ」
そう言い残し、彼女は銀髪をなびかせて去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺はこめかみを指で押さえた。
……最悪だ。
入学前から、一番目をつけられたくない相手にロックオンされた。
これだから「主人公補正」を持った天才たちは嫌いなんだ。
「はぁ……。前途多難だな」
俺は重い足取りで、勇者養成学校の校舎へと向かった。
ゲートをくぐっただけで、この消耗具合。
だが、ここからが本番だ。
世界中から集まったバケモノ級の天才たちの中で、俺は「魔王の息子」であることを隠し通し、その上でトップ3に入らなければならない。
校舎の時計台が、正午の鐘を鳴らす。
俺の、命がけの学園生活が幕を開けた。




