1話~神隠し~
優人が目を覚ますと、そこは堅く冷たい床の上だった。
今まで意識を失っていたのだろう。
うつ伏せに倒れていた優人は、頬に伝わる冷たさで目を覚ました。
だるそうにゆっくりと体を起こしながら、自分が何をしていたのかを必死に思い出そうとする。
(俺は確か、道場で居合の稽古をしながら、自問自答をしていた……)
衣服を確認すると、確かに居合袴を着ており、腰には居合刀も差してある。記憶に間違いはない。
「ここはどこだ?」「なぜここにいる?」
周囲から不安げな声がいくつも聞こえてくる。
(自分の居場所が分からない?)
優人は周囲の声に耳を傾け、不審に思いながら辺りを見回す。
ここは、コンクリートのような材質でできた小さな部屋だった。
四角く綺麗に開けられた穴が壁にあり、おそらく元々は窓や扉だったのだろう。風化によって崩れてしまったのかもしれない。
それ以外には何もない。面白味もなく、まるで遺跡の一室のような、質素で古びた部屋だった。
数人の男女が、不安そうに周囲を見渡している。
どうやら彼らも、優人と同じように「気がついたらここにいた」という様子だ。
(……。)
優人自身も、なぜ自分がここにいるのかまったく分からない。
どれほどの時間、気を失っていたのだろうか?
「ここは……どこだ?」
自分でもそうつぶやいた優人は、ふっと小さく笑ってしまった。
目を覚ましたとき、周囲の人々が口々に言っていたのとまったく同じ言葉を、自分も思わず口にしてしまったからだ。
――その滑稽さが、妙に可笑しかった。
そんな優人に気づき、ひとりの中年らしき男性が声をかけてきた。
「私は田中正義と申します。あなたは何とお呼びすればよろしいでしょうか?
それと、ここがどこか……ご存じですか?」
田中と名乗ったその男に気づき、優人はゆっくりと立ち上がって答える。
「水口優人です。……ここがどこかは、自分も分かりません。前後の記憶も、曖昧で……」
「そうですか……。参ったな……仕事がまだ残ってるってのに……」
優人の答えを聞いた田中は、あからさまに機嫌を悪くし、ブツブツと文句を言いながらその場を離れていった。
紺色のスーツをピシッと着こなした中年男性。その姿からは、仕事中だったことが容易に想像できる。
ということは――彼は、ここに来る直前まで意識があったのではないだろうか?
それでも「なぜここにいるか分からない」と言うのなら……
(サボって寝てたってとこか……)
そういう人間に限って、都合が悪くなると「仕事があるのに」と文句を言う。
優人はそういうタイプの人間を、これまでに数多く見てきていた。
「あの……とりあえず自己紹介でも、しませんか?」
細身の男性が、恐る恐る提案した。
「そんなことして、何になる! どうせ誰も状況なんて分かってないのに!」
先ほど優人に声をかけた小太りの田中が、すかさず反論する。細身の男に食ってかかるその様子は、苛立ちをぶつけているようにしか見えなかった。
(自己紹介くらい、しても損はないだろうに……。あれはただの八つ当たりだな)
「私は伊藤紗季。東京のレストランでバイトしてるわ。
いいじゃない、別に自己紹介くらい。
逆に名前も知らない人たちと一緒にいる方がストレスでしょ?」
そう言ったのは、化粧の濃い女性だった。年の頃は20代半ばといったところか。
大きなあくびをしながら話すその姿勢には、どこか品のなさが漂っていた。
「をを! 紗季ちゃんっていうんだね?
私は田中正義と言います。東京の飯田橋にある商社で部長をしています。
当然ながら年収は1000万を超えているよ。困ったことがあったら相談してね」
伊藤という女性に反応し、田中の態度が急に上機嫌になるのが見て取れた。
(典型的なセクハラ・パワハラ上司の思考回路だな……)
初対面で年収自慢とは――
優人は心の中で「心底、関わりたくないタイプ」と断じた。
「あっ……私は高橋純一です。
ウオセンで板前をしています。よろしくお願いします」
細身の男性が、焦るように自己紹介を続けた。
「えぇ! ウオセンって、あの銀座の一等地にある!?」
伊藤が目を輝かせて反応する。
「あ、はい」
「ねぇ、今度おごってよ〜〜〜!」
ウオセンとは、美味しいと評判の寿司屋の名前だ。
この高橋という男は気は弱そうだが、腕の良い料理人なのだろう。
「チッ……わざわざ店の名前まで言わなくてもいいだろ……
いけすかねぇ男だな」
田中が、聞こえるように高橋に文句を漏らす。
「わ、私は星崎絵里です。14歳です……」
制服姿の少女が、緊張しながら小さな声で自己紹介をする。
「水口優人です。総合卸売問屋の本部勤務です」
流れに乗って、優人も簡単に自己紹介を済ませた。
「ねぇ、その腰につけてる刀って本物?
コスプレにしては……年考えた方がいいって感じなんですけど?」
伊藤が半笑いを浮かべながら聞いてくる。
「試してみます?」
優人は無表情で伊藤に返す。
「え……こっわ……」
伊藤はあからさまに引いた仕草を見せた。
「本物なら通報案件ですねぇ」
田中がニタニタしながら口を挟んでくる。
(全日本剣道連盟に有段者として登録されてるし、刀の所持資格も取ってる。通報しても無駄なんだけどな……)
優人は心の中でそう思ったが、黙って窓の外に目を向けた。
鬱蒼とした木々。伸び放題の雑草。
ここは、どこかの森の奥深くなのだろうか――
(本当に、どうやってここに運ばれてきたんだ……?)
誰かに運ばれたのだとしたら、相当な労力のはずだ。
衣服に乱れもなく、腰の刀もそのまま残っているというのは、どうにも腑に落ちない。
まるで――説明のつかない、現実感のない感覚。
優人は頭を巡らせ、自分の身に何が起こっているのかを必死に考えはじめた。
数分後――
一瞬、風が吹いたかと思うと、部屋の中心がぼうっと淡く光り、一人の女性が現れた。
『あなた方は、突然このような場所に呼ばれ、状況が把握できないことでしょう。
これは、あなた方の世界で言う“神隠し”というものです』
頭に直接言葉が流れ込んでくる。言葉というより、意思のようなものが脳内に響く感覚だった。
部屋の中がざわめき始める。
「まず……あなたは誰ですか?」
田中が代表するように声をかけた。
『私はシエラ。あなた方の世界で言えば、“女神”のような存在です』
再び脳内に響く声。
「ぷっ……」
突拍子もない説明を真顔で語るその様子に、優人は思わず吹き出してしまった。
「それじゃあ、女神……様?
さっき“あなた方の世界”って言ってましたが、ここはどこの世界なんですか?」
自称女神をからかうように聞くと、シエラは顔を真っ赤にした。
『だ、だって他に言いようがないじゃないですか!?
今、あなた私のこと“中二病のイタい女”って思ったでしょ!?
わざわざ分かりやすく説明してあげてるんですからね!』
――脳内に直接、早口の文句が流れ込む。
「……」
優人は冷ややかな目で、シエラの顔をじっと見る。
(……頭は、あまり良くないな)
この程度で動揺し、勝手に怒っている時点で、その程度だ。
優人は、あえて煽るように続けた。
「質問の答えになってませんよ?
つか、そんなことでいちいち動揺しないでくれません?
せっかくの幻想的な演出が、台無しでしょ」
「“幻想的な演出”とか言わないでくださいっ!
これは“テレパシー”という古代の魔法ですっ!!」
今度は普通に口で話し返してくるシエラ。
「なんで喋ってんの!? さっきまでの頭に直接語りかけるやつ、どうした!?」
「あなたが“幻想的な演出が台無し”とか言うからやめたんです!!
神隠しにあった地上界の人たちが、なすすべもなく死なないように、
こうして次元の歪みのある場所を巡って説明してあげてたのに!
あなたのせいで、“美しい女神”という私のイメージが崩れたじゃないですか!!
これじゃあ、皆さん私の言うこと信じられなくて、死んじゃいますからね!!」
延々と文句を垂れ流すシエラ。
「……知らんがな。何、イメージって。
こんな状況で、それ必要? バカなの?」
あまりにも幼稚な主張に、優人も本気でからかい始める。
「ムキィーーーーー!!!
バカじゃありませんっ!!
バカは魔法なんて使えないんですからね!?
あなたは魔法使えるんですか!?」
(……もう女神の面影、ゼロ)
「使えるか!そんなもん必要ない世界で生きてきたんだよ!
つか、お前こそ。大学ぐらい出てんだろうな?」
「な、なにそれ? “大学”?
そんなもん、ここには存在しまっせ~ん♪
そんなことも知らないなんて、あ~……恥ずかしいっ!」
「……あの、女神さま」
二人の口論に割って入ったのは、またしても田中だった。
少しばかりうんざり気味ではあるが、彼の言葉はようやく本題を引き戻した。
「話が進みませんので、教えてください。私たちは……どうすればいいのでしょうか?」
その言葉に、シエラは咳払いをひとつして気を取り直す。
『――ここは、天上界といいます。
あなた方が元いた世界は、私たちの言葉で“地上界”と呼ばれています』
(いまさらまたテレパシーかよ……)
優人は心の中でツッコミを入れつつ、黙って続きを聞く。
『地上界の言葉に置き換えるなら、ここ“天上界”は――生と死の狭間とも言える世界です。
地上界で命を落とし、魂が昇ってきた者たちは、この世界で滅すると魂が“離散”し、消滅します』
「えっ……じゃあ、俺たち、死んだってことですか?」
田中が思わず声を上げた。
『いいえ、違います。
あなた方は“神隠し子”――つまり、生きたままこの天上界へ迷い込んでしまった存在です』
『もともと天上界と地上界は、ひとつの世界でした。
けれど、ある時に起きた大きな争いによって、天地は分かたれました。
本来一体であったものを無理に引き裂いた結果、世界の間には“ゆがみ”が生じ、
その影響で、ごく稀にあなた方のような被害者が現れてしまうのです』
「……じゃあ、元の世界に戻る方法は、あるんですか?」
田中の問いかけに、シエラは静かに答えた。
『方法は――存在します。
ですが、“次元異常”がいつ、どこに発生するかは不明です。
そのため、戻れる可能性は極めて低いと言えるでしょう』
田中は、わずかに顔を伏せ、力なく呟いた。
「……つまり、ほぼ絶望的ということですね」
優人は、そんな彼の様子をちらりと見やる。
(今だけ見れば、まぁ女神っぽいな)
淡く光る姿と、整った顔立ち。気品ある所作も手伝って、黙っていればたしかに“女神”然としている。
(……もう手遅れだけど)
再び優人が口を開く。
「まあ、だからって、こんなところで立ち尽くしてたら、
さっき言ってた“神隠し子の無駄死に”ってやつになるんだろ?
そのために説明しに来たんだよな? で、俺たちは何をすればいい?」
シエラは頷き、続けた。
『この部屋を出れば、山の中腹に出ます。
山を下りれば、小さな村があります。まずはそこを目指してください』
『その村で情報を集め、どう行動するかを決めるといいでしょう。
その後、天上界で暮らすか、地上界への帰還を目指すかは、あなた方の自由です』
『……ただし。道中には、山賊や獣の類が現れることがあります。
くれぐれも、お気をつけくださいませ』
「……あれ? 一緒に来てくれないんですか?」
優人の問いに、シエラは勢いよく首を横に振った。
「ぜっっったいイヤですっ! ばーかばーか!」
そう叫ぶと、彼女の身体が淡い光に包まれ、次の瞬間にはその姿ごと、掻き消えた。
「……あの糞女、次会ったらぶっ飛ばしてやる」
優人は深くため息をつきながら、頭を軽く掻いた。
シエラが姿を消すと、部屋の中には再び静寂が訪れた。
その内容はにわかに信じがたく――しかし、彼女が実際に見せた“魔法”の存在が、それを否定できない現実へと変えていた。
夢だと片づけるには、あまりにも明確すぎた。
優人は、冷静さを保ちながら頭を整理し、周囲の様子を改めて観察する。
(……やっぱり、信じられないよな)
周りの人々もまた、混乱と不安を押し殺しながら、どこか呆然とした表情を浮かべて立ち尽くしていた。
その中で、優人はシエラの最後の忠告を思い出す。
『道中、山賊や獣の類が現れると思いますので、くれぐれもご注意くださいませ』
(……つまり、戦闘の可能性があるってことか)
優人は自然と、腰の刀に手を添える。
その刀――名を『九紋』という。
初段審査を合格した日、亡き師匠と共に選んだ、三十万円の一振りだ。
銘は入っていないが、優人にとっては“相棒”とも呼べる特別な存在である。
彼は地上界で居合術という武術を学んでいた。
居合とは、その場から大きく動くことなく、静かに、速やかに相手を斬る技術――
無音で相手を倒す、いわば“静の剣術”。
優人が学んだのは、室町時代に天狗から伝えられたとされる流派、夢想神伝流だった。
(……久しく使ってないが、やるしかないか)
優人はおもむろに、刀を帯の中で“ぐりぐり”と動かす。
これは鞘と帯を馴染ませ、抜刀時に引っかかるのを防ぐための動作。
一度でも抜く必要が出てきたとき、剣速は生死を分ける。
(……山を下りれば村がある、か)
優人はふと、足元の袴に目を落とす。
(この広がりじゃ動きづらいな。紐か何かでまとめたいけど……)
あたりを見渡すも、紐になりそうなものは見当たらなかった。
ため息をひとつつく。
「……はぁ」
そうして、優人は無言のまま歩き出し、部屋を後にしようとした――
優人が部屋を出ようとしたそのとき、
「ちょっと、君!!」
呼び止めたのは、やはり田中だった。
(またお前か……)
優人は顔をしかめ、無言で振り返る。
「君、ひとりで下山する気か? 救助を待った方がいいんじゃないのか?」
そう言う田中の顔には、どこか他人任せな不安が滲んでいる。
優人はため息をひとつ吐いて、淡々と返す。
「さっきの話、聞いてなかったんですか?
シエラは情報だけ伝えて、俺たちを見捨てて消えました。
つまり――あれが“最後の救援”だったってことでしょう」
言いながら、部屋の中を見渡す。
「ここに食料はない。救助が来る保証もない。
なら、あの女神(?)が唯一言った“山を下りろ”って助言に従うしかないと思いません?」
それでも田中は食い下がる。
「だ、だったら……せめて、その刀を置いていってくれないか?」
「……は?」
「そ、そうよ! その刀さえあれば、私たちだって――!」
伊藤も声を荒らげ、田中に続いた。
だが優人は眉ひとつ動かさず、低く静かな声で返す。
「この刀は譲れません。俺にとっては、大切な相棒です。
それに、使い方も知らない人間に渡したところで、役に立つとは思えないので」
「じゃあ、私たちはどうすればいいのよ!?」
伊藤がヒステリックに叫ぶ。
優人は一度目を伏せ、そして顔を上げ、全員に向かって告げる。
「俺は居合術はやっていたけど、人を守ったことなんてない。
だから、守れる保証はない。……でも、一緒に来るなら、できる限り守る努力はする。
村に着いたら、助けを呼ぶ方法も探してみる。
ここに残るか、一緒に来るか――それは、自分で判断してくれ。
……命は、自分で守るしかない」
沈黙。
誰も何も言わず、目を逸らすように黙りこむ。
優人は「やっぱりな」とでも言うように小さく舌打ちし、部屋を出ようと背を向けた――その時。
「私、行きます!!」
背後から響いた少女の声に、優人はハッと立ち止まる。
振り返ると、制服姿の少女――星崎絵里がまっすぐにこちらを見ていた。
その目には、はっきりと覚悟の色が宿っている。
「……わかった。準備をしてくれ」
少しだけ圧倒されながら、優人は答えた。
* * *
部屋を出ると、外の空気が一気に肌に触れる。
森は鬱蒼と草木が生い茂り、数十年、人が足を踏み入れていないような様子だった。
足元の雑草は伸び放題で、道らしい道は見当たらない。
優人は静かにその場を歩き、振り返って建物の外観を確認する。
ボロボロに風化したコンクリートの壁。つたが絡みつき、天井は崩れかけていた。
(……外観は廃墟同然、なのに中はやけに綺麗だったな)
まるで誰かが“中だけ”を意図的に維持していたかのような違和感――
(何かあるのか、それとも偶然か……)
そんなことを考えていると、背後から声がかかる。
「あの……ここから、どうやって村まで行けばいいんでしょうか……?」
声の主は絵里だった。先ほどとは打って変わって、少し不安げな表情を浮かべている。
「ん……そうだな」
優人も周囲を見渡しながら歩き出す。
目を凝らすと、草木の間にわずかに踏みならされたような“獣道”が一本、伸びていた。
それが本当に村へと続いているかはわからない。
ただ――
「……動かないまま、あの部屋に残ってるってのは選べない。
俺たちは進むしかない」
優人がそう言うと、絵里は一度大きく息を吸い込み、小さくうなずいた。
そして二人は、誰もいない静寂の森へと足を踏み入れた。
――
新たな世界の始まりを、わずかに震える足で踏みしめながら――。