序説~天に捧げる花束~
日本、東京。夏。
ジリジリと焼けつく陽射しのなか、男は坂道を登っていた。額には汗、手には花束、そして黒のスーツ。
この炎天下にその格好はあまりに場違いだが、この場所では例外だった。彼が向かうのは――霊園。
歳は三十代後半。
蝉の鳴き声が辺りに響きわたる。
かつては苛立たしさしか感じなかったその音にも、最近はどこか風情を感じるようになった。
それでも、暑さには勝てない。
「暑いなぁ……」
男――水口優人は、右手のハンカチで額をぬぐいながら、太陽を睨みつけた。
だが太陽は意にも介さず、容赦なく地上を照らし続ける。
左手には花束。
優人は坂を登りきり、霊園の中腹を目指していた。
彼の名は、水口優人。
十三年前、婚約者の真城綾菜を病で亡くしている。
当時、重要な任務を任され、長期出張に出ていた。
彼女の死を知らされたのは、帰国後のことだった。
最初は信じられず、ただの悪質な冗談だと思った。
だが、携帯の解約、彼女の部屋に置かれた位牌――それらが現実を突きつけた。
信じることはできても、受け入れることはできなかった。
それからの日々は地獄だった。
目に映る全てが、心の傷を抉った。
特に、恋人同士の姿を見かけるたびに、嫉妬と憎しみに苛まれた。
いっそこの世の全てを壊してしまいたいとさえ思った。
周囲の「優しさ」も、優人には虚しく響いた。
痛みを知らない者の慰めほど、偽善に感じるものはない。
彼は徐々に人との距離を置き、古くからの友人すらも、離れていった。
「……はぁ、はぁ……」
霊園の中腹、綾菜が眠る墓は、そこにあった。
数分の徒歩でも、酷暑の中では息が切れる。
優人は階段を登り、墓前へと進む。
「久しぶりだな、綾……」
墓石には「真城家」と刻まれている。
静かにたたずむその石に向かい、優人は声をかけた。
微笑みながら、花束を供え、手を合わせて目を閉じる。
「……生花は、枯れるから嫌いだって言ってたよな。
叱らないでくれよ」
目を開き、寂しげに微笑む。
「綾は、ずっと22歳のままか……
羨ましいよ。俺なんて、もう40だ。
迎えに来てくれないから、ひとりで歳を重ねちまったよ。
話したいこと、山ほどあるのにな……」
語りかける声は穏やかで、それでいて哀しい。
綾菜の代わりなど、どこにもいない。
優人はもう、誰かと人生を歩む気はない。
一生、独りでいるつもりだった。
「綾菜……大好きだよ」
5年間、彼は痛みに耐えた。
いや、“癒える”ことを諦め、“慣れる”ことを選んだ。
だが、最近になって少しずつ、自分を取り戻しつつある。
その支えとなったのは、ただひとつの考え方。
――『俺は、俺が愛した女が人生最後に愛してくれた男だ』
綾菜の愛した自分が、みっともない姿を見せてはいけない。
自分にそう言い聞かせながら、前を向く努力を続けている。
そしていつか彼女に再会できたとき、土産話をしてやるために。
それが今の彼の生きる理由だった。
「お義兄さん?」
突然、後ろから声がかかる。
振り返ると、そこには見覚えのある女性が立っていた。
「琴……ちゃん?」
彼女の名は真城琴葉。
綾菜の妹で、2歳年下。
かつては姉のデートに、時々ついてきていたこともあり、優人にとっては馴染み深い存在だった。
長い黒髪をひとつにまとめ、控えめな装い。
だが、笑った時の仕草や目元は、どこか姉と重なる。
「やっぱり……お姉ちゃんのお墓、時々綺麗になってたから。
もしかしてって思ってました。
不義理な姉で、すみません」
琴葉は頭を下げた。
「いや……こっちこそ。
もう10年も経つのに、しつこいよな……」
視線を逸らしながら答える。
真城家からは「綾菜のことは忘れて、幸せになってほしい」と言われていた。
それなのに、いまだに墓参りを続けている自分に、引け目を感じていた。
「母はああ言いましたけど、私は、お義兄さんがそんな器用に生きられる人じゃないって知ってましたから。
……本当に、姉が無責任にお義兄さんを置いていったことの方が、申し訳ないです」
「……まだ、“お義兄さん”って呼んでくれるんだな」
婚約はしていたが、結婚はしていない。
正式に義理の兄妹ではない。
それでも、琴葉は昔からそう呼んでいた。
「や、やっぱり……やめた方がいいですか?」
頬を赤らめる彼女に、優人は微笑んで返す。
「いや、嬉しいよ」
13年前――
綾菜の隣に並んでいた琴葉が、今もそこにいる。
ふと、隣の“空白”を見つめてしまう。
「そうだ、お義兄さん! 私、結婚するんです!」
突然の報告に、優人は一瞬言葉を失った。
だがすぐに、今日彼女がここに来た理由を悟る。
「そっか。おめでとう」
淡々と、けれど心からの祝福を口にした。
* * *
その晩、優人は道場で居合袴に身を包み、久しぶりに刀を握った。
素振りのあと、ただ一人、静かに瞑想に耽る。
13年という歳月。
琴葉は“未来”を選び、自分の人生を歩んでいる。
それに比べて自分は――
過去に縛られ、変われずにいる。
「だって……好きなんだもん」
目を薄く開け、呟いた。
気付けば自分に言い訳をしている。
それが情けなくて、再び目を閉じた。
今日は、綾菜の命日。
13回忌だった。
喪服の色は年を経るごとに薄くなり、それは悲しみが少しずつ癒えていく象徴だと聞いたことがある。
だが優人は、今も真っ黒なスーツを着続けていた。
それは、綾菜への想いが未だ整理できない自分への戒めでもあった。
真夏の熱気がこもる道場。
息苦しい蒸し風呂のような空間の中、優人はひたすら静かに、瞑想を続けていた。
自分はこのままでいいのか?
どうすれば、この痛みから自由になれるのか?
思考は深く沈み、そして、やがて――
優人の意識は、静かに、薄れていった。