無双系 vs 悪役令嬢異世界
「皆さんようこそ、第10回ウェブ小説アワードへ!料理はお楽しみいただけましたでしょうか?さて、いよいよ今夜のメインイベント、最後の部門に参りましょう!」
盛大な拍手が豪華なバンケットホールに鳴り響いた。そこには編集者、イラストレーター、作家たちが集い、煌めくシャンデリアの光がエレガントな装いの参加者たちに反射し、場の熱気をさらに高めていた。その賑わいの中、真紅のドレスを纏った女性が一人、微かに口元を吊り上げながら、鋭い目できらびやかな光と群衆を見渡していた。周囲の作家たちは美しく飾られたテーブルに座り、グラスには酒が満たされ、皿の上には豪華な料理が山と積まれている。
「それでは、各部門のノミネート作品を発表いたします――」
司会者が著名なウェブ小説作家たちとそのタイトルを次々と読み上げる中、一人の小柄な女性だけがこの華やかな場にまったく興味を示さなかった。彼女の関心は、目の前に並んだご馳走を豪快に平らげること一点に集中していたのだ。
彼女のペンネームは「リリス」。スキャンダラスな悪役令嬢ロマンス、ダークな逆ハーレム、そして裏切りと救済の物語で知られる名だ。その名声とは裏腹に、リリスはこの洗練された人々の中で浮きまくっていた。というのも、彼女は躊躇なく、手当たり次第に食べ物を口に詰め込んでいたからだ。煌びやかな賞やスピーチなど彼女にはどうでもよく、ただひたすらこのバンケットの「元を取る」ことに全神経を注いでいた。
だが、そんな彼女の一人宴は、隣の椅子がギシリと軋む音で中断された。リリスはフォークを咥えたまま、しかめっ面で隣に座った男を睨んだ。その男は不機嫌そうに前髪を垂らし、メガネを直しながら、リリスが食べ物を詰め込む様を冷ややかに見下ろした。
「相変わらず下品だな。俺だって最低限のテーブルマナーは守るぞ」と、レンズの光と同じくらい鋭い口調で呟いた。
この男もまた作家で、その名は「ヴォイド」。リリスが悪役令嬢ロマンス界の女王なら、ヴォイドは圧倒的パワーファンタジーの王者だ。彼の物語は、指一本で世界を粉砕するようなチート主人公たちで溢れていた。批評家たちは「どの作品も同じだ」と揶揄したが、ランキングの頂点を独占し、模倣者たちを次々と生み出す彼にとって、それは痛くも痒くもなかった。
リリスは椅子に背を預け、フォークをくるくると指で回しながら、片眉を上げて彼を見た。
「そしてあんたは相変わらずうざったいわね、ヴォイド。こんな格式高いイベントにテンプレ野郎が紛れ込んでるとは知らなかったわ」
ヴォイドはメガネをクイッと持ち上げ、嫌味たっぷりに答えた。
「テンプレでも稼げるんだからいいだろ。ところで、お前はどうだ?同じお嬢様と三角関係を何回繰り返すんだ?」
ピリつく二人の空気に、近くのテーブルからちらりと視線が向けられる。しかしリリスはにやりと笑い、身を乗り出した。
「あらヴォイド、私の『お嬢様たち』の方が、あんたの筋肉だらけの脳筋たちより個性あると思うけど?読者がキャラの区別つかない話よりはマシよ」
ヴォイドはムッとし、反論しようと口を開いたが、その時、ホールを割るような拍手が彼を遮った。司会者がいよいよクライマックスに突入したのだ。
「そして、連載中作品部門のノミネートは――」
二人は黙り込み、その火花散る口論も一時中断された。しかし、それでもどちらが賞を手にするか、その答えに二人の意識は釘付けだった。
発表が進むたび、リリスとヴォイドは時に小声で悪態をつきながらも、鋭い目でステージを見つめ続けた。互いの誇りを賭けた戦いだった。
「そして、ロマンス部門の受賞者は……『公爵令嬢の転落〜悪役令嬢の救済〜』、リリスさんです!」
大きな拍手がホールに響く中、リリスはヴォイドに勝ち誇った笑みを浮かべ、ナプキンで口を拭ってテーブルに放り投げた。
「下品で才能もある…最悪の組み合わせだな」と、ヴォイドはぼそっと呟いた。
リリスは赤いドレスを揺らしながらステージへ上がり、燦然と輝くトロフィーを手にし、堂々とスピーチを始めた。
「私の作品を支えてくれた皆さんに感謝します。これで証明されたわね――悪役令嬢は最後に笑うのよ」
彼女がウインクすると、客席からは笑いと拍手が沸き起こった。
ヴォイドは大げさにため息をつき、「さすがだな、いつでも自分劇場だ」とぼやいた。
だが、次の瞬間、司会者が再び場を静めた。
「そして次は、パワーファンタジー部門の受賞者です…『永遠の覇王の昇華』、ヴォイドさん!」
ヴォイドはその名が呼ばれるや否や、顔面蒼白に。メガネを何度も直し、襟元を引っ張りながら立ち上がった。
「さあ、どうぞお手本を見せてよ?」と、リリスがニヤリとからかう。
彼は睨みつけながらも無言でステージに向かい、観客と目を合わせることなく、ぎこちなく歩いた。
マイクの前に立つと、ヴォイドはか細い声で「え、えっと…ありがとうございます…。こ、この光栄に…感謝します…。読者の皆さん、えーと…編集さんも…その…ありが、とう…ございます…」と、しどろもどろになりながら言葉を繋ぎ、慌てて頭を下げて退場した。
席に戻ると、リリスがあきれ顔で言った。
「すごいわね、ヴォイド。感動のスピーチだったわ」
ヴォイドは赤くなった頬を隠すようにメガネを押さえながら、「お前だって、緊張を冗談で誤魔化してるくせに」と反論。
「図星ね」と、リリスはニヤリと笑い、背もたれに寄りかかった。
だがその時、司会者の声が再び響き渡った。
「さあ、皆さんお待ちかね!今年の『年間最優秀小説賞』の発表です!ジャンルを超え、多くの読者の心を掴んだ作品に贈られます!」
場内は一斉に前のめりになり、空気は一気に張り詰めた。ヴォイドはチラリとリリスを見やり、リリスは余裕ぶった様子でグラスを傾けながらも、その瞳は真剣だった。
「受賞作は……『忘れられし羽根:ヴィクトリアン・テイル』、チキンクイルさん!」
拍手と同時に、ざわめきが走った。
「誰だ…?」
「新人か…?」
ステージ上のスクリーンには、片眼鏡とシルクハットをかぶった、雑に描かれたニワトリのアバターが映し出された。場内は一瞬静まり返り、やがて後方から乾いた笑い声が漏れた。
「……何だこれ?」リリスが眉をひそめて小声で呟いた。
ヴォイドはメガネを直しながら、震える声で「じ、冗談だろ…?ニワトリだぞ?!」と呻いた。
司会者は動じることなく続けた。「残念ながらチキンクイルさんは本日ご欠席ですが、メッセージを預かっております!」
アシスタントから紙を受け取った司会者が読み上げる。
「『こんなバカげた夢を信じてくれた皆さん、ありがとう。ヴィクトリア時代の孤児が呪われた羽根で幽霊と会話する物語なんて、誰が信じただろう?でも、これが現実です。常識を打ち破り、羽根を逆立ててやりました――文字通り。クックック、チキンクイル』」
客席は爆笑と拍手、そして困惑のざわめきに包まれた。
ヴォイドは椅子に沈み込み、「嘘だろ…こんなトンデモ設定がパワーファンタジーに勝つなんて…」と呟いた。
だが、リリスはスクリーンを見つめながら口元を吊り上げた。
「認めなさいよ、ヴォイド。これは大胆だわ。ヴィクトリアン幽霊譚…ありきたりなチート主人公や策士令嬢より、よっぽどインパクトあるわよ」
ヴォイドはメガネを弄りながら、顔を赤らめて言った。「い、いや…でも変だろ、こんなの…」
リリスはグラスをくるくる回しながら、余裕の笑みを浮かべた。
「変わってる方が売れるのよ、ヴォイド。私たち、思ったより安全圏じゃなかったみたいね」
ヴォイドは小さく聞き取れない言葉を呟き、顔を伏せた。その間も、チキンクイルの勝利に沸く拍手は鳴り止まず、リリスとヴォイドは、今年最も異色な受賞者――モノクルをかけたニワトリ――の影に、静かに座るしかなかった。
ウェブ小説アワードは、期待通りの華やかさときらびやかさの中で幕を閉じた。しかし、ライトが落ちて儀式が終わると、場の空気は一変した。宴会場はにぎやかな飲み会へと姿を変え、グラスが鳴り、笑い声が響き、作家たちのおしゃべりが場を満たしていた。しかし、リリスとヴォイドの間に漂う緊張感は消えず、部屋の隅に嵐の前触れのように重く残っていた。
金色のトロフィーを手にしたまま、リリスは何気なくバーへと向かった。バーテンダーは彼女を一瞥し、無言で赤ワインを注いだ。
彼女はグラスを受け取り、ゆっくりと回しながら人混みを見渡した。「ねえ、ヴォイド」と、部屋の向こう側に立つ彼に視線を向ける。「今夜のあんた、ただの歯車の一つみたいね?」
ヴォイドはバーの近くでぎこちなく立ち、眼鏡と襟をいじっていた。カクテルを手にしてはいたが、半分も飲まず、誰とも目を合わせようとしない。リリスの言葉が耳に届くと、彼はピクリと肩を震わせ、眼鏡の奥の目が細くなった。
「そっちこそだろ」と小声で呟いたが、リリスは聞かずとも意味を察した。
彼が楽しんでいないのは明らかだった。もっとも、彼女もそうだったが。もちろん、それを認める気はなかった。彼女はリリスなのだから。
ヴォイドがさらに殻に閉じこもる前に、リリスは人混みをすり抜けて彼のもとへと歩み寄った。グラスを持ち上げて、彼に言った。「お祝いしなきゃね」
彼は困惑した顔で瞬きをした。「お祝い?何を祝うんだ?」
「ニワトリに王座を奪われたってことよ」と、皮肉たっぷりに笑った。「さすがに予想外だったでしょ?ちょっとだけ、その発想力が羨ましいかも」
ヴォイドは目をそらしつつ、ため息混じりに言った。「お前、楽しみすぎだろ」
「で、あんたは落ち込みすぎ」リリスは軽く切り返した。「何よ、誰とも話せないほど人見知り?安心して、噛みついたりしないわよ。少なくとも今夜はね」
彼は短く乾いたように笑い、すぐさまカクテルを大きく飲み干した。まるで会話を飲み込もうとするかのように。「お前って…ほんとに手に負えないな」
リリスは得意げに微笑み、アルコールが体に回り始めたのを感じた。「手に負えない?私が勝者だってこと、忘れた?」彼女はトロフィーを持ち上げ、ライトの下で輝かせた。「ちょっとは私の魅力を見習ったら?」
「食い意地張って豚みたいに食ってた奴が、魅力だって?」ヴォイドはぼそりと呟き、少しろれつが回らなくなっていた。
その言葉に、リリスの笑みはさらに広がった。「ああ、またその話?でもさ、壇上で手を震わせてたあんた、ちょっと面白かったわよ」
ヴォイドは顔を真っ赤に染めたが、言い返す間もなくリリスはグラスをカウンターに置き、彼のドリンクをひょいと奪った。
「おい!」彼は抗議した。「まだ飲んでたんだぞ!」
「もう飲まないでしょ」リリスはにやりと笑い、わざとゆっくりと彼のカクテルを飲み干した。「少しはリラックスしなさいって」
「リラックス…?」ヴォイドは目を丸くした。「どういう意味だよ?」
リリスは空になったグラスを彼の手に戻し、きらりと目を光らせた。「肩の力を抜けってこと。楽しまなきゃ。さもないと、またモノクル付けたニワトリに負けることになるわよ」
彼女はくるりと踵を返し、またバーでワインを注文した。ヴォイドは渋々ついていった。
「俺、あんたみたいに派手に騒ぐタイプじゃないんだよ」と、さっきよりは少し素直な声で言った。
リリスはくすりと笑った。「それでいいのよ、ヴォイド。その調子」
酒が進むにつれ、二人は妙に楽しくなってきて、周囲の騒がしさも気にならなくなっていた。互いに軽口を叩き合いながら、バーにもたれかかる。
「そういえば…」リリスはややろれつが怪しいながらも、鋭さを失わない声で言った。「次の作品、考えてるのよ。正直に言うとね…」
ヴォイドは眉をひそめた。「嫌な予感しかしない。どうせまた悪役令嬢か?」
リリスはにやりと笑い、やや霞んだ目を輝かせた。「そう、その通り。でも今回は違うわ。銀髪で、もう最低最悪で、国から追放されるレベルの悪女よ。王道でしょ?」
ヴォイドは目を細めた。「結局、いつもの悪役令嬢じゃん。髪の色が変わっただけ」
リリスは首を振った。「そんな単純じゃないの。追放されたその瞬間、魂が転生して…今度こそ運命を変えようとするのよ。でも、腹黒さと狡猾さはそのまま。今回は勝ちに行くってわけ」
ヴォイドはやや疑わしげに瞬きをした。「結局、いつものやつじゃないか。悪役なのに都合よく主人公ぶって、はいハッピーエンドってやつ」
リリスは肩をすくめた。「まあ、そうね。でも悪役だって、二度目の人生でヒロインやったっていいじゃない。どうせ誰かは苦しむし、それもまた楽しいわけ」
彼女はワインをすすり、ヴォイドの反応を待った。彼は指でグラスをトントン叩きながら、重いため息をついた。
「俺だって、次はひと味違うのを考えてるんだ」と、顔を赤らめつつ呟いた。「今度こそ、お前の作品なんか吹き飛ばしてやる」
リリスは横目でちらりと見た。「どうせまた、無敵の神みたいな主人公だろ?」
ヴォイドは居心地悪そうに体をよじり、やや躊躇したのち口を開いた。「ゲーム世界に転生する話だ。でも、全部知ってるんだよ。ストーリーもキャラも、全部…」
リリスは呆れた顔で彼を見つめた。「転生×ゲーム設定ね。ありがち」
彼は呻くように顔をそむけた。「違うんだよ!まあ、強いのは当たり前だけど…でも大事なのはそこじゃなくて。バッドエンドを避けるために動くんだ。全部知ってるけど、それでも…」
リリスはにじり寄り、甘ったるい声で囁いた。「それでも何?結局、世界救ってボス倒して大勝利、でしょ?」
ヴォイドはこめかみを押さえながら顔をしかめた。「そうかもしれないけど…今回は違う。知ってる未来に抗うんだよ。ただの無敵じゃない。全部わかってる上で、戦わなきゃいけない。それが面白いんだ」
リリスは片眉を上げ、ニヤリと笑った。「へえ、知ってて苦しむ最強主人公ね。はいはい、斬新だこと」
ヴォイドは睨み返した。「お前こそ、髪の色変えてるだけだろ。毎回同じプロットを焼き直してさ」
リリスは楽しげに笑い声をあげた。「そうよ。でもそれが売れるんだから仕方ないでしょ?みんな、裏切りと陰謀とドロドロが大好きなんだから」
ヴォイドは肩を落とした。「結局、俺たち同じことしてんのか。ただ見た目を変えてごまかしてるだけで」
リリスはゆっくりとうなずき、空のグラスを置いた。「まあね。ルールをちょっといじって、新鮮に見せてるだけ。結局は自己満足かも」
「いや、自己欺瞞だろ」ヴォイドがぼそっと呟いたが、リリスはそれを聞き取り、ニヤリとした。
「まあ、いいじゃない。どうせ一緒よ」彼女はグラスを掲げた。「またリサイクル作品を量産しましょ、乾杯!」
ヴォイドはしばらく黙った後、渋々グラスを持ち上げた。「ああ、なんでもいいよ」
二人はグラスを鳴らし、残りを一気に飲み干した。その瞬間、ようやく酒が効いてきたのを感じ、同時にふらついた。
ヴォイドは目をぱちぱちさせながら、「ちょっと飲みすぎたかも…」と呟いた。
リリスはしゃっくり混じりに笑った。「今さら?私なんか、もう悪役令嬢史上いちばんバカバカしい話を書けそうよ…」
彼女はバーにもたれ、頭がぐるぐる回るのを感じた。ヴォイドも同じようにカウンターに倒れ込んだ。
「同感…でもまあ、明日になったら…なんか新しいの書くか、いや、多分寝て終わりだな」
リリスは視界が霞む中、ニヤリと笑った。「うん、それでいこう」
そうして二人はそのまま椅子に沈み込み、酔いと疲れにまかせて、今夜だけは互いの凡庸さを少しだけ受け入れることにした。
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リリスは、心臓の激しい鼓動と同じリズムで脈打つ頭痛に襲われながら目を覚ました。うめき声を漏らしつつ目を開けると、目の前に広がる光景に違和感を覚えた。あまりにも豪華で、あまりにも華美で、あまりにも…王族のようだ。重たい香の匂いが部屋に漂い、開け放たれた窓からはほのかにバラの香りが流れ込んでくる。
パニックが背中を駆け上がり、リリスは身を起こした。手が触れたのは、柔らかく滑らかな絹のシーツ。その動きさえも、どこか繊細で優雅すぎた。そして、ふと自分の手を見下ろした瞬間――彼女は凍りついた。
それは、自分の手じゃなかった。
白くて傷一つない肌。完璧な深紅に塗られた爪。リリスは息をのんでベッドから飛び起き、浅く速い呼吸を繰り返しながら、部屋の隅にある全身鏡へと駆け寄った。
鏡の中の姿を見た瞬間、肺から空気が抜けた。
銀色の髪が柔らかく波打ちながら肩にかかり、鋭く冷たい瞳が、その美しい顔立ちを際立たせている。黒いドレスが細身の身体にぴったりと沿い、光を受けて宝石がきらめいていた。その顔を、彼女は知っている。自分が描いたキャラクターだ。
「…違う…」リリスは後ずさりし、震える声でつぶやいた。「違う、違う、違う…こんなの、ありえない…」
鏡の中の姿は、変わらない。そこにいるのは、紛れもなく――セラフィーナ・ヴァルモン。自分の物語に登場する、あの悪役令嬢だった。
頭が真っ白になる。何週間もかけて作り上げたキャラだ。あまりの冷酷さに国中から見放され、最後には追放され、忘れ去られる運命の女。そのセラフィーナが…今、鏡の中にいる。
「これは夢だ…」リリスは頭を振りながら、必死に否定した。「夢に決まってる…」
絶望に駆られたリリスは、窓に駆け寄り、それを押し開けた。広がる庭園と高くそびえる城壁が目に映る。その高さ…そこまででもない。もしかしたら、降りられるかもしれない――
だが、窓枠に足をかけた瞬間、足を滑らせた。短い悲鳴を上げ、身体が前に傾く。風が耳をかすめ、地面が迫ってくる。
その時、強い腕がリリスの身体を受け止めた。
リリスは息をのみ、助けてくれた人物を見上げた。全身を鎧に包み、太陽の光を反射させて輝くその男。顔は兜に隠れているが、その声は低く、威厳に満ちていた。
「ご無事ですか、お嬢様?」
リリスは瞬きを繰り返し、言葉が出ない。男はそっと彼女を地面に降ろし、兜を外した。
息が止まった。
黒髪、鋭い青い瞳、整った顎――知ってる。この男も、知ってる。これは、ヴォイドの異世界チート系物語の主人公。お気に入りのゲームの世界に転生し、あらゆる知識を駆使して無双する男、カエル。
「えっ…?!カエル…?アンタ、ヴォイドのキャラじゃないの?!」リリスは震える声で叫んだ。
男――いや、ヴォイドはピクリと反応し、眉をひそめ、周囲を素早く確認した。そして彼女に顔を近づけ、低い声で言った。
「…リリス?」
リリスの胃が沈んだ。
「お前もここに…?」ヴォイドの表情が混乱から驚愕、そして焦りへと変わる。「まさか…お前、セラフィーナか…?」
リリスは口を開けたり閉じたりしながら、言葉を探した。
「で、でも…アンタも、自分のキャラになってるってこと…?てか、カエルって…こんなイケメン設定だったの?もっとこう…テンプレな感じだと思ってたんだけど…」
ヴォイドはゆっくりと頷き、困惑と呆れが入り混じった表情を浮かべた。「どうなってんだよ、これ…」
「狂ってるわね…」リリスがぽつりと呟いた。
二人はしばし沈黙し、その異常な状況がじわじわと重くのしかかってきた。
先に口を開いたのはヴォイドだった。「…てことは、俺がここにいて、お前もいるってことは…」
「私たちの物語が…合体したのよ…」リリスは青ざめながら、現実を受け入れた。
ヴォイドは顔をしかめ、髪をかき乱した。「ああ…やっぱりな。昨日、酔っぱらって好き勝手話してたのが呪われたか…」
リリスは睨んだ。「あんたのせいでしょうが!『俺の主人公はジャンルを超越した究極の傑作』だとか、散々自慢してたじゃない!」
「お前だって『私の悪役令嬢は唯一無二』って何度も語ってたろ!」ヴォイドも応戦したが、どこか本気ではない。
リリスの頭はぐるぐると回っていた。ただでさえ、自分が物語の悪役に閉じ込められたのも大問題だが、今やヴォイドまで巻き込まれ、その上、二人の世界が混ざり合ってしまった。つまり…
彼女は顔を覆い、うめいた。「…終わったわ…」
ヴォイドは空を見上げ、ため息をついた。「とりあえず、状況は分かった。お前は追放される運命の悪役令嬢、俺はチート主人公――」
「で、あんたが私を倒す役目なんでしょう?」リリスが暗く言葉を継いだ。
二人は黙って見つめ合い、その現実の重さに押し潰されそうになる。
やがて、ヴォイドが首の後ろを掻きながら言った。「…で、どうやってこの地獄から脱出するんだ?」
リリスは無表情で彼を見た。「私に策があるように見える?」
ヴォイドは口元をわずかに吊り上げたが、目は笑っていなかった。「…じゃあ、行き当たりばったりだな。」
その時、遠くから兵士たちの足音が響いてきた。
「まずいな。城の中に戻った方がいい。」ヴォイドは声を低くした。
リリスは一瞬ためらったが、近づいてくる衛兵たちを見て、ヴォイドの後を追うしかなかった。頭の中はパニックでいっぱいだ。
ヴォイドは巨大な剣を軽々と担ぎ、その刃が薄暗い廊下で青白く光った。鎧は見た目こそ重厚だが、まったく音を立てない。その横で、リリスは苛立たしげに歩き回り、銀の髪が光の波のように揺れる。
「…床に穴が開くぞ。」ヴォイドがぼそっと言った。
リリスは睨み返し、きつく腕を組んだ。「悪いけど、こっちは今、人生最大の危機なのよ。あんたはチート剣持った最強主人公だけど、私は追放&死亡フラグ満載の悪役よ!」
ヴォイドは剣を握る手に力を込めた。「…俺だって望んでこうなったわけじゃない。そして今は、俺の物語のルールが優先される。だから、もうお前一人のバッドエンドで済まないんだ。」
リリスは眉をひそめた。「それ、どういう意味よ?」
まるで合図したかのように、空中に青白く輝く文字が現れた。
《ナラティブ目標:悪役令嬢を死なせてはならない。死は終焉を招く。》
リリスは青ざめた。「…全然シャレになってないんだけど…」
ヴォイドは顔をしかめた。「つまり、お前がバッドエンド――追放や死――に到達したら、本当に終わりだ。ゲームオーバーだ。」
リリスはその場で固まり、拳を握りしめた。「…マジかよ…失敗したらガチ死亡とか、なんなのそれ…」
ヴォイドはうなずいた。「これが俺の世界のルールだ。容赦はない。」
リリスは顔を手で覆い、呻いた。「最悪…。私、あんたのイカれたルールをかいくぐりつつ、自分の話も乗り切らなきゃいけないってわけ?」
もう一つの文字が空中に現れた。
《サブ目標:悪役令嬢を必ず守れ。失敗すれば物語は崩壊する。》
ヴォイドは歯を食いしばった。「それは……新しいな」
リリスは目を細めて彼を睨んだ。「それってどういう意味よ?ナラティブ崩壊って?」
「つまり、この融合した世界は、どっちかがミスった瞬間に全部崩れるってことだ」とヴォイドは短く答えた。「俺たちの物語はただ混ざっただけじゃない。ナイフの刃の上でバランス取ってる状態なんだ。どっちかが失敗すれば、もう片方も道連れだ」
リリスは苦笑いを漏らした。「つまり、私は破滅確定の悪役令嬢のまま、あんたに縛られてるってことね。最高じゃない」
ヴォイドはその皮肉に反応せず、薄暗い廊下を鋭く見回した。ブーツの足音が近づいてくる。明らかに衛兵たちが二人を探している。彼はリリスに合図した。
「行くぞ」その声は、反論の余地を与えない。
リリスは鼻を鳴らしながらも、豪華なドレスの裾をつかみ、つまずかないようについていった。「で、天才さん。どこに行くわけ?まさか、あんたのチート世界に秘密の出口でも書き込んであるわけ?」
ヴォイドの唇がわずかに引きつり、かすかな皮肉めいた笑みになった。「秘密通路ならいくらでも書いた。問題は、捕まる前に見つけられるかどうかだ」
二人は別の廊下に飛び込んだ。豪奢な装飾は、リリスの募る不安をまったく和らげてくれない。彼女はヴォイドの広い背中に目をやり、恐怖の奥でイライラが沸き上がった。
「全部あんたのせいよ」彼女は低く呟いた。「あんたが、バカみたいに過剰なシステム詰め込まなきゃ、こんなことになってなかった」
ヴォイドは肩越しに振り返り、青い目を細めた。「ああ、そうかよ。お前の終わりなき策謀と悲劇のバックストーリーだって大概だろ」
「少なくとも私の物語には繊細さがあったわ!」リリスは鋭く言い返した。「あんたのキャラなんて、人格ゼロのチートコードじゃない!」
「お前のキャラは策を巡らせるばかりで、実際には何も行動しねぇけどな」ヴォイドも負けじと言い返した。
リリスがさらに反論しようと口を開いた瞬間、足音が響き、彼女は言葉を飲み込んだ。ヴォイドが素早く彼女の手首をつかみ、暗がりの窪みに引き込んだ。
「静かに」彼は低く、しかし命令するような声で囁いた。
リリスは睨みつけたが、衛兵たちが通り過ぎるまで黙っていた。やがて足音が遠ざかり、ヴォイドは彼女の手を放し、影から出た。
リリスもスカートを払いながらついていった。「あんたの書いた衛兵がバカで助かったわ。そうじゃなきゃ、もう二人とも死んでた」
ヴォイドはため息をつき、髪をかき上げた。「いいか、言い争っても何の解決にもならん。まず、この状況の原因を突き止めるべきだ。なぜ俺たちの物語が融合したのかを」
リリスはニヤリと笑い、少しだけ自信を取り戻したようだった。「その余裕、いつまで持つかしらね」
二人はさらに宮殿の奥へと進んだ。その歩みは、二人の肩にのしかかる重圧をさらに重くした。――自らの手で生み出した世界に閉じ込められた二人の作家。想像を超える高いリスクに縛られ、互いの物語だけでなく、お互い自身をも乗りこなさねばならない。
どうしてこんな場所に来たのか、二人にはまだわからなかった。物語の融合が、どんな結末をもたらすのかも。しかし、ひとつだけ確かなことがあった――これは、ただの「書き直し」では済まない。