表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
93/95

Episode90 シェールンビルド(星座)


 五年生としての最初の一週間が、静かに始まった。


 終焉のロキが倒された――そんな空気がヴァルホッル全体を包み、学園の緊張感はすっかり緩んでいた。


 だが、私は知っている。

 終焉を目論む者は、まだこの世界に潜んでいる。

 だから、心は決して安らがなかった。


 グリームニル学園長は、終焉のロキから隔離していたイズン大天使を復職させた。

 月曜日の植物学では、春に成熟するはずだった植物たちを、厳冬の中でどう守るか――という、異例の授業が行われた。


 その保護方法は、私がアースガルル港で創造した「かまくら」に似ていた。


 イェラで創った植物の台座に、ケナズの癒しの火を灯し、ラグズの水膜で包む。

 その水の膜の内側にだけ、一時的な春を生み出すのだ。


「ただ技法を真似するだけじゃ意味がないの。植物の状態に応じて、すべてを調整しなければなりません」


 そう言って、イズン大天使は、まるで慈愛のような柔らかな手つきで一連の作業をやってみせた。

 けれど、それは熟練を要する繊細な技だった。台座の大きさ、火加減、水の厚み。すべてが絶妙でなければ植物は枯れてしまう。


 そんな中、ウートガルルの寒さの中で育ったソールとマーニは、その技術を既に体得していた。


 とくにソールは、まるでそこに昔からいたかのように、ヴァルホッルの空気にすんなりと馴染んでいた。

 一方のマーニはというと、人付き合いが得意ではないようで、いつも双子の姉の背後に控えるように立っていた。


 火曜日。テュール大天使の授業では、さらに厳しい現実が待っていた。

 テーマは「吹雪下での生存と戦闘」。


「吹雪の中では、声は風にかき消され、視界は奪われ、匂いも気配も分からぬ。何より、体温が奪われる。これらすべてを受け入れた上で、戦う術を学べ」


 テュール大天使の声が、教室を凍てつかせるように響いた。


 正午。私たちは雪原に放り出され、「考えられる全ての知識を用いて長時間の生命維持をせよ」という課題に取り組んだ。


 誰もが真っ先にスーリサズで身体を強化し、ケナズの火に縋った。

 だが、セイズは使えば尽きる。皆、あっという間にセイズを使い果たし、倒れていった。


 セイズを使わずに動いて暖をとろうとする者もいたが、結果は変わらなかった。


 私は、違う道を選んだ。


 セイズを使わず、ただ、雪の中に立ち続けた。


(寒さを拒むのではなく、受け入れよう...自然を、吹雪を、拒絶するのではなく、私の内に迎え入れるんだ...死を受け入れるように...)


 冷気が、じわじわと指先から生命を奪っていく。

 全身を雪に覆われた私は、もはや吹雪を感じなかった。


 だが、心臓だけは、激しく脈打っていた。生きようとする鼓動。それだけが、私をこの世界につなぎとめていた。


(意識を、鼓動に集中する……)


 燃え尽きることなく、しかし燃え上がることもなく――私は、まさに“生と死の狭間”に立ち続けていた。


 次に、酸素が薄くなった。

 私は、極限までセイズ量を抑え、イェラ、ラグズ、ソウィロ――三つのセイズを重ね合わせ、酸素を生み出した。


 どれだけの時間が経ったのかは分からない。


「……見つけたぞ、よくやった...」


 テュール大天使の手によって、私は雪の中から掘り起こされた。


 日は沈んでいた。


 この課題を達成できたのは、私と――ソールだけだった。


---


 水曜日。

 空は相変わらず雪に覆われ、地上に柔らかく冷たい沈黙を降らせていた。


 そんな中、私たちはブラギ大天使の詩学の教室に集っていた。


 教壇に立つブラギ大天使は、目を閉じて詩を口ずさんでいた。

 まるで一編の詩そのもののような存在だった。


「冬は、忌み嫌われがちだが、忌み嫌うことは破滅を生む...」


 大天使の声は、凍てつく空気に寄り添うように広がっていった。


「冬は、結晶を生む。それは、自然の中で生まれた最も美しい創造物...」

「冬は、静寂を生む。それは、すべての者に内省する時間を与える...」

「冬は、寒さを生む。それは、繋がりと温もりの大切さを、私たちに思い出させてくれる...」


 その言葉は、ヴァルドルやヘラを失った私たちの心に、静かに染み渡った。

 失うことも、また祝福に通じているのかもしれない──そう、思えた。


「冬にしか実らないものがある。ゆえに、それは、命ある者への紛れもない恵みなのだ...」


 そして──


「冬は、生きる者の足を止め、人生に休息を与えてくれる...」


 魂が凍えていた私たちにとって、それはまるで、言葉の焚き火だった。


---


 木曜日。

 歴史学の担当は、ムンディルファリ大天使へと変わっていた。


 彼の登場と同時に、教室の光がふわりと落ち、教室に満天の星が浮かんだ。


「今日は天界の天体について教える。星々から学ぶ歴史もあるのだよ」


 その言葉とともに、教室全体が星空のドームへと姿を変えた。

 煌めく星々、流れる光、浮かぶ星座──ヴァルプ座、カット座、そして名もない無数の星たち。


 その一つひとつに、物語があった。


「これは、春の訪れを待つ者が最初に見つける星だ」


 終わりのない冬の中で、春を告げる星の物語を聞けることが、どれほどの慰めだったか──

 誰もが、宙を仰ぎながら、心のどこかに小さな春の光を感じていた。


---


 金曜日。

 いつもなら、慈愛の象徴であるフリッグ大天使の講義が行われるはずだった。

 だが、彼女はヴァルドルの死の悲しみから立ち直れず、やせ細った姿を見せるだけで、その場を去っていった。


 代わりに教壇に立ったのは、フッラ大天使だった。

 その目は真剣で、言葉には重みがあった。


「今日教えるのは、二つのセイズ──《アンズズ》と《ウィドゲボ》です」


 セイズ。

 それは、世界の秩序を保つための術。

 この日教えられた二つのセイズは、いずれも“文明”そのものに影響を与えうるほどの、強力な力だった。


「アンズズは、救いを求める人々に“啓示”を与えるセイズ」

「ウィドゲボは、“幸福”そのものを創造するセイズです」


 私はすぐに想像した。

 飢餓に苦しむ人々たちの姿を。


(アンズズで、最低限の糧と生活を与え……ウィドゲボで、生きる術を導く……)


 卒業後、エインヘリャルとして世界を巡る中で、きっと何度も向き合うことになるだろう。


 しかし、フッラ大天使は、そこで表情を険しくした。


「これらのセイズは、諸刃の剣でもあります」


 教室の空気が緊張で凍りつく。


「アンズズで祝福を与えすぎれば、人は働かなくなり、文明は停滞し、やがて破滅を迎えるでしょう」

「ウィドゲボで誤った啓示を与えれば、戦争や混乱を招くことさえあります」


「だからこそ、高学年になってから、ようやくこのセイズを教えるのです」


 私は、深く息を吸った。


(力の使い方を誤れば、守るはずだったものすら壊してしまう……)


 それは、エインヘリャルとして世界の秩序を護る者にとって、最も根源的で重い教えだった。


 こうして、一週間が過ぎた。

 吹雪の中に、微かに春の予感が混じっていた。

 それは、知識や力、そして言葉という名の“灯火”によって生まれた、内なる春だった。


---


 一週間の授業が終わった金曜の放課後、私は学園の塔の最上階に設けられた観測室へと呼び出された。


 ムンディルファリ大天使──星々の動きを読み解く、ソールとマーニの父親が、私に用があるという。


「アウル君。君は、テュール大天使の授業での評価が高かったらしいね」


 薄暗い室内で、彼はレンズ越しに夜空を覗いたまま、私に声をかけた。


「助手を探しているんだ。正確な観測記録と、厳しい環境の中に身を置ける者を...どうかな?」


 私はすぐに答えなかった。


 助手──私に務まるだろうか。だけど、今の自分にできることがあるなら、やってみたい。そう思った。


「是非、やらせてください。私でよければ...」


 そう答えると、ムンディルファリ大天使は一瞬だけ満足そうに微笑んだ気がした。観測室で、私は天体助手としての一歩を踏み出した。


 その夜。今度はテンマの丘からの使いが、私を訪ねてきた。


 ──ハウグスポリさんだ。


 テンマの管理者であり、いつもテンマたちと丘の自然を守っている、優しいドヴェルグルの彼女。彼女が珍しく、深刻そうな表情をしていた。


「アウル...あなたの力を貸して欲しいの...」


「もちろんですよ、ハウグスポリさん。具体的には、何をすれば?」


「フィン洋装店のオーナー、フィンから連絡があったの。分厚い毛皮で覆われた動物のレンが、凍えてしまうほどの寒波が来るって...」


「テンマを、ヴァルホッルへ移す必要があるの。学園に運ぶ手伝いを頼める?」


 私は、迷わなかった。


「もちろんです!」


 天体観測の助手と、テンマ避難の支援。思いがけず、週末の予定が詰まってしまった。


 でも、こういう時こそ支え合わなければいけない。


 これは、私に与えられた「今できること」だ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ