Episode90 シェールンビルド(星座)
五年生としての最初の一週間が、静かに始まった。
終焉のロキが倒された――そんな空気がヴァルホッル全体を包み、学園の緊張感はすっかり緩んでいた。
だが、私は知っている。
終焉を目論む者は、まだこの世界に潜んでいる。
だから、心は決して安らがなかった。
グリームニル学園長は、終焉のロキから隔離していたイズン大天使を復職させた。
月曜日の植物学では、春に成熟するはずだった植物たちを、厳冬の中でどう守るか――という、異例の授業が行われた。
その保護方法は、私がアースガルル港で創造した「かまくら」に似ていた。
イェラで創った植物の台座に、ケナズの癒しの火を灯し、ラグズの水膜で包む。
その水の膜の内側にだけ、一時的な春を生み出すのだ。
「ただ技法を真似するだけじゃ意味がないの。植物の状態に応じて、すべてを調整しなければなりません」
そう言って、イズン大天使は、まるで慈愛のような柔らかな手つきで一連の作業をやってみせた。
けれど、それは熟練を要する繊細な技だった。台座の大きさ、火加減、水の厚み。すべてが絶妙でなければ植物は枯れてしまう。
そんな中、ウートガルルの寒さの中で育ったソールとマーニは、その技術を既に体得していた。
とくにソールは、まるでそこに昔からいたかのように、ヴァルホッルの空気にすんなりと馴染んでいた。
一方のマーニはというと、人付き合いが得意ではないようで、いつも双子の姉の背後に控えるように立っていた。
火曜日。テュール大天使の授業では、さらに厳しい現実が待っていた。
テーマは「吹雪下での生存と戦闘」。
「吹雪の中では、声は風にかき消され、視界は奪われ、匂いも気配も分からぬ。何より、体温が奪われる。これらすべてを受け入れた上で、戦う術を学べ」
テュール大天使の声が、教室を凍てつかせるように響いた。
正午。私たちは雪原に放り出され、「考えられる全ての知識を用いて長時間の生命維持をせよ」という課題に取り組んだ。
誰もが真っ先にスーリサズで身体を強化し、ケナズの火に縋った。
だが、セイズは使えば尽きる。皆、あっという間にセイズを使い果たし、倒れていった。
セイズを使わずに動いて暖をとろうとする者もいたが、結果は変わらなかった。
私は、違う道を選んだ。
セイズを使わず、ただ、雪の中に立ち続けた。
(寒さを拒むのではなく、受け入れよう...自然を、吹雪を、拒絶するのではなく、私の内に迎え入れるんだ...死を受け入れるように...)
冷気が、じわじわと指先から生命を奪っていく。
全身を雪に覆われた私は、もはや吹雪を感じなかった。
だが、心臓だけは、激しく脈打っていた。生きようとする鼓動。それだけが、私をこの世界につなぎとめていた。
(意識を、鼓動に集中する……)
燃え尽きることなく、しかし燃え上がることもなく――私は、まさに“生と死の狭間”に立ち続けていた。
次に、酸素が薄くなった。
私は、極限までセイズ量を抑え、イェラ、ラグズ、ソウィロ――三つのセイズを重ね合わせ、酸素を生み出した。
どれだけの時間が経ったのかは分からない。
「……見つけたぞ、よくやった...」
テュール大天使の手によって、私は雪の中から掘り起こされた。
日は沈んでいた。
この課題を達成できたのは、私と――ソールだけだった。
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水曜日。
空は相変わらず雪に覆われ、地上に柔らかく冷たい沈黙を降らせていた。
そんな中、私たちはブラギ大天使の詩学の教室に集っていた。
教壇に立つブラギ大天使は、目を閉じて詩を口ずさんでいた。
まるで一編の詩そのもののような存在だった。
「冬は、忌み嫌われがちだが、忌み嫌うことは破滅を生む...」
大天使の声は、凍てつく空気に寄り添うように広がっていった。
「冬は、結晶を生む。それは、自然の中で生まれた最も美しい創造物...」
「冬は、静寂を生む。それは、すべての者に内省する時間を与える...」
「冬は、寒さを生む。それは、繋がりと温もりの大切さを、私たちに思い出させてくれる...」
その言葉は、ヴァルドルやヘラを失った私たちの心に、静かに染み渡った。
失うことも、また祝福に通じているのかもしれない──そう、思えた。
「冬にしか実らないものがある。ゆえに、それは、命ある者への紛れもない恵みなのだ...」
そして──
「冬は、生きる者の足を止め、人生に休息を与えてくれる...」
魂が凍えていた私たちにとって、それはまるで、言葉の焚き火だった。
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木曜日。
歴史学の担当は、ムンディルファリ大天使へと変わっていた。
彼の登場と同時に、教室の光がふわりと落ち、教室に満天の星が浮かんだ。
「今日は天界の天体について教える。星々から学ぶ歴史もあるのだよ」
その言葉とともに、教室全体が星空のドームへと姿を変えた。
煌めく星々、流れる光、浮かぶ星座──ヴァルプ座、カット座、そして名もない無数の星たち。
その一つひとつに、物語があった。
「これは、春の訪れを待つ者が最初に見つける星だ」
終わりのない冬の中で、春を告げる星の物語を聞けることが、どれほどの慰めだったか──
誰もが、宙を仰ぎながら、心のどこかに小さな春の光を感じていた。
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金曜日。
いつもなら、慈愛の象徴であるフリッグ大天使の講義が行われるはずだった。
だが、彼女はヴァルドルの死の悲しみから立ち直れず、やせ細った姿を見せるだけで、その場を去っていった。
代わりに教壇に立ったのは、フッラ大天使だった。
その目は真剣で、言葉には重みがあった。
「今日教えるのは、二つのセイズ──《アンズズ》と《ウィドゲボ》です」
セイズ。
それは、世界の秩序を保つための術。
この日教えられた二つのセイズは、いずれも“文明”そのものに影響を与えうるほどの、強力な力だった。
「アンズズは、救いを求める人々に“啓示”を与えるセイズ」
「ウィドゲボは、“幸福”そのものを創造するセイズです」
私はすぐに想像した。
飢餓に苦しむ人々たちの姿を。
(アンズズで、最低限の糧と生活を与え……ウィドゲボで、生きる術を導く……)
卒業後、エインヘリャルとして世界を巡る中で、きっと何度も向き合うことになるだろう。
しかし、フッラ大天使は、そこで表情を険しくした。
「これらのセイズは、諸刃の剣でもあります」
教室の空気が緊張で凍りつく。
「アンズズで祝福を与えすぎれば、人は働かなくなり、文明は停滞し、やがて破滅を迎えるでしょう」
「ウィドゲボで誤った啓示を与えれば、戦争や混乱を招くことさえあります」
「だからこそ、高学年になってから、ようやくこのセイズを教えるのです」
私は、深く息を吸った。
(力の使い方を誤れば、守るはずだったものすら壊してしまう……)
それは、エインヘリャルとして世界の秩序を護る者にとって、最も根源的で重い教えだった。
こうして、一週間が過ぎた。
吹雪の中に、微かに春の予感が混じっていた。
それは、知識や力、そして言葉という名の“灯火”によって生まれた、内なる春だった。
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一週間の授業が終わった金曜の放課後、私は学園の塔の最上階に設けられた観測室へと呼び出された。
ムンディルファリ大天使──星々の動きを読み解く、ソールとマーニの父親が、私に用があるという。
「アウル君。君は、テュール大天使の授業での評価が高かったらしいね」
薄暗い室内で、彼はレンズ越しに夜空を覗いたまま、私に声をかけた。
「助手を探しているんだ。正確な観測記録と、厳しい環境の中に身を置ける者を...どうかな?」
私はすぐに答えなかった。
助手──私に務まるだろうか。だけど、今の自分にできることがあるなら、やってみたい。そう思った。
「是非、やらせてください。私でよければ...」
そう答えると、ムンディルファリ大天使は一瞬だけ満足そうに微笑んだ気がした。観測室で、私は天体助手としての一歩を踏み出した。
その夜。今度はテンマの丘からの使いが、私を訪ねてきた。
──ハウグスポリさんだ。
テンマの管理者であり、いつもテンマたちと丘の自然を守っている、優しいドヴェルグルの彼女。彼女が珍しく、深刻そうな表情をしていた。
「アウル...あなたの力を貸して欲しいの...」
「もちろんですよ、ハウグスポリさん。具体的には、何をすれば?」
「フィン洋装店のオーナー、フィンから連絡があったの。分厚い毛皮で覆われた動物のレンが、凍えてしまうほどの寒波が来るって...」
「テンマを、ヴァルホッルへ移す必要があるの。学園に運ぶ手伝いを頼める?」
私は、迷わなかった。
「もちろんです!」
天体観測の助手と、テンマ避難の支援。思いがけず、週末の予定が詰まってしまった。
でも、こういう時こそ支え合わなければいけない。
これは、私に与えられた「今できること」だ。