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Episode48 ミスベレークニング(誤算)


 頬に当たる冷たい風で、私は目を覚ました。


 薄く目を開けると、すぐ近くにセク様の柔らかな表情が見えた。その奥で、ビュグヴィルとベイラの小さな姿も私を見つめている。


(……ここは?)


 私は身をよじって、赤ん坊の姿から戻すようセク様に合図を送った。


(元の姿に戻していただけますか……)


 セク様は惜しそうに、そっと私を地面に降ろす。瞬く間に身体が変化し、私は元の姿に戻った。


 そこは、不思議な雰囲気に包まれた針葉樹の森だった。木々はどこか鉄のように鈍く輝き、葉擦れの音すら金属音のように耳に響く。アールヴルルか、スヴァルトアールヴルルか、それすら判別できない奇妙な樹々が静かに立ち並んでいた。


(……口の中が変な味がする。この肌寒さ……)


 私は自分を見つめていた三人に尋ねた。


「セク様、ここはウートガルルですか?」


 セク様は目を見開き、わずかに驚いた表情を浮かべた。


「流石ね、アウル。そう、ここはウートガルルの秘境の森――イアールンヴィズ。私がラタトスク様の頬袋から出た時には、すでにこの場所にいたわ。その後、あの二人のアールヴが姿を現したの」


 私はビュグヴィルとベイラに顔を向け、問いかける。


「どうして、二人がここに?」


 先に答えたのはベイラだった。


「私たちは、アウルさまをスヴァルトアールヴルルにお届けしたあと、フローズヴィトニルの血液を採取するためにヴァルホッルへと向かいました。そして、最上階で採取した古い血をもとに――黄金化の治療薬を創造してみたのです」


「……ヴァルホッルに行ったの?!学園はどんな様子だった?!終焉のロキやウートガルルの軍勢に占拠されてなかった!?」


 私は声を強めて問い返す。


 答えたのはビュグヴィルだった。


「ヴァルホッルには黄金化された者以外、誰の姿もありませんでした。血を採取しているとき、大広間で一瞬だけ人の気配を感じましたが、覗いた時には、そこにも誰もいませんでした...」


(……ウートガルルではない。なら、その気配……終焉のロキの可能性もある……)


 ざわめく思考を抑えながら、私は本題を尋ねる。


「それで……治療薬はどうだったの?」


 ベイラは、悔しそうに唇を噛み、ぽろぽろと涙をこぼしながら答えた。


「創造した治療薬を、ミュルクヴィズの黄金化したビョルンに使ってみましたが……効果は、ありませんでした。……お力になれず、申し訳ありません……」


 私は表情を緩めて、そっと首を横に振った。


「ベイラ、君が謝ることなんて一つもないよ。フローズヴィトニルの血が古かっただけだ。それに……ヴァルホッルまで行って命をかけた。とても勇敢で、誇るべき行動だよ...」


 その言葉に、ベイラはさらに泣き出してしまった。私は彼女の小さな身体を、そっと抱きしめた。


 ふわりと、胸の奥が温かくなる――


 やがて、ビュグヴィルが話を続けた。


「ミュルクヴィズからイグドラシルへ戻ろうとしたとき、目の前にラタトスク様が現れたのです。私たちは風のように吸い込まれて……頬袋の暗闇から出た先で、アウルさまがデックアールヴァルに抱かれているのを見たのです」


 私は泣き止んだベイラをそっと解き、静かに言った。


「……そういうことだったんだね」


 その時、セク様が声を上げた。


「ラタトスク様は、この森のどこかにフローズヴィトニルがいると仰ったわ。私とこの二人は、あなたを護るよう命じられているの」


「そんな危険なことはさせられないよ。ラタトスク様の命令であっても……」


 私が落ち着いた声でそう告げると、セク様はふふっと微笑んで首を振った。


「そう言うと思ったわ。だから私も、ラタトスク様に言ってやったの。命令がなくても、私はそうするつもりでした、ってね」


 彼女の視線が、ビュグヴィルとベイラへ向く。


「この二人も同じ気持ちだったみたい。ラタトスク様は、それを見て……満足そうに姿を消したのよ」


 その言葉に、私は胸が熱くなった。じわりと、目頭が滲む。


「セク様……ビュグヴィル……ベイラ……ありがとう...」


 私はそう言って、大きく息を吸った。


「――フローズヴィトニルを探しに行こう」


 三人は、まるでそれを待っていたかのように頷いた。


 私たちは風に揺れる針葉樹の森を背に、秘境イアールンヴィズの奥へと、静かに、しかし確かな歩みを進めた。


---


 私たちは、冷たい霧がたちこめるイアールンヴィズの森の中を、静かに、そして慎重に歩いていた。


 万が一の事態に備え、私はフェングを使って〈グレイプニル〉を呼び出す。薬指の指輪が淡く光り、私の手のひらに、虹色に揺れる言霊の紐が現れた。


「それは?……」

 セク様、ビュグヴィル、ベイラの三人が一斉に目を見開く。


 私は彼女たちに説明した。


「これは……フローズヴィトニルを捕縛するための紐。ローニさんは『グレイプニル』と呼んでいたよ」


 セク様が、ごくっと息を呑む。


「縛られていないのに……すさまじい力を感じるわね」


「その紐なら、絶対にフローズヴィトニルを捕まえられますよねっ?!」

 ベイラが目を輝かせながら言った。


 私は力強く頷く。


(世界から六つの存在を消して生まれた紐……切れるはずなんてない...)


 そのとき――木々のざわめきが変わった。


「……アウル、気をつけて。囲まれてるわ...」

 セク様が、鋭い声で囁いた。


 私はすぐに〈スーリサズ〉で身体強化を行い、背中を合わせるようにセク様、ビュグヴィル、ベイラと位置を取る。


(九……いや、十以上の気配!……)


 森の中に緊張が走った瞬間、私の目の前――木陰から、人影が一つ、静かに姿を現した。


「驚かせてしまってごめんなさい。私はヤールンサクサ。グレイプニルを持つ者よ、長老イアールンヴィジュル様の命により、お迎えに上がりました」


 声は優しく、けれど芯の通った響きを持っていた。


 姿を現した彼女は、ヘジン大天使に似た獣の耳を持つユールメニスカだった。首元には牙のような装飾が下がる首飾り。まるで獣の誇りを刻んだかのようなその姿に、私は確信した。


(ここは……ヘジン先生が話していた、ユールメニスカの暮らす限られた森……それが、このイアールンヴィズだったんだ...)


 そして、グレイプニルの存在を知る者――ただ者ではない。


 私は〈スーリサズ〉のセイズを解き、敵意がないことを示した。


「私はアウル。この三人は私の仲間――セク、ビュグヴィル、ベイラ。フローズヴィトニルを探すために、ラタトスク様に導かれてこの地へ来ました」


「長老イアールンヴィジュル様が、フェ...フローズヴィトニルの居場所をご存知です。どうか、こちらへ」


 ヤールンサクサの言葉に、セク様は警戒の色を解かずに睨み続けていたが……ビュグヴィルとベイラはすでにふわふわと浮かび、導かれるまま宙を進んでいた。


(信じるのが早いな...)

 私は小さく苦笑して、セク様に視線を向けた。


「警戒は必要だけど……フローズヴィトニルの居場所を知らずに歩くのも危険です。着いて行きましょう、セク様」


「……わかったわ。でも、何があっても、あなたは私が護る」


 その言葉を胸に刻み、私たちはヤールンサクサに案内されて、深い森の奥へと足を進めた。


 やがて――霧が晴れるように、木々が開けていく。


 そこには、自然と共に生きる美しい集落が広がっていた。樹々と同化するように作られた住居、風に揺れる花々、小川のせせらぎの音が心地よく耳を撫でる。


(ここが……イアールンヴィズに棲むユールメニスカの里……)


 私は、目の前に広がる光景を、ただ静かに見つめていた。


---


 私たちは、ヤールンサクサの案内で静かに集落の中を進んだ。


 木々の緑と調和した建物が点在するこの場所に生きる者たちは、皆――獣耳と尻尾を持つユールメニスカだった。先ほど森で気配を感じた者たちも次々に姿を現し、私たちを囲んだが、その表情には敵意の代わりに、どこか切ない慈しみがあった。


(ウートガルルの中に……こんな集落があるなんて……)


 私たちは一際大きな神木のような住居の前に辿り着いた。木々に覆われたその家の前には、巨大な狼――いや、フローズヴィトニルさえも凌駕する巨体の獣が眠っていた。


「申し訳ございませんが、これより先は、アウル様お一人でお進みください...」


 ヤールンサクサの言葉に、セク様は依然として警戒を解かず私の前に出ようとする。私は目配せで「大丈夫」と伝えた。


 すると、ふわふわと浮いていたビュグヴィルとベイラが、一歩前に出る。


 ――その瞬間だった。


 巨大な狼が姿勢を変えずに目を見開き、剥き出しの牙を顕にした。


 二人はまるで凍りついたように宙で硬直し、セク様の腕の中へと戻された。


 私が一歩進むと、狼は再び目を閉じ、穏やかな寝息を立て始めた。


(……通行を許されたのは、私だけ……)


 私は家の扉の前で一礼し、ノックをして中へと入った。


 中はほの暗く、木の香りと薬草の匂いが入り交じる、静謐な空間だった。玄関で立ち尽くす私の前に、巫女装束を身に纏ったユールメニスカが現れた。


「イアールンヴィジュル様がお待ちです」


 私は無言で頷き、その後をついていく。


 歩を進めると巫女から匂いがした――(この匂い……どこかで……)


 巫女が帳の前に立ち、声を上げた。


「イアールンヴィジュル様、グレイプニルを持つ者が到着されました」


 薄い帳の奥から現れたのは――長老とは思えぬ若い顔立ちのユールメニスカだった。白銀の髪、澄んだ瞳。静かな威厳と、凛とした気品を備えていた。


「私はイアールンヴィジュル。この森の長を務めています。ご足労、感謝いたします、グレイプニルを持つ者よ」


 その美しさに、私は一瞬言葉を失いながら、名乗った。


「私は、ヴァルホッルのエインヘリャル……アウル・ゴードと申します」


 イアールンヴィジュルは、すぐに本題へと入った。


「お互いに、時間がありません。――ここへお呼びしたのは、フェンリスを、あなたに救ってほしいからです」


 その言葉に、私は思わず眉をひそめた。


(救う? フローズヴィトニルを?……)


「詳しく……お聞かせ願えますか」


 イアールンヴィジュルは静かに頷いた。


「あなたたちがフローズヴィトニルと呼ぶ獣は、本来、この森に生まれたユールメニスカであり、名を“フェンリス”といいます。彼女は……ロキの娘です。呪いを受けた、哀れな子なのです」


(…娘……)


「大昔ロキはこの森に現れました。若く、聡明で、優しき青年でした。この森を愛し、ひとりのユールメニスカを愛し、子をなした……それがフェンリスです。幼い頃から強い力を持っていたフェンリスは、やがて、ロキの……闇の野望の道具として使われてしまった...」


 イアールンヴィジュルの目が、悲しみに揺れる。


「この森を出たロキは創造主ユーミルを暗殺し、フェンリスを“フローズヴィトニル”として、世界の敵に仕立てたのです。今回の脱獄も……恐らく彼の仕業でしょう...」


 その言葉を聞いて、私は視線を落とした。


(……ヘジン先生が、フローズヴィトニルの捕縛に執着していたのは……この真実を知っていたからか...)


「あなたの持つグレイプニルなら、フェンリスを縛ることができる。どうか……その紐で彼女を救ってあげてください」


「……」


「表にいるのは――マーナガルム。彼が遠吠えを上げれば、フェンリスは姿を現すでしょう」


 私の心は混乱していた。


(アースガルルを救うには大量の血が必要……だけど、フェンリスは呪われて利用されただけの無実の存在だった...罪は、終焉のロキにある……両方を救うことはできない...)


 迷いと葛藤を胸に、私は深く一礼した。


「……私が、フェンリスを捕縛してみせます」


 その言葉に、イアールンヴィジュルは静かに瞼を伏せた。


 巫女姿のユールメニスカが、再び私を出口まで案内してくれた。玄関に立ち、礼を言おうと振り返った時――


 彼女は、そっと扉を閉じながら、泣いていた。


(……泣いている?...)


 私は、胸に残る重いものを抱きながら、再び仲間たちの元へと戻った。セク様が眉をひそめ、ビュグヴィルとベイラが心配そうにこちらを見つめていた。


---


「アウル、無事だったのね! 何もされなかった?!」


 家の外で待っていたセク様が、駆け寄ってきた。鋭い目つきはそのままに、私の体を隅々まで確認するように見つめている。


 私は整理がつかず呆然としたまま、少しだけ笑みを浮かべて答えた。


「……うん。大丈夫。何もされてないよ」


 心配してくれた気持ちは嬉しかった。でも、私の胸の中は、別の重たさで満たされていた。


「……あの巨大な番犬、マーナガルムに頼めば、フローズヴィトニルを呼び出せる。長老……イアールンヴィジュルは、そう言ってた」


 私は視線を遠くに向けながら、言葉を続けた。


「ラタトスク様が私たちを降ろしてくれた場所……あの鉄のような木々の森なら、フローズヴィトニルも戦いにくいはず。きっと……そこが最善の地になる」


 でも、それ以上は考えないことにした。


(生かすにしても、殺すにしても。まず、彼女を捕縛しなければならない...)


 (決着をつけるまでは、なにもわからない。私が生きて帰れるかどうかも。)


 私は、胸の奥にあるためらいを、心の底に押し込めた。


 覚悟を決めた瞬間だった。


 静かに歩き出すと、巨大な狼――マーナガルムがこちらに気づき、ゆっくりと立ち上がった。


 その瞳は、全てを見通すかのような深さを持っていた。


(……マーナガルムが戦った方が勝てるんじゃないか?...)


 そんな正論が脳裏をよぎる。でも、私はそれを飲み込んで、彼を見上げた。


「マーナガルム!」


 私はまっすぐに叫んだ。


「フェンリスを呼び出して欲しい! 私に……着いてきてくれ!」


 マーナガルムは一度だけ低く鼻を鳴らし、その巨体を動かし始めた。


 彼の歩幅は大きく、すぐに私の横へと並ぶ。


 私は、仲間たち――セク様、ビュグヴィル、ベイラの方を一瞥して、言った。


「行こう。」


 私たちは、ユールメニスカの集落を後にして、静かに歩き出した。


 その背後には、巨体に似合わず歩いているのか分からないほど静かな足音のマーナガルムが続いていた。


(いよいよ、だ……)


 木々の合間に差し込む月光が、まるで最後の審判へと続く道を照らしているようだった。


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