Episode46 レーケメーデル(治療薬)
ラタトスクの口の中へ放り込まれた瞬間、私は身体が左へと吸い込まれるような、不思議な感覚に包まれていた。
(……この感覚……ベイラの頬袋に入れられたときと、同じ……)
あの時は口からすぐのところに“収納空間”があったが、ラタトスクのそれは次元が違った。暗闇の中を、どこまでもどこまでも漂っている。
(……本当に“頬袋の中に国”があるんだろうか……ベイラの頬袋は、ふわとろ毛布に包まれたファーストクラスみたいな感じだったけど……)
闇の中、ふとある疑問が浮かんだ。
(そういえば……フローズヴィトニルって、アールヴルルで投獄されていたって言ってたよな……終焉のロキは、ラタトスクを見つけて脱獄させた?..... フローズヴィトニルは、どうやって頬袋の中から出たんだ?……)
そんなことを考えていると――
「むんずっ」
という音と共に、何か柔らかいものにぶつかった。
(着いた……のか? でも、何も見えない……)
全身が、その得体の知れない柔らかさに取り込まれていく。
(……身動きが取れない……息が……)
顔が“壁”に飲み込まれると、不思議なことに、代わりに足元の感覚がふっと軽くなった。
(この壁の先には、何かある……)
まるで、薄い沼を通り抜けているようだった。私はバンザイしたままの格好で、全身がその“壁”を通過していくのをじっと待つ。
そして、頭部が境界を越えた瞬間、目の前に広がったのは――
巨大な空間。空と海を備えた、ひとつの“国”。
(……っ!? ここが……アールヴルル……?)
下方には大陸と島々が浮かび、青い空が頭上に広がっている。まるで大気圏から見下ろす地球のような光景だった。
(……本当に、頬袋の中なのか?)
万歳していた腕が自由になった私は、すかさず《ライド》で空間を下降する。
高度を下げるにつれ、さっきまで「黒い壁」だった上空が淡く色づき、やがてまるで本物の空のように澄み切っていく。
(空もある……長くいたら、ここが頬袋だってこと、忘れてしまいそうだな……)
目に映るのは、まるで一つの星の風景。大小の街と、点在する森。川が流れ、風が吹く。
(ラタトスクさんは、「黄金化に詳しいアールヴがこの国にいる」と言っていた……。まずは、そのアールヴを見つけないと……)
下降しながら私は、空から見えた中で最も建築物の多く密集した都市へと進路を取った。
(あの街なら、きっと情報が集まっている……)
都市の外れにあった広場のような場所へと、私は静かに降り立った。
足をついた瞬間、大地の感触は温かく、どこか懐かしい柔らかさがあった。
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アールヴルルの地に降り立った私は、まずその“建築様式”に目を奪われた。
(……これがアールヴの街……?)
街のいたるところに立ち並ぶのは、大きな流木のような建物たち。それぞれに穴が空いていて、よく見ると入口のようにも、窓のようにも見える。
(まるで海から流れ着いた木を組み立てて作った家みたい……あの穴の中に住処があるのかな……)
けれど、どれだけ目を凝らしても、街に“住人”の姿は一切見えなかった。
(……誰もいない……?)
だが、街そのものが死んでいるわけではない。建物の中からは、かすかに“生き物の気配”が感じられる。
(……隠れている? それとも……私を警戒してるのか……)
私は最寄りの流木ハウスへと歩き、そっとその壁に爪を立ててノックした。
コン、コン、コンッ。
返事はない。
(……やっぱり、警戒されてるのかな……)
小さく咳払いし、少し声を張った。
「んっん……私は、ヴァルホッルから来ました。エインヘリャルのアウルです。黄金化を治す方法を探して、ラタトスクさんに認められてアールヴルルへ来ました。この街に、黄金化について知っているアールヴはいますか?……」
……沈黙。風の音すらない静寂が返ってくる。
(……穴を覗くのは失礼だし、腕を突っ込むわけにもいかないし……)
ため息をつきかけたときだった。
スっ……スっ…スっ…
左右の流木ハウスから、小さな栗鼠の手のようなものが一斉ににょきっと出てきた。
(!……びっくりしたっ...)
その手たちは、まるで指差し標識のように一方向を指している。
(……案内? 私に道を示してくれてるのか?……)
驚きながらも、私は指差す方向に向かって小さく一礼し、声をかけた。
「……ありがとうございます」
アールヴの手たちは、そのまま穴から手だけが出ていた。
(……アールヴルルに住むアールヴって、すごくシャイなのかな。でも、声が届いてたってことは――いや、もしかすると“アールヴの報せ”で意思を共有してるのかもしれない……)
私は、右へ左へと続く“手の標識”を辿りながら、無人のようで無数の視線を感じる街を進んでいった。
すると――
「っ!?」
前方から、何かが飛んできた。
(速い!)
すぐさまスーリサズを発動して身体強化し、反射的に身構える。風の中を切り裂くように、何かがこちらに向かってくる。私は目を凝らし、動きの正体を見極めた。
――が、すぐにスーリサズを解いた。
(あれは!!――)
前方から飛翔してきたのは、見覚えのある小さな二人だった。
ビュグヴィルとベイラ。
フレイの家――ユングヴィ家に仕える、小さな従者たち。
空中でくるくると舞うように、二人の小柄なアールヴが私の前に降り立った。
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「やっぱり! 坊っちゃまのお友達のアウルさまだ!」
「アウルさまっ!」
その声が耳に届いた瞬間、私は名前を叫んでいた。
「ビュグヴィル! ベイラ!」
見知らぬ異国の地で、懐かしい顔に出会える――それがどれほど心強いことか。私は喜びを隠す余裕もなく、二人の姿に駆け寄った。
「二人とも……黄金化してなかったんだね!」
ビュグヴィルが胸を張って答える。
「はい! イェロヴェリルの洞窟で、フローズヴィトニル脱獄の報せを受けてから、ニョルズ様の命令でアールヴルルへ戻っていたんです!」
ベイラも元気そうに笑った。
「アウルさまこそ……無事でよかったです!」
「ありがとう。アースガルルは、イズン大天使が黄金化してしまった影響で……今、国ごと黄金化に包まれているんだ……」
私は言いながら、顔を曇らせる。
「……二人は、黄金化の治し方について何か知ってる?」
ビュグヴィルとベイラは、目を見合わせ、小さくうなずいた。
「はい。知っています」
「ほんとうに!?…… じゃあ、治せるんだね!?」
私は思わず声を弾ませた。けれど、その希望はすぐに砕かれる。
ビュグヴィルとベイラの表情が、陰を落としたのだ。
「……黄金化の治療薬には、フローズヴィトニルの“血”が必要なのです」
「そして……私たちアールヴには、その血を採取する力がありません...」
「……っ」
地面が抜けるような感覚だった。上がった心が、一気に地に叩きつけられる。
(術者の血が……必要?…… でも、あの巨体から、どうやって……)
絶望しかけたその時、私はある光景を思い出した。
「……その血って、古くなってても大丈夫なのかな!?」
「学園の最上階……あそこは、フローズヴィトニルの血溜まりだった! 残ってるかもしれない!」
けれど、ビュグヴィルとベイラは、困ったように目を伏せた。
「……やってみたことがないので、何とも……」
「そう……だよね……」
(……でも、学園にはもう“終焉のロキ”や“ウートガルル”の軍勢がいるかもしれない……)
(……あの場所に戻るのは、リスクが高すぎる……)
私は手を伸ばし、フェングから長い破片を取り出した。
――それは、イェロヴェリル最強の鎖“ドローミ”の欠片だった。
「ドローミでも縛れなかったんだ……フローズヴィトニルは、どうやって投獄されていたの?」
ビュグヴィルとベイラは、静かに答えた。
「それは……私たちにも分かりません」
「彼はこのアールヴルルではなく、正確には“スヴァルトアールヴルル”という、頬袋の“もう一つの側”に投獄されていたのです」
「……スヴァルトアールヴルル!?」
私は驚きに目を見開く。
「じゃあ、ここと同じような島国が、もう一つの頬袋にもあるってこと?」
「はい。スヴァルトアールヴルルには、“デックアールヴァル”が暮らしています」
(デックアールヴァル……対話の授業で出会った、あの妖艶な妖精……)
「ってことは、そっちに行けば……フローズヴィトニルを縛る方法が見つかるかもしれないんだね?」
ビュグヴィルとベイラは、再び黙り込んだ。そして――重い現実を口にする。
「……ですが、一度スヴァルトアールヴルルに入れば、もう戻って来られないかもしれません」
「アウルさま。エインヘリャルの生気は……彼らにとって、ご馳走なのです」
(……ラタトスクさんが言っていた“覚悟”って、これのことだったんだ……)
私は静かに息を吐き、笑みを浮かべて言った。
「大丈夫。私は、対話の授業で彼らとの交渉を成功させたことがある。だから、今回もきっとなんとかなるよ」
私のその言葉に、ビュグヴィルとベイラは目を丸くしたが、すぐに真剣な顔でうなずいた。
「……わかりました、アウルさん」
「私が、お連れします」
そして、私はベイラの頬袋へと身を沈めた。
ふわっと、包み込まれる感触。
(……やっぱり、頬袋の中はベイラが一番だな……)
頬袋の中でそう思いながら、私は新たな覚悟を胸に、未知の地、スヴァルトアールヴルルへと向かう。
(フローズヴィトニルを捕縛し、血を手に入れないと...)