Episode44 フォシュクニング(研究)
私は、黄金に染まった大広間イザヴェルをあとにした。
後ろを振り返らないようにしても、まぶたの裏にはまだ残っている。
黄金に変わってなお、私を見守るように笑っていた――フリッグ副学園長の瞳。
そして、何も告げぬまま黄金となったグリームニル学園長の背。
(……老衰化の時も、何で私だけ、黄金化しないんだ...)
自分の中で小さく呟きながら、私は最上階の廊下を歩いた。
そこは、まるで戦場のようだった。
天井近くまで跳ね上がった紅い飛沫。
フローズヴィトニルの血液が、白壁を赤く染めている。
破壊された鎖――ドローミの破片が、壁に突き刺さっていた。
(……これが、イェロヴェリル“最強”の鎖の末路か...)
私は、一番長く残っていた破片を抜き取り、そっとフェングの指輪に収納する。
(……片脚くらいなら、縛れるかもしれない...)
淡い希望だった。だが、それでも希望だった。
何も残さないよりは、遥かに良い。
私は、紅い足跡を辿りながら階を降り、イズン大天使の果樹園を目指した。
途中、心の中で整理する。
――大広間の黄金化は、フローズヴィトニルの牙による直接的なものではない。
そう仮定した根拠が、一つずつつながっていく。
(黄金化が広がったのは、フリッグ副学園長が咬まれた後……そしてグリームニル学園長が彼女に触れた後だった。ならば、源はイズン先生……)
もしイズン先生がすでに黄金化していたとすれば、老衰化の時と同じくアースガルルの者が連鎖的に――。
(……だから、フローズヴィトニルが果樹園に向かったという足跡が意味を持つ...)
学園の床に刻まれた巨大な足跡。
それは、真紅の血に塗れていた。
(これだけの出血……それでも動いているのか。……凄まじい生命力だ)
考えるたび、背筋が凍る。
そんな相手が、まだ学園内に潜んでいる。
どこかで、息を潜めている可能性がある。
果樹園への扉に辿り着いた時、思わず息を呑んだ。
扉の前には――黄金化したヘジン大天使の姿があった。
「……ヘジン先生…」
胸に湧き上がる、怒りとも悲しみともつかぬ感情。
私は言葉を失いながら、ただ彼女の表情を見つめた。
その顔には――守れなかった者の、無念が、深く刻まれていた。
(……一人で……イズン先生を護って……)
私は、破壊された生垣の中へと足を踏み入れた。
血の跡。肉を抉られた痕。
フローズヴィトニルでさえ、ここを突破するのは容易ではなかったのだろう。
そして――
私は、果樹園に、辿り着いた。
風が止まり、空気が沈黙する。
この奥に、答えがある。
黄金化の源。フローズヴィトニルの目的。イズン大天使の安否――
そのすべてが、果実と共にここにあると、私の心は確信していた。
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果樹園に一歩足を踏み入れた瞬間、私は立ち止まった。
スールの果実――その熟れた甘い香りが、風とともに鼻をくすぐる。
まるで、去年の収穫の光景が脳裏に甦るようだった。
陽光にきらめく果実。誇らしげに枝を揺らすスールの木々。
――あのとき、イズン先生は涙ながらに大収穫を喜んだ。
(……今は、思い出に浸っている場合じゃない...)
甘い香りに誘われそうになる自分を、心の中で叱った。
それでも、胸の奥には、否応なしに哀愁が宿る。
私は、静まり返った果樹園をゆっくりと歩いた。
その足取りは、まるで記憶の中を辿るようで――けれど、今回の導き手は血に染まった足跡だった。
フローズヴィトニルの足跡。
それは、果樹園の奥へと続いていた。
この血塗れの道がなければ、イズン大天使はきっと今も誰の目にも触れぬままだったろう。
(……でも、見つけるのは私の役目だ)
私は足跡の終点に立ち、静かにセイズを発動する。
「……ペルスロ」
それは、隠されたものを暴くセイズ。
声には出さず、心の声だけで無詠唱を成す。術式は流れ、空間がゆらいだ。
そこにあったもの――
黄金に染まったイズン大天使の姿が、目の前に顕れた。
「……っ……」
その姿に、私は言葉を失った。
フローズヴィトニルの太い首を、まるで愛しいものを抱きしめるように両腕で包んだまま、固まっていた。
(……抵抗しなかった? いや、違う。包み込もうとしたんだ...)
ただ討つためでもなく、逃げるためでもなく、
イズン大天使は――愛情で、フローズヴィトニルを受け止めようとしたのだ。
(……じゃあ、フローズヴィトニルはどうやって、黄金化したイズン先生の腕から抜け出したんだ?)
理解が追いつかない。
誰もいないことを確認し、そっと黄金の女神の前に座る。
「……先生...」
フローズヴィトニルが、終焉のロキの元に戻る前に、私はしなければならない。
――この黄金化を解く方法を、見つけなければ。
だが……。
思い出されるのは、数ヶ月にわたる調査の末に得た、あまりにも乏しい成果。
おとぎ話の中の記述。
著者はラタトスク、文字はアールヴ語。
(それだけ……他には何もない)
絶望が、喉元まで込み上げてきた。
果樹園の柔らかい土に座り込む。
気を抜けば、思考が途切れそうになる。
(……このまま、ここで……ロキか、ウートガルルの軍が来るのを待ってもいいかも……)
ふと、そんな考えがよぎる。
でも。
(……諦めちゃ、ダメだ...)
私は唇を噛みしめた。
(フローズヴィトニルは重傷だ。すぐにロキの元には戻れないはず……なら、今が、わずかな猶予なんだ...)
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。
(アールヴ語……アールヴルル。アールヴたちの住処について、図書室で探せば――何かが見つかるかもしれない...)
そう、まだ終わっていない。
私は、黄金化したイズン大天使のあたたかい記憶が残る胸に抱きついた。
胸に広がるのは、果実の香りと、胸の奥の震え。
一度だけ、深く深く、息を吸って――
私は立ち上がり、果樹園をあとにした。
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果樹園を後にしようとしたその時だった。
視界の端に、見覚えのある背中が映った。
「……ヘジン先生...」
黄金化したヘジン大天使が、果樹園の入り口の近くに佇んでいた。
だが、その後ろ姿には違和感があった。
(……変な体勢…)
まるで、何かに手を伸ばしているような――あるいは、何かを隠そうとしているような。
私は慎重にその場へと歩を進めた。
そして、部屋の隅に落ちている一つの鍵に気づいた。
「これは……」
ヘジン大天使が黄金化する前に、フェングで出したのか――
あるいは、最後の意志だったのかもしれない。
(……もしかして、部屋に何かを残した...)
閃いた私は、ライドを展開。
風を纏いながら、ヘジン大天使の私室へと飛んだ。
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ヘジン大天使の部屋は――扉が、開け放たれていた。
(遠吠えを聞いて、急いで出ていったのか……)
中に入ると、大きな机の上に散乱する資料の束が目に飛び込んできた。
そのほとんどが、フローズヴィトニルに関する解析と報告書だった。
(何処かに、鍵穴があるはず……)
私は視線を巡らせ――見つけた。
本棚の下部、隠された鍵穴。
家具の一部と見せかけた、緻密な細工だった。
私は拾った鍵を差し込み、そっと回す。
「……カチャッ」
控えめな音と共に、ロックが外れた。
引き出しを開けると、そこにはさらに大量の資料が収められていた。
「これは……」
私は資料をガサッと抱えて大机に運び、上にあった資料を脇へどけ、新しい資料に目を通し始めた。
次々とめくられていく古びた紙。
その多くは、アールヴルルという言葉を含んでいた。
(……先生はアールヴの世界、アールヴルルを追っていたんだ...)
けれど、内容は抽象的で、場所を特定できるような記述はなかなか見つからない。
焦る指先。乱れる視線。
ページをめくっても、真実には届かない。
……そして、最後の一枚。
そこに、一つの記録が記されていた。
「モートソグニルがラタトスクを最後に目撃したのは、数十年前のイグドラシル。XX/3/31」
私は息をのんだ。
(この日付……)
その日は今年――私たちがノーアトゥーンからドヴェルグルの洞窟へ向かった日。
あの時、モートソグニルと一緒に姿を消したあの女性――まさか、あれは……。
「……ヘジン先生だったのか…」
資料の最後の行に指を当てながら、呟いた。
(つまり、ヘジン先生は……黄金化とは無関係に、アールヴルルの研究を進めていた。そして、途中で気づいたんだ……黄金化とアールヴルルが、何らかの形で繋がっているということに...)
繋がる点と点。
それはまだ、曖昧な線に過ぎないけれど――
「……次の行き先は、イグドラシルか...」
私は立ち上がった。
(イグドラシル……。確か、ヘイムダッルさんの住むヒミンビョルグの方角だったはず……)
だが、次の瞬間、現実に引き戻される。
「……船なしでどうやって行けっていうんだよ...」
思わず声に出してしまう。
広い部屋を行ったり来たりしながら、私は歯噛みする。
(空を飛ぶしかないのか……それも、この身体一つで)
覚悟を決め、深呼吸する。
フェングを使って、ヘジン大天使の遺したアールヴルルの資料をすべて収納する。
「……行くしかないか...」