Episode3 ヴァーペン(武器)
私は牛舎から出る方法を考えた。
アウラによると、この牧場の世話をしているのはゴード家の夫人、フリーンという女性だけらしい。それも、彼女が起きてくるのは早くて昼、遅ければ夕方になるとのこと。
――そんなに遅いのか!?
このままでは、私が発見される頃には冷たくなっている可能性が高い。まさか、転生してすぐに人生終了……? それだけは避けたい。
私はアウラに頼み、できるだけ大きな声で鳴いてもらうことにした。
「――モォォォォォォ!!!」
牛舎に響き渡る、渾身の鳴き声。しかし、それが止むと同時に辺りは静寂に包まれた。外から聞こえるのは風の音だけ。
……ダメか。
寒さが骨身に染みる。体は赤ん坊、話すことも移動することも出来ない。思わず泣きたくなった。
――泣きたくなった?
そこで私はあることに気づく。
赤ん坊の最大の武器、「泣くこと」に。
私は中身がアラサーだったせいで、それをすっかり忘れていた。
泣けばいい。全力で、助けを求める赤ん坊らしく。
けれど、どうすれば泣ける? 私はもう大人の精神を持っている。簡単には泣けない。
そう思った時、ふと元の世界での一番悲しかったことを思い出そうとした。
――祖母が、私を忘れた日のこと。
私は幼少期に両親が離婚して、青年期を祖母に育ててもらった。私が社会人になって数年で祖母は認知症になった。初めて施設に面会に行ったとき、私は祖母にありがとうを言いたかった。 言えなかった。祖母は私を忘れてしまった。私を覚えていない人にありがとうでは、困らせてしまうと思った。祖母もまた、俯いたままで話せる状態ではなかった。私は、ありがとうは心にしまっておこうと思った。面会時間が終わり、帰り際に祖母が言った。「ありがとう」私は、声にならない声で祖母に言った。「私の..方こそ..ありがとう..」祖母とはそれ以来会っていない。
ああ……泣けそうだ。
胸の奥にあった喪失感と祖母へ感謝の気持ちが、今になっても押し寄せる。
私は、泣いた。
赤ん坊の身体が震えるほど、全力で泣いた。
自分でも驚くほどの大声だった。小さな体のどこに、これだけの声量が隠されていたのか。私の泣き声は牛舎の中に響き渡った。
――すると。
走る足音が聞こえた。
次いで、牛舎の扉が開く音。
足音はゆっくりと近づき、そして細い指が私を拾い上げた。
柔らかな胸に抱きしめられる。
温かかった。
優しく揺れる感覚と、かすかな鼻歌。それは、私の泣き声を次第に落ち着かせていった。涙が袖で優しく拭われると、私は自分を抱く女性の顔を見上げた。
金色の瞳に、涙を湛えた女性。
傷んだ金髪。痩せた顔立ち。
フリーンだ。
アウラが教えてくれたこの牧場の主。だが、彼女の瞳には、深い悲しみが宿っていた。
その瞬間、フリーンの身体が震えた。
――そして、膝から崩れ落ちるように座り込むと、彼女は私の小さなお腹に顔を埋め、大声で泣き始めた。
私は驚いた。何が起こったのか、最初は分からなかった。
でも、分かる。
この人には泣くだけの理由があったのだ。
何かを抱え込んでいたのだ。
だから、私はいうことを聞かない小さな手で、フリーンの頭に触れた。
撫でてあげたかった。けれど、まだうまく動かせず、ただポンポンと叩くような仕草になってしまった。
それでも、フリーンはしばらく泣いた。ひとしきり泣いた後、私を見つめた。
その瞳には微かな温もりが宿っていた。
彼女は私を抱え直し、牛舎を出ていく。
私は、心の中でアウラにお礼を言った。
『ありがとう、アウラ。また歩けるようになったら、会いに来るよ』
『うん。楽しみにしてるよう』
アウラの穏やかな声が、私の心に響いた。
――こうして私は、牛舎を出ることができた。