24 事件
「ですから、何度も申し上げている通り、私は既婚者です。夫のところへ帰らせてください」
「こちらも同じことを申し上げるしかないのですが、こちらで暮らしていただきたいのです。我々の要求に従っていただきませんと、関係者の方々の安全を保証しかねます」
平行線のまま数時間が過ぎました。恐らくここはまだ行ったことのない隣国です。家の造りや使われている布類の特徴にアダマンテの要素もあることから、国境近くの領地であると考えられます。
なぜ私が愛しのリオネルがいないこんな所にいるのか、無駄に数時間を過ごしているのか。シンプルに言うと誘拐されたからです。
クレンベルグでの諸々の噂がやっと下火になったと、リオネルのお義父様から連絡をいただいたのは滞在先のホテルでした。そこはまだクリスタルホテルが建設されていない、シェーンベルグの西側にあるアーレンス伯爵家の領地です。
馴染みのないホテルですから警戒はしていました。アーレンス伯爵家は色々あった領地です。今回リオネルの希望が無ければ、私は生涯訪ねるつもりはありませんでした。
リオネルと結婚してからもしかしたら、とは思っていました。夫の故郷のお隣の領地ですし、不穏なことが起これば巻き込まれる可能性もあります。領地経営は持ちつ持たれつですものね。
土地勘がなく、この地方の習慣も知らず、無防備だったことは否めません。今となっては本当だったのか嘘だったのか分かりませんが、ホテルのレストランで事件が起こりました。
若い女性が突然倒れたのです。前世での経験から救命救急の知識があった私はすぐさま駆けつけました。「占いの館」では色々なことが起こりましたのよ?彼女は意識が朦朧としていて、意識はあるものの焦点が合わず、受け答えができない状態でした。
「お泊まりのお客様ではないようで、医務室にお連れするのが通常対応なんですが、若い女性に何かあってはいけませんし、失礼ですがお客様のお部屋をお借りしてもかまいませんか?もし同室の男性の方がいらっしゃるのなら、別室をご用意させていただきます」
ホテルの従業員の服を着た男性に声をかけられました。
「分かりました。ではあなた、この女性を運んでいただけます?そちらの方は白湯、えぇっと温かいお湯を用意してください。では参りましょう」
「あ、えっと、私が持ち上げるのですか?この女性を?」
「ええ。私では無理ですからお願いいたします。密室ではありませんし、緊急事態ですから言い訳は立ちます」
「わ、かりました。失礼!」
彼は意識朦朧とした女性を抱き上げました。彼女は本能的に彼が誰なのか分かったようにも見えました。二人は知り合いなのかしら?私は警戒を高めつつもリオネルと二人、部屋に向かいます。
このタイミングでリオネルの荷物を出しておかないとトラブルの元です。バスチアンは調査に出ていましたので、この場にはいませんでした。侍女も連れていません。より少人数で行動していたのが仇になりました。
ホテルの方が彼女をベッドに横たえました。その間にリオネルと私は荷物をまとめておきます。この時扉は開いていました。私は浴室のタオルを持って来て彼女が嘔吐しても良いように周りを整えました。
リオネルが荷物を持ってホテルの方と部屋を出ました。入れ替えに温かいお湯を持った女性が部屋へ。
「温かいお湯を用意してみましたが、いかがでしょう?ご希望の品でしょうか。今、お医者様をお呼びしたので、もうしばらくお待ちください」
その女性はポットとカップを置いて出て行きます。
「ありがとうございます。十分です」
その時私はベッドに背を向けていました。そのまま気絶したようで、目を開けたら見慣れぬお部屋に寝かされていたのです。
着衣の乱れはありませんでした。ご丁寧にホテルの部屋にあった私の荷物、リオネルが持っていかなかった荷物ですわね。その荷物も部屋に運ばれていました。
ベッドで横になっていた女性が演技派だったのか、即効性の薬を持っていたのか……仕込みだったのなら何でもありですわね。
今私がいる部屋にはベランダがあります。建物の三階くらいかしら。流石に飛び降りるのは難しそうです。窓は開けられますから、ここで大声を出しても無駄だということでしょう。
正直、何に巻き込まれているのか分かりません。占い道具はリオネルに預けましたから、はるかに聞くこともできません。今一番の問題は、ここで出される飲食物を口にすることができないことです。
何が入っているか分かりませんもの。目的が分かるまでは打つ手なし。何か動きがあるまでは待つしかありません。テーブルには美味しそうなお菓子や果物が置かれています。はぁ。こんな時でなければね。
暇なので眠ろうと思います。残念ながら、我が家の寝具よりも高級です。帰ったら買い換えようかしら。いえ、それよりも職人を雇ってこれよりも高級な寝具を作るわ!こういう時は帰った後のことを考えるのが一番です。では、おやすみなさい。
何だか温かい抱き枕が腕の中にあります。これは売れるかもしれません。寒い冬、人肌恋しい夜、意外と需要があるかもしれませんわね。抱き枕は前世では有名でしたが、今世ではまだ。あら?まだ作っていない商品をなぜもう使っているのでしょうか。
目を開けると、私の腕の中には可愛らしい女の子が眠っていました。気持ちよさそうです。起こさないようにそっと腕を抜き、自分の熱がまだ残る寝具に彼女を残して、音を立てないように抜け出します。
息を吸うのも躊躇われるようなこの瞬間。私には「緋色の館」で培った預かっていたお子さんの寝かしつけ経験がありますから、上手く抜け出すことができました。ふと顔を上げると前世のメイドさんのような衣装を着た女性と目が合いました。
怖っ。叫び出さなかった私を褒めてあげたいです。寝た子を起こしたくない一心です。
彼女は私を手招きしています。まるで幽霊のように。私は物音を立てないようにそっと寝室を出て、リビングのような部屋へ通されました。
「お見事でした!子育ての経験がおありで?」
「いえ。預かった経験ですわ」
「そうでしたか」
「今は何時くらいでしょうか?」
「申し訳ありませんが、お伝えすることはできかねます」
「そうですか」
「何も召し上がっていらっしゃらないようですが……」
「ええ。恐ろしくて」
「え?なぜです?」
「誘拐された身としましては……」
「丁重にお越しいただいたと聞いておりましたが……」
「気絶させられましたので、丁重というわけではないかと」
「少々こちらでお待ちください」
どうやら行き違いがあったようです。
彼女の反応や話の流れからすると、置いてあるものを食べてもよさそうな気がしてきました。どうしましょう。果物を食べようかしら。決めました!食べます。いただきまーす。
バナナがあったので皮を剥いてもぐもぐと食べ始めました。バナナは今世でもバナナと呼ばれています。例えばバナナに薬を仕込もうとしても傷をつけたらすぐに黒くなってしまいますし、皮に薬を塗ったとしても剥いてしまいますから、比較的安全な食べ物だと思います。
それに、いつ起きてくるか分からない女の子と二人きりです。食べ物に何か含まれている可能性は低いでしょう。それにしてもこのバナナ美味しいわ。輸入したのかしら?前世で食べたバナナクレープが食べたいわ。チョコレートがまだ見つかっていないのよね。ああ、でもシュガーバターも美味しかったわ。
「何食べてるの?」
子どもって敏感ですね。バナナの香りが届いてしまったのかしら。
「バナナですわ」
「私も食べたいわ」
「食べ物で具合が悪くなったことはありますか?」
「あ、ないわ」
今あると言いかけましたね?
「お名前を教えていただけますか?」
「アメリアよ」
「アメリア様はおいくつになられましたか?」
「七歳よ」
「あら、それでしたら、バナナはデザートで召し上がった方が良いかもしれません」
「どうして?」
黒髪に翡翠の瞳の可愛らしい女の子は小さなお口を尖らせて不満気です。
「ご覧くださいこのバナナの皮。黒くなってしまいました。このようなものをアメリア様にお見せしてしまい申し訳ありません」
「よ、よろしくてよ。何かあるのね?怖いから私はデザートで食べることにするわ」
「アメリア様、私家に帰りたいのですが」
「え?ダメよ。あなたは私の物よ?お父様がくださったのよ?」
「私をですか?」
「ええ、そうよ?なぁぜ?」
「ええっと?」
アメリアさんを煙に巻けたと思ったら私が巻かれましたわ。




