6(1)
「了解がもらえるまで何度でも言う。今すぐ戦術要員を寄越せ! 今すぐに!」
『無茶言わないで! 証拠も何もないんでしょう?! それじゃ派遣できないわ!』
「人の命がかかってるんだよ! また被害が出る!」
走りながら端末に向かって怒鳴りつける。さっきから会話は平行線が続いていて、段々と頭に血が上り始めていた。
『無理って言っているでしょう! 今から戦術要員を向かわせたとして、早くても三十分はかかります』
「近場で待機してるんだろ、なんでそんなにかかる?!」
『知っているでしょう! 戦術要員といっても、警察や自衛隊のように表立って動けるわけではありません! 魔女が顕在化したのであれば話は別ですが、あなたが今しているのは可能性の話です! 瑞希さんが魔女であるという証拠は見つかっていないのでしょう?!』
舌打ちして端末の通信を切る。端末をポケットに放り込むと、一気に走るペースを上げた。
二人がどこへ向かったのかはわからない。だが相手が黒い影なのであれば、そいつが出現する可能性のある場所については大体だけど限定できる。影が目撃されたのは学校、海岸、廃工場。俺と葵が旧校舎で黒い影と遭遇する前にも学校に現れていたとすると、残りの二つのどちらかに向かっている可能性は高い。加えて今の時間帯的に言えば、まだ陽が完全に落ちてない黄昏時だ。もし俺が影だとしたら、少なくとも発見のリスクが小さい方を選ぶ。
(勘弁してくれよな、ほんと……)
黒い影の襲撃を受けた日に、葵から影の詳細な目撃場所についても聞いていた。それを基にMが作った出没場所をマークしたマップも、キーホルダーとともに受け取って既に確認済みだ。だからその場所へ辿り着くまでに迷うことはなかった。
小さい田舎町にはとてもじゃないが不釣り合いの、打ち捨てられた廃工場。長いこと解体されず放置されているのか、植物が多く自生していた。立ち止まって軽く深呼吸し、そのまま中へと進んでいく。
外見からして植物にだいぶ侵されていたが、内部に関しても同様だった。足に巻き付く草葉を手で払いながら、なるべく音を立てないように奥へと進んでゆく。崩れかかった天井から絡まった蔓が手を伸ばしていて、頬に触れる感触が気持ち悪い。
不意にポケットへ放り込んだ端末が震える。最初は無視しようかとも思ったが、僅かな振動の音で勘付かれても面倒だ。念のため、片耳のイヤホンを端末に繋いでから電話に出る。
『あなたねっ! 勝手なことはよしてくれる?!』
イヤホンを通して正解だった。この怒鳴り声じゃ、静かな廃墟にあってすぐに場所までバレてしまうだろう。
「言うのが遅いな」
『今どこにいるの?! まさか余計なことはしていないでしょうね?!』
「ちょっと声のボリューム下げてもらえないか? イヤホン通してても気付かれそうだ」
『~~っ!』
態度とは裏腹に頭でなんとなく状況は理解できているのか、Mは悔しそうに喉を鳴らすも、それで黙ってくれた。
壁伝いに廃工場を進んでいく。Mの資料によればこの工場はネジの製造をしていたらしいが、経営不振で倒産してしまったらしい。町の規模に見合わないサイズの施設だったから、自治体も撤去できず放置が続いていると書かれていた。その名残なのか、用途の分からない大型の機械が打ち捨てられたまま残っていて、むしろ身を隠すには持ってこいだった。
『そこはもう廃工場なのね?』
「ああ」
『二人は見つかった?』
「いや、まだ探してる」
『本当に瑞希さんが魔女なの?』
「それを確かめるために危険を冒してでもここまで来たんだ」
身の丈を優に超える機械の端から顔を出して、前方を確かめる。そして危険がないことを確認し、また少し先の機械へ隠れる。何度かそういうルーチンで製造ラインを逆行するように進んでいると、足元の植物に違和感を覚えた。
『どうかした?』
「足跡がある。最近のものらしい……踏まれた雑草がちょっとずつ立ち上がってる」
端末の向こうから息を飲む音が聞こえた。物陰に隠れたまましゃがんで、痕跡をよく検める。足跡は……二人分あった。それらは一直線に製造ラインの奥地へと続いていた。
「サイズからして女性二人だな。奥に進んでる」
『そんな……』
返事はせず、すぐに足跡を辿ってゆく。そしてその途中で不意に、頬になにか冷たさを感じた。顔を上げてみると、裂けた天井の隙間から僅かな光とともに雪が舞い降りていた。真っ白な雪は鉄色の機械と生い茂る緑へと降り注いで、その表層を薄く包んでゆく。
「――こと?!」
足を止めて、機械に身を隠しながら前方を窺う。聞き間違いでなければ、先の方から女の子の声が聞こえたような気がした。Mに黙っているよう伝えて、耳を澄ませる。すると今度は別の女の子の声が聞こえた。内容まではわからないが、少なくとも安穏な空気ではないらしい。
最初に反響してきた女の子の声がもう一度聞こえる。そこでようやく、その声の主が葵であることに気付いた。
「葵だ。声が聞こえる」
『個体番号A017。そこで待機しなさい』
硬い声が端末から響く。自分たちの立場を明確に示すときの声だ。
『これは命令です。あなたには従う義務がある』
「もう片方は瑞希でほぼ確定だろう。ここで襲う気だ」
『あなたに処理の権限はありません。あとは私たちでなんとかします』
「それじゃ間に合わない!」
『だからと言って、あなたが飛び出しても現状はなにも変わりません』
Mの口調ははっきりしていた。有無を言わせない声色。こういう時のMがいかに頑固であるかは、この十年で嫌ってほど思い知らされてきた。でも俺は結局、三秒迷った末に電話を切った。馬鹿なことをしているなと自嘲して、静かに立ち上がる。工場の深部はすぐそこだった。
少し前進すると、反響でしか聞こえていなかった声が聞こえ始める。やはりなんだか不穏な空気感が漂っているようだ。そうして俺は奥地の開けた場所に、二人の女の子が佇んでいるのを垣間見る。片方はもちろん葵。そしてもう片方は――やはり瑞希だ。
「三人を連れて行ったって、どこによ?! ねぇ瑞希、どうしちゃったの……? 昨日はそんなじゃなかったじゃない、変な冗談はやめてよ!」
二人の真上から光とともに雪が舞い降りていた。必死に言葉を尽くす葵と、無言のまま俯いている瑞希はとても対照的で、周囲の雰囲気と相まって非現実的な雰囲気を醸し出していた。
「ねぇ帰ろう? 雪も降って来たし、帰ってゆっくり休もうよ? お互い疲れてるんだと思うから、まずは戻ろうよ、ね?」
黒い影に初めて遭遇した日。あの日の状況からして二人の立場は正反対になっていた。今日は葵が諭している側だ。だけど瑞希が返事をすることはない。緊張の糸が少しずつ引き絞られていく。嵐の前の静けさに似た嫌な温かさが、心臓の鼓動を意識させた。
「ねぇ瑞希、ねぇってば……」
葵の声が湿っぽさを含み始めた。今にも泣き出しそうな葵は、だけどその場から逃げ出すことなく懸命に説得を続けている。葵の発言からすれば、瑞希が三人の失踪について関与を認めたと考えられるけれど、現実の法に当てはめるなら自供のみでは証拠にならない。加えて魔女はその性質から、法的な物証を得ることが非常に難しい。ゆえにMたちのような、文字通りの意味の“魔女狩り”が存在するのだが。
「葵……」
瑞希が口を開く。唇が乾ききっているようで、声すらも掠れていた。いつでも飛び出せるよう、姿勢を低く保ったまま様子を窺う。
「私さ、葵を守りたかったの。葵を傷つける奴からさ……だけど怖くて、守ってあげられなかった。葵を見殺しにした。私は私を憎んだ。親友のフリして、だけどずっと周りに合わせてた」
「瑞希……」
「私って、すごく汚い人間だから。表面上は気さくに振る舞おうとして、だけど心はべたべたした黒い泥みたいに、とてもじゃないけど葵の傍にいれる人じゃない……葵をいじめてた奴らと同じ。だから、だからね――」
瑞希が顔を上げる。薄い光に映し出されたその表情は、だけど奇妙なまでに明るかった。
「食べちゃったんだ。もとは同じ泥だから、お腹を下すこともなかったよ」
「瑞希、アンタなに言ってるの……?」
「三人食べて、葵を直接いじめてた奴らは全員死んだ。でもそこで思ったの。あれ、私はなんで、こんなことしてるんだろうって――それでね、気付いたのよ」
瑞希が言動と不釣り合いなほどの、柔らかい笑顔を浮かべる。可能性はついに確信へと変わり、決定的な瞬間を収めるより前に、俺は走り出していた。
「あたしがこんなに醜いのは、葵。あんたのせいだってね!」
恍惚とした絶叫とともに、瑞希の身体から黒い瘴気が噴出する。だけどその気体は瞬く間に液体から固体へと変化して、彼女自身の体にへばりついた。溢れ出す泥は留まるところを知らず、固体になり損なった泥水が緑と白の地面を汚す。葵の絶望的なまでの悲鳴が上がり、声のもとへと黒い泥の腕が迫った。だけど泥の凶刃が葵を貫くことはない。眼前を走り去った泥の腕を横目で見送り、地面へ押し倒した葵を腕ずくで引っ張り上げる。
「逃げるぞ!」
一瞬だけ目を見開いた葵は、しかしちゃんと自分の足で立ち上がってくれた。
轟音が背後から追ってくる。まるでこの間のリフレインだと、場違いな感傷を抱いた。黒い影――もとい黒い“泥”はその両腕で機械を薙ぎ倒しながら迫ってくる。巨大な機械が横倒しになり、その衝撃で床が砕けた。ただ幸運だったのは工場内が中々に入り組んでいたことで、製造ラインの大型の機械を盾にしてジグザグに進むことで、旧校舎の廊下のように一瞬で追いつかれることはない。
逃げている途中で、泥の隙を突いて機械の裏に身をひそめる。葵は恐怖で声を漏らさないようにか、あの夜と同様に口を手のひらで覆っていて、静かに怯えと向き合っているようだった。
葵の肩に手を乗せつつ背後を盗み見る。機械を挟んで向こう側に奴はいた。だけど予想通り、泥はこちらを見失っていた。音に対して鈍感というのは間違っちゃいなかったらしい。
泥が近くを通りすぎて、周囲の探索を始める。奴が十分に離れたことを確認し、物陰から恐る恐る顔を出した。
「坂川……」
目まぐるしい状況の変化で、どうやら感情の制御を諦めてしまったらしい。葵の虚ろな丸い瞳を見据えて、気付けるように肩を揺する。
「しっかりしろ。今は逃げることだけを考えてればいい」
「坂川……瑞希が、瑞希が――」
「わかってる。だけどお前まで自分を見失っちゃダメだ。しっかり地に足をつけろ。大丈夫だ。この前みたく上手くいくさ。まずは落ち着くんだ」
深呼吸するよう指示して、俺も一緒に呼吸を合わせる。間もなく生気を失っていた大きな瞳に、ほんの僅かにだけど光が戻った。綺麗な丸い瞳は、しっかりと俺の像を結ぶ。
「よし、お前は強いな……もう大丈夫だ」
肩を震わせて俯いた葵の頭を撫でてやる。きつく噛み締められた唇が緩んで、体の強張りが解けてゆく。
「いいか、よく聞いてくれ。ここをまっすぐ前へ進んでいくと、そのまま外に出られる。俺はあいつを引きつけるから、その間に逃げてくれ」
大きな丸い瞳が不安に揺らぐ。葵の言いたいことはよく分かった。
「大丈夫だ。しっかり引きつけておく。葵はただ、出口に向かって走ればいい。心配するな」
「違う」
意外な返事に虚を突かれてしまう。葵は怒ったように眉を寄せた。
「アンタのことを言ってるの! この前だって、一歩間違えば――」
「だからこそだ。俺は一人の方が動きやすい。それに障害物もたくさんある。条件はまだ有利な方だ」
「いい加減にして! 置いてけるわけないでしょうが!」
憤慨する様子を眺めて、不意にどうしてこの子はこんなに怒っているんだろうと、純粋な疑問を抱いた。言う通りにすればきっと助かると、それが分からない子じゃないはずだ。だからこそ不思議だった。どうして怒鳴ってまで死地に残ろうとするんだろうか。
だけどその疑問は唐突に打ち切られた。ポケットに放り込んだ端末が振動を始めたからだ。
舌打ちして泥の位置を探る。そして奴が真っ直ぐこちらへ向かっていることに気付いた。
「葵、行け」
「でも――」
「行け!」
「いやっ!」
葵を入り口の方へ突き飛ばして、俺は物陰から飛び出して工場の奥へと走る。近くの金属部品や工具を薙ぎ倒しながら逃げていると、やっぱり泥はこちらへ向かってきた。
「ほら、追いかけっこの続きをしようぜ!」