5(2)
朝のホームルームが始まっても、葵が教室に姿を現すことはなかった。
クラス全体としては葵の不在をシカトしているようで、しかしそのよそよそしさを隠しきれてはいない。結局のところ、このクラスの生徒たちは葵へのいじめに対して見て見ぬふりをし続けていたわけで、事が動けばその動向について嫌でも注目してしまうんだろう。そんなことなら葵が犯人だなどと余計な噂を立てなければいい、と俺が言っても後の祭りか。
昼休みに新校舎の屋上へ忍び入り、Mへ葵の様子について確認する。しかし予想外にも、Mは葵が学校へ向かったとの報告を監視の人間から今さっき報告を受けたばかりらしい。
屋上の欄干に肘を預けて校門の方を見やる。そして噂をすれば、ちょうど校門のところにそれらしき姿が見えた。葵は俯きがちに、かつ頼りない足取りで昇降口の中へ消えていく。Mに見つけたことを知らせて、俺は屋上を後にした。
教室へ戻ると、すでに葵は席についていた。周りの生徒たちは彼女の存在を無視しているようで、だけどかなり気にしているようだ。でもそれは心配しているからでなく、大人がよく纏っている保身の気配を感じさせた。その中で一人、葵に声をかけているのは親友の瑞希だけだ。二人のやり取りに魔女の話題が含まれていないのを遠巻きに確認していると、予鈴のチャイムが鳴った。
授業中も勘付かれない程度に葵の様子を窺っていたけど、確かに気は滅入っているようだが、精神に大きな不調をきたしているようには見えなかった。心を壊すと会話がままならなくなる例もあるから、その点は幸運だったと言えよう。どちらにせよまた釘を刺さなきゃいけないし、話せないというのは非常に厄介だ。
放課後、こちらから声をかけるまでもなく、彼女の方から話があると呼び出された。もしかして旧校舎に連れ出されるかと一瞬だけ思ったけど、葵は新校舎の裏口で足を止める。曰く教師含め人通りが少ない場所らしい。
「体調はどうだ?」
お互いに壁へ背中を預け、裏手にある古い焼却炉を眺める。確かに、用務員ですら姿を見せる気配がない。
「いいわけないでしょうが」
「野暮なことを聞いたな」
「こういう言い方よくないかもだけど、久しぶりに親の顔が見たくなったわ」
「親って、その……」
葵は俺の演技に釣られて、少しだけ眉をひそめた。
「誰から聞いたの?」
「クラスの奴。名前わかんないけど」
焼却炉から視線を外した葵は、灰色にくすんだ空を見上げる。今日はまだ降っていないけど、夜にはまた雪になるらしい。
「まぁ、有名な話だから。嫌なのよ、この辺じゃ聞きたくもない情報がいくらでも流れてくるの。逆も同じ。知られたくない情報も、どこからか絶対に漏れるから」
「悪いな」
「別に。慣れてるからいいわよ。昨日助けてもらったしね。というより、アンタは大丈夫なの?」
「え?」
「あの夜、あの化け物に吹き飛ばされていたじゃない。しばらく立ち上がれなかったのに」
「ああ……まぁ、大丈夫だろ」
「大丈夫そうには見えなかったけど……? まぁいっか。慣れてるのかもだし」
「そのことだけどさ、」
「誰にも言っちゃいないわよ。それに言ったところで、誰も信じちゃくれないわ」
Mの話からしても、葵は今日の昼までずっと家に籠もっていたはずだ。電話などの手段を抜きにすれば、誰かに話す機会はありえない。彼女の新しい両親についても、ここ数日は家に帰ってないとMが裏を取っていた。
「大事なことだからもう一度だけ伝えておくけど、あのことについては今後も口外しないでほしい」
「どうして――って、言えるならもう教えてくれてるよね」
「悪いな」
「どうして謝るのよ?」
「いや、だって怖かっただろ。俺だって死にかけたしさ。もうしばらく学校休むかもって考えてたくらいだ」
「まぁ……怖かったけど、一人で家にいるよりかはマシかなって。家にまで来られたら気絶する自信があるわ」
「全くだな」
「アンタは慣れてるの?」
「そんなことはない。ついでに慣れたくもないな」
よかった、と葵は乾いた笑みを浮かべた。そしてしばらくの沈黙が訪れる。色々と尋ねたいことがあったが、どれもデリケートな話題で触れにくいのは否定できない。
「さっきクラスの奴から話を聞いたって言ったろ? それでさ、他にも消えた三人について聞いたよ」
葵の肩が小さく震える。本人的には気付かれないように抑えていたようだが、無視しきれない感情の波が全身から滲みだしていた。
「そう……」
俺は最低なことをしている。嫌がっていることを分かっていながら、それでも聞き出そうとしているんだ。一つ呼吸を整え、そうして心を決める。
「信用してもらえるか分からないけど、少なくとも俺は、葵がこの一件に直接関係しているとは思ってない。だけど状況として、三人との関連性を疑われてしまうのも仕方ない部分はある」
言い訳がましく聞こえただろうか。葵は無言のまま、足先に転がっていた小石を蹴飛ばした。
「どうしてそう思うの?」
「わかるさ。お前は犯人じゃない」
「どういう意味?」
「昨日の黒い影は、恐らく人間が化けているものだ。ただ、だからといって中に人間が入っているとも限らない」
「そういうものなの?」
「ああ。詳しくは話せないが、本体である人間は別の場所にいる場合もあるんだ。ケースによりけりだな」
「だったら、あたしがあの影を動かしてたってこともあり得るんじゃない?」
「そうだな。だから少なくとも“お前”は犯人じゃない」
訝しげに眉をひそめた葵に、説明を続ける。
「つまりは『記憶』だ。本人に自覚がないってパターンもいくつかあったらしい」
記憶という単語を聞いて、葵の瞳が大きく揺らぐ。多少は意図した言葉選びだったが、やはり反応を示してくれた。
「……坂川。アンタさ、どこまで知ってるの?」
「保護されるまでの記憶がないってことは聞いた」
誰から聞いたのと尋ねられることもない。葵は俺から完全に顔を逸らしていた。だけどその指先は小さく震えていて、呼吸も荒い。
「ほんとに筒抜けなのね」
「いや、これは上から聞いた話だ。クラスの連中じゃない」
葵は自嘲するように歪な笑みを浮かべた。
「はは、そうでしょうね。記憶についてはあたしが黙っていれば絶対にバレないもの。だって、記憶をなくす前のあたしを知っている人は、この町に一人もいないから」
「悪いことをした」
少しだけ口を噤んだ葵は、こちらを見ることなく溜息を漏らした。
「もういいわ。あんな奴を相手に戦えるんだから、それくらい楽勝なんでしょうよ」
再び長い沈黙が訪れた。空を覆う入道雲は少しずつその密度を増していて、すぐにでも雪が降ってきそうな暗さだ。先ほどまで校門側から響いていた生徒の声も、今は全く聞こえない。俺たちは二人して、正面に鎮座している朽ち果てた焼却炉を眺めながら、ただただ時間に身を任せていた。
「ねぇ坂川」
不意に葵が口を開いた。俺は無言を返事とする。
「知らないことって、悪いことだと思う?」
質問の意味を計りかねて、葵の方を横目で見やる。葵はこちらを真っ直ぐに見返して、だけど間もなく、辛そうに顔を逸らした。
「無知を知ってるなら、そりゃ学びの始まりだ」
「トルストイじゃないわよ」
「お、知ってるのか。意外だな」
「こっちのセリフよ。――はぁ、調子狂うわ」
葵は乱雑に髪を掻いて、なにかを振り払うように空を仰いだ。
「怖いのよ。あたしは子どもの頃の記憶がなくて、名前だって孤児院の院長先生につけてもらった。でも記憶があった頃は、どうやって暮らしてたのかな、って……ときどき考えちゃうんだよね、もしかしてあたしは、本当の親に捨てられるような悪いことをしでかしたんじゃないか、って。それで小さかったあたしは、そのショックを胸の内に、見えないように隠しちゃったんじゃないかな、ってさ。でも今となっては思い出すこともできない。自分の間違いを知ることもできないのよ」
俺は言葉通りに、その感覚を想像してみる。俺はある一時から前の記憶が一切ない。名前も、親も、生まれた場所も分からない。仮の名前と、仮の家族、仮の家をもらって、そこで暮らす。過去の自分を知っている人はどこにもいない。そんな中で、眠れない夜に葵は思う。あたしのお父さんとお母さんは、どうしてあたしを捨てたんだろう。なにか悪いことをして、それで捨てられたんじゃないか……お父さんとお母さんが背を向けて離れてゆく。そんな風景を、あたしは胸のどこかに仕舞い込んでしまった。一体なにをしちゃったんだろう。あたしが知らない、だけど知らなきゃいけないはずの罪はなんだろう。知りたいけど全然思い出せない。そんな感覚に身を縮ませながら、長い夜を耐え続ける。
「そんな話を院長先生にもしたっけ。あの人はすごく優しい人だからさ、『知らないことは、それだけじゃ罪にならないよ。そこに罪の意識があるから罪になるの』って言ってくれたっけ。子どもの頃は難しくてよくわからなかったけど、それでもあたしと真っ直ぐ向き合ってくれてたのはわかったから」
その院長先生を思い出したのか、葵は僅かに頬を綻ばせる。自分の知らない罪。知ることのできない罪。それは果たして、本当に罪と呼べるんだろうか。
「ねぇ。アンタはさ、どう思う?」
「え?」
少し迷うように視線を左右に振った葵は、しかしこちらを正面に見据えた。
「知らないことって罪だと思う?」
葵の瞳が俺を射抜く。丸くて綺麗な虹彩に、目を逸らすのはこちらの番だった。知らないこと、知れないこと、知るべきこと、知りたくないこと。頭がぐるぐると堂々巡りを始める。唇が渇いて、上手く言葉を紡ぐことができない。
「えっ……?」
不意に、けたたましいアラームが鳴り響いた。ぎょっとして音がした方向を見やる。それは葵のセーラー服のポケットから聞こえていた。わたわたと携帯電話を取り出すと、葵はこちらに背を向けて通話を始める。
「はい……え、うそ、どうしたの?!」
声の調子からして気の置けない相手らしいが、名前が出ないので相手が誰かまではわからない。
「うん、うん……え、今から?」
葵がちらりとこちらを見やる。軽く首を傾げてみるも、すぐに顔を戻した。
「わかった。すぐに行くよ」
そういって通話を切った葵は、携帯をポケットへ戻した。
「ごめん坂川。ちょっと急用」
「誰から?」
「瑞希よ。ちょっと来て欲しいって」
「どこに?」
「どーしてそこまで言わなきゃいけないのよ! んじゃ、そういうことだから!」
待てと制止する前に、葵は校舎の中へと消えていった。走り去った方向的に教室へ向かっているようだから、俺たちのクラスへ向かっているんだろう。
後ろから走って追いかけても目立つ。軽く頭を振って、葵とは別の階段を使って教室へ向かう。そうして間もなくクラスへ辿り着くも、なぜか二人の姿は見えなかった。部活終わりなのか、教室の隅で駄弁っていた女子グループに声をかける。
「え、葵? 見てないけど?」
「おかしいな、ここにいると思ったんだけど」
「んー、なら瑞希に聞いてみれば?」
「その瑞希さんはどこにいるか知ってる?」
女の子三人が顔を見合わせる。
「さっきまで教室の外で誰かに電話してたよ。ほんとにちょっと前。まだ学校にいるんじゃない?」
なら待ち合わせ場所はここじゃなかったのか。そう自分を納得させようとして、だけど胸の内には微かな靄がかかっているみたいだ。表現と自覚が難しい感覚に頭を捻っていると、女の子の一人があっ、と声を上げた。
「坂川くん! あれあれっ、校門のところにいるよ!」
窓から校門を見下ろす。確かに彼女の言う通り、二人が校門から外へ出ていく様子が窺えた。しかし葵は瑞希に手を引かれて、何事か声を上げているようだ。
「なんかあったのかな?」
さぁ、と首を捻る三人に礼を言って、教室を出た。そして教室から十分に距離を取ったことを確認して、一気に走り出す。言い知れぬ黒い靄がどんどん広がってゆく。確信も確証もない。だけど俺の直感は、耳鳴りを起こすまでに警鐘を鳴らしていた。