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冬だから日没も早く、空き教室に待機を始めてからすぐに夜の帳が下りる。
小さな町だからか街灯の数も少なく、窓の外に窺える光源は家庭の光くらいだった。流石に陽が落ちると教室はかなり冷え込んでしまって、仕方なく備え付けのストーブをつける。するとみるみる内に教室の温度が戻ってきて、さっきまで歯をカチカチ鳴らしていた葵も、間もなく身震いを止めた。
「寒いなら寒いって正直に言えばいいのにさ」
「別に寒くなかったわよ」
「鼻垂らしながら何言ってんだ」
言い返してくるかと思ったけど、その体力はもう残っていないらしい。葵は持っていた通学用のリュックサックから可愛い絵柄のついたブランケットを取り出して、それに包まっている。ときどき鼻をすする音が澄んだ教室に響いて、鈍い音を立てるストーブと混ざり合う。振り始めた雪は留まるところを知らず、すでに校庭を真っ白に包み込んでいた。
「俺が言う筋合いじゃないだろうけど」
「なによ」
「その……親とか、心配しないのか?」
葵はブランケットに包まったまま、軽く鼻をすすった。
「別に……二人ともあんまり帰ってこないし」
常識的に家庭のことについて尋ねるのは少し憚られた。それに加えて俺には親ってものがいない。いないというか知らないだけなんだろうけど。だから何を口にしても、失言になってしまう予感しかしないのだ。
「ねぇ」
「ん?」
ちょっとした沈黙ののち、葵は軽く身じろぎした。
「本当に出ると思う?」
葵は教室の床の一点を見つめて、ブランケットに顔を埋めている。
「会いたいんじゃなかったのか?」
「そりゃ、クラスで居心地悪いし、悪口言われるし……」
「迷惑してるんだったな」
「うん」
ストーブの重苦しい音だけが響く。教室内は多少暖まったが、代わりに喉が渇いてくる。
「あの三人をどうにかしちゃったのは葵だって。いつも喋ってくれる友だちも、あたしがいないときはそうやって笑うの」
「どうにかしちゃったって……ずいぶんぼんやりした表現だな」
「言いたいだけなんでしょ。だから嫌なの」
「友だちにも色々あるんだな」
「うん。でも瑞希はそんなことしないよ」
葵の表情が和らぐ。それ多分、体が温まったからじゃないんだろう。
「軽いところもあるけどさ、悪い子じゃないの。なんだかんだいつも、あたしのこと庇ってくれるし」
「いい友だちじゃない」
「だからさ――」
一瞬だけ迷うような素振りを見せたけれど、静かに言葉を続けた。
「早いとこ疑いを晴らしたいの。あたしが陰口叩かれて、いつまでも庇ってもらうわけにはいかないから」
「それで無茶してるわけか」
否定されるかと思ったが、俺の言葉が打ち消されることはなかった。
「――あんたにも、迷惑かけたわね」
「なにを今さら」
「ほんのちょっとくらいは、悪かったなって思ってるわよ!」
「ちょっとだけなんだな」
「~~!」
葵の調子が戻ってきたのを確認し、腕時計を見やる。時刻は二十一時前。待機を始めてからもう数時間が経過していた。
(不発か……)
流れるように罵倒を放つ葵を無視し、窓の外へ目をやる。先ほどから、特段なにか変わった様子はない。流石に葵を真夜中まで残らせるのは、万が一を考えると危険だろう。
「今日はもう帰ろう。なんにも出てこなさそうだ」
「え? まだ夜中になってないわよ?」
「そうだけど、準備なしに籠もるわけにもいかないだろ。お互い風邪引いちまうよ」
若干は不満そうな顔をしていたが、仕方なさそうに頷いてくれる。ある程度は学校の情報も聞き出せたし、それに彼女自身も多少は満足しただろう。一応は日が暮れるまで学校に残っていたのだから、影と会えなくても仕方ない、と。
「んじゃ、ストーブ切るぞ」
葵がブランケットをリュックサックへ戻しているのを横目で見やり、ストーブのつまみを捻る。一気に教室から音が消えて、まもなく静寂が訪れた。
(――ん?)
もう一度、葵の方を見る。もう帰り支度を済ませていたのか、早くしてと言わんばかりにこちらを気怠そうに眺めていた。違う――あいつじゃない。
「どうしたのよ?」
人差し指を唇に当てて、黙っているよう伝える。ポカンと口を小さく開いた葵は、一気に怯えたように身を縮めた。
限りなく無音に近い静寂。しかしその中で、ものが擦れるような、なにかを引きずるような物音が階下から響いていることに気付く。
今にも泣き出しそうな葵に近づき、小声で隠れているよう言い含める。だけど葵は激しく首を横に振って、袖に追い縋った。
(置いて行かないでよ! ほんとに影だったらどうするの?!)
(本当に影だったら動き回る方が危ないだろ。奴はまだこっちに気付いてないらしいし、まずは様子を窺うのが先だ)
(あんた正気なの?! あいつは事件の関係者かもしれないのに!)
(それを確かめるために残ってたんだろ)
瞳を震わせる葵を見て、流石に残していく気は失せた。大丈夫だと何度も言い聞かせて、とにかく息を潜める。緊張の糸が張り詰めているからか、さっきよりも物音はより大きく聞こえた。ものが擦れるような、なにかを引きずるような。音は下の階の廊下をぐるぐると彷徨っているように思えた。
(一つ確認するけど、当直の先生ってことはないよな?)
(知らないけど、当直って同じところを何度もぐるぐる回るものなの?)
確かに、残っている生徒がいないか点検するのであれば、教室を一つずつ回っていくのが効率的か。そういう意味においては、奇妙な動きをしているように思えた。
(宿題取りに来た生徒って可能性は?)
(ここは旧校舎で、普段は使わないの)
(そうだったな)
思いついた可能性が次々と潰されて、あんまり考えたくない予想だけが残った。葵は恐怖に耐えるようにか、震える両手をギュッと握りしめている。音を出さないように深呼吸する背中を眺めて、長居はできないと判断する。
(移動しよう)
(待つんじゃなかったの?)
(あいつは同じ場所を繰り返し回ってるだけだ。なら、気付かれない内にまずは旧校舎から出たい)
(そんな、無理よ!)
(奴がずっと同じ動きをし続けてくれる保証はない。二階まで上がって来られたら逃げ場もないぞ)
絶望に打ちひしがれるように、葵は唇を力なく震わせた。今にも腰を抜かしそうな雰囲気に、そう言えばとすかさず言葉を挟む。
(この旧校舎、階段が二つあったりしないか?)
(え……?)
(音からしてあいつは一階の昇降口近くにいる。だから中央の階段を使って下りれば、思いっきり鉢合わせることになっちまう。例えば校舎の端に予備の階段があるとか、そういうの知らないか?)
尋ねてみると、葵は戸惑うように視線を彷徨わせたあと、しかしハッと顔を持ち上げた。
(ある! 校舎の端っこに外階段! 危ないから近づいちゃダメだって、貼り紙がしてあった!)
(でかした! 位置はわかるか?)
(えっと……あ、でも真反対だ……)
(つまり東側ってことだな)
今俺たちはいる空き教室は校舎の西側に位置している。葵が教えてくれた外階段は東側、つまり外階段を使いたいのであれば、必然的に中央階段の近くを通り抜けなければならない。昇降口を使わずに済むからまだマシだろうけど、例の物音の真上を通らなきゃいけないルートだ。
(葵、いけるか?)
肩で息をする葵の顔を覗き込む。今も激しい恐怖に怯えながらも、必死に理性を保とうとしていた。
(大丈夫だ。一緒に外へ出るんだよ。離れたりしないから、後ろからついて来てくれればいい)
落ち着かせるようにそっと肩に手をやると、憔悴しきった様子ながらも、コクコクと涙ながらに頷いてくれた。よし、と葵の肩を支えながら、ともにゆっくりと立ち上がる。
物音はまだ昇降口付近に留まっているみたいだ。あまり時間はかけたくない。
(静かにいけば大丈夫だ。下の奴は俺たちの話し声にも反応してない)
頷いた葵を連れ添い、教室の扉までやってくる。防寒の関係で扉はかなり前の段階で閉ざしていた。俺は葵から離れ、極めて慎重に扉を横へとスライドさせる。やはり扉自体がかなり古いから、時間をかけてゆっくり開いても多少は軋んでしまう。その度に、後ろの葵が肩をピクリと震わせた。
(よし……)
階下の気配に変化はない。開き切った扉から廊下へ出る。その瞬間に冷たい風が頬を撫でて、思わず身震いしてしまう。当たり前だ。空き教室ではストーブでかろうじて暖を取っていたからいいものの、廊下は別だ。寒暖差でくしゃみをしないよう指先で鼻を摘み、静かに移動を始める。
廊下はまっすぐ暗闇へと向かっていて、異常に長く感じられた。一歩一歩に神経を払いながら、背後の様子も逐一確かめながら進んでいく。葵にしてみれば今までにない極限状態だろうけど、息を殺しながら懸命について来てくれていた。
教室を一つ越えるたびに、緊張感が増してゆく。中央階段が目の前まで迫った。葵は零れ落ちる涙でさえ必死に拭って、嗚咽を漏らさないよう口を手で覆っている。
そして、物音がすぐ近くに聞こえた。ここまで近づいてくると、その音がいかに奇妙なものであるかがよくわかる。これまで一度も聞いたことのない異音。まるで乾いた泥を全身に塗りたくって、地面を這っているような音だ。
嫌な想像を振り払っていると、ついに中央階段の目の前まで辿り着いた。物音はすぐ真下から聞こえている。呼吸さえも堪える葵を促し、そのまま中央階段を横切ろうとして、
ガコンッ
背筋に激しい戦慄が走る。その破裂するような異音は、俺たちが使っていた空き教室の方から聞こえた。そして全てを理解して、心底自分の不幸を呪った。
ストーブの放熱板。急に電源を切ったことで、金属が一気に熱収縮を起こしたんだ。電源を入れたときの熱膨張では全くの無音だったにも関わらず。
巡る思考を切り払い、とにかく耳を澄ませる。そして階下で聞こえていたはずの物音が、ぴたりと止んでいることに気が付いた。
俺たちの間に一瞬だけ、時間が止まったかのような感覚が流れた。その僅かな時間のなかで、恐怖に全身を硬直させた葵と目が合う。反射的に声をかけようとした矢先、凄まじい勢いで階段を駆け上がってくる、狂ったような足音を認めた。
「走れ!」
叫ぶと、葵は弾かれたように走り出した。そしてその後ろから、異形としか言いようのない、巨大な黒い“滲み”が現れる。大きいのはわかるけれど、その輪郭は闇夜に融け込んでしまって判然としない。しかしそれでも黒い影が圧倒的なまでの殺気を伴っていることと、こいつが“魔女”であることだけは死ぬほど理解できた。
巨大な黒い影が不気味な唸り声を上げて、階段を駆け上がった勢いのまま窓ガラスへと衝突する。明確にどういう体をしているか知らないけど、黒い靄から伸びた足のようなものが天井に張り付き、奇妙なまでに細長い腕は、着地した窓をいとも簡単に突き破った。
窓ガラスが砕ける衝撃音と葵の悲鳴が混ざり合い、夜の旧校舎に響き渡る。俺は先に行かせた葵の後を追い、旧校舎の端を目指す。しかし黒い影が都合よく諦めてくれることもなく、筆舌に尽くしがたい異音を発しながら追ってきた。
長く伸びた二本の腕が旧校舎の窓ガラスを豆腐みたいに切り裂く。影は廊下の床じゃなくて、ほとんど重力を無視しているかのように、壁や天井に飛びつきながら一気に距離を詰めてくる。外階段はもう見えていたけど、間違いなく辿り着く前に追いつかれてしまうだろう。後ろ手に黒い影を確認しながら走っていると、不意に奴が天井に張り付き、屈むような体勢を取った。即座に飛びつかれると判断して、彼女がこちらから十分離れていることをもう一度だけ確かめ、影を正面に相対した。
「坂川――!」
「そのまま逃げてろ!」
影が天井を蹴り、そして気が付いた頃には、眼前で鋭い腕を引き絞っていた。人間の動体視力をあっさり超える速度に思わず笑いが漏れてしまう。だけどその頃には既に、ポケットへ忍ばせていた折り畳み式ナイフを取り出せていて、顔面目掛けて放たれた突きに対しナイフの腹を合わせていた。
暗闇に火花が走って、黒い影の輪郭を短く照らし出した。だけどあまりの膂力に耐えられるはずもなく、そのまま天と地の方向を見失ってしまう。一瞬だけ重力を失ったように感じるも、しかし間もなく背中に強烈な衝撃が走った。肺が潰れるような感覚とともに、視界が白黒と明滅する。気付くと俺は廊下に倒れていて、全身を不思議なくらいの怠さが包んでいた。しかし辛うじて意識だけははっきりしている。
肘や膝で体を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。何度も崩れ落ちそうになる中で、自分がまだナイフの柄を握り締めていることはわかった。耳鳴りの向こう側で、誰かが俺の名前を呼んでいる。だけどその悲鳴は、ナイフと影の交錯にかき消された。
鋭い金属音と恐ろしい膂力に歯を食いしばる。再び閃光が走って、黒い影の一部を僅かに照らした。異形ではあるが一応は人の輪郭を残しているらしい。だけどその力は明らかに人の域を超えていて、耐えられずナイフの刃がぱっきり砕けた。迫る突きは辛うじて避けたけど、頬に熱い一閃が走る。手の甲で血を拭いながら後退するも、続く一撃が眼前に迫っていた。寸でのところでなんとか回避できたけど、体勢を崩されて廊下に転がってしまう。すぐに起き上がろうと顔を上げて、だけど確実に避けられない一撃が、既に喉元へ放たれていることに気付く。
「いやああああっ!」
葵の絶叫が耳を切り裂く。目の前は暗闇で埋め尽くされていて、これが死ぬってことなのかとぼんやり思った。しかしそれにしては体の感覚が明確で、その違和感に首を傾げそうになる。だけどすぐに、目の前に広がっているのが黒い影でも死後の世界でもなく、胡乱な暗がりを含む廊下であることを理解した。
そう、あの黒い影が忽然と姿を消していたのだ。闇に浮かぶのは灰色の埃だけで、その出所が貫かれた教室の壁板であることに気付く。さっきまではなかったものだ。つまりあの黒い影は俺の首じゃなくて教室の壁を吹き飛ばし、どこかへ姿を消したことになる。
「どういうことだよ……」
大きな溜息を吐き、痛む体を起こす。背後から駆けてくる足音と嗚咽が響いて、同時に葵も無事であることも確認できた。
「坂川! 大丈夫?!」
上体を起こした俺の横に屈んだ葵は、心配そうな表情でこちらの顔を覗き込んでくる。大丈夫だと片手を持ち上げ、ふらつきながらも立ち上がろうと地面に手をつく。だけど思いのほかダメージが蓄積していたようで、無理に立ち上がろうとしていたところを手で制されてしまう。
「だめ。少し休まないと」
「まだ奴が近くにいるかも知れない」
「だからって立ち上がれないでしょ」
呆れたように呟いくと、葵はその場で膝を抱え込んだ。窓の外には雪が降っていて、その光景が現実感を取り戻させてくれる。
「逃げないのか?」
諦めて大の字に寝転びながら尋ねる。こちらからは後ろ髪しか見えなくて、表情を窺うことはできない。
「逃げた先であいつにあったら、今度こそお陀仏よ」
そう言いつつも震える両手を、葵はハッと背中へ隠した。その勇敢さに免じて今回ばかりは指摘しないでおく。普通は腰を抜かして気を失おうが誰も文句は言わない。葵の人物評価を良い意味で改めざるを得ない結果だ。
「違いない」
俺の笑いは思ったより乾いていた。すると葵がふと顔を上げて、廊下の床板に手を伸ばす。
「どうした?」
「いや……これ何?」
葵は手のひらを開いて見せた。そこには小さな木彫りのキーホルダーが入っている。形的にリスを模したものらしいが、裏側に名前などは書かれていなかった。
「落とし物……ってわけにはいかないよね」
「ああ。状況的に影が落としていった可能性もあるしな」
食い入るようにキーホルダーを見つめた葵は、しかし途中で諦めたのか首を横に振った。憶えはないらしい。
「それ預かっていいか?」
「いいけど、ってそういえばアンタ! 一体何者なのよ! あんな化け物相手にしてどーしてそんな冷静でいられるのよ!」
「……はぁ。説明しないわけにはいかないか」
キーホルダーを受け取ろうとして、葵がパッと手を引っ込める。教えないと渡さない魂胆らしい。全く、今日一日でどれほど寿命が縮んだんだろう。そんなことを思いながらも俺はまた、ほぼ無意識的に盛大な溜息を漏らしていた。