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エピローグ

 雪は全てを包み隠す。過去も、罪も、なにもかも。


『次のニュースです。北海道遠別町を襲った大雪崩から今日で一か月となります。この雪崩で、遠別町に住む三十四人の命が失われました。町では懸命な復興への取り組みが――』


 テレビから目を離す。上部を立ち上げたベッドに背を預けて、窓の外を眺めた。まだ冬は続いていて、静かな雪が町を覆っている。だけどそれは俺が知る町ではなくて、眼下には馴染みのない景色が広がっていた。

 気が付くと俺は病院のベッドに横たわっていた。包帯であちこちをぐるぐる巻きにされて、身動きすら取れなかった。どうやら俺は旭川にある大学病院へ担ぎ込まれていたらしい。目が覚めた俺に、主治医はごく事務的な口調で容態の説明をした。全身の軽い打撲や裂傷、低体温症と凍傷……挙げ始めたらキリがない。彼は特に肩部の怪我についてかなり慎重に尋ねてきたけど、俺と会話するうちに諦めたらしい。

「やはり記憶障害が起こっているようですね」

 俺の発言が書き記されているであろうカルテを眺めながら、主治医はそう告げる。

「あまり表沙汰にされてはいませんが、遠別の事件ではとても不思議な現象が起きたようです。集団記憶喪失という表現が近いでしょうかね? 雪崩に巻き込まれた人間は少なからずその前後の記憶を失っている。んま、別に僕は構いませんがね。困るのは警官ですから」

 ああそういえば、と主治医は軽く顎を持ち上げる。

「まぁ、全身こっぴどくやられてますが、幸運なことに内蔵系は全くの無事でしたので、記憶以外の後遺症はあまり出ないと思いますよ。こう言っちゃなんですが、不幸中の幸いってやつですね」

 主治医は小刻みに頷くと、警官が睨んでるので、と病室から出ていった。入れ替わるように刑事らしい男二人が現れて、無許可でパイプ椅子に腰かけた。

 絶え間なく無遠慮な尋問が続いて、段々と辟易してくる。警官はとにかく成果を得ようと突っ込んだ質問ばかりしてきたけど、さっきの主治医みたく次第にその勢いを失ってゆく。最後にはもう結構です、と舌打ちをしてパイプ椅子から立ち上がった。こいつも同じか、というぼやきが小さく聞こえる。俺は胸の辺りをさすりながら、窓の外へ目を移した。

 しかし一か月ほど寝込んでいたのは事実だから、主治医から軽いリハビリをするよう言い渡された。体が自分の思うように動かない感覚は、あんまり心地いいものじゃない。だけど十日もすればある程度は自由が利くようになって、ようやく病院内の小さな公園を散歩することが許された。

 ボロボロのコートを羽織って、公園中をゆっくり歩く。上着を着ていても下は病衣のままだからけっこう寒い。白い息が冷たい風に巻かれて通り過ぎていく。そして俺は公園のベンチに腰掛けている主治医に出会った。

「お寒いでしょうに、殊勝なことですね」

 隣へ座ると、彼はプルタブを弾こうとしていたカフェオレを寄越してくれた。

「快復祝いです」

「まだ退院してませんよ」

「もうじきでしょう。ちょっとした誤差ですよ」

 プルタブを開けてカフェオレを口に含む。冷え始めていた体に温かさが染み渡っていく。

「先生」

「なんでしょうか?」

「先生は、知らないことが罪だと思いますか?」

 ふむ、と主治医は僅かに顎を持ち上げた。

「難しい質問ですね。それが認知領域の話であれば、教科書通りの解答はできますが。どうしてそんなことを?」

「なんとなく、です」

 主治医は顎を指で掻いて、薄曇りの空へ視線を投げる。

「なら、面倒臭いしがらみは抜きにして、僕の考えをお伝えしましょう……人間というのは本来、自分の意識が及ばない領域には何の感傷も抱きません。当たり前ですね、だって知らないんですから。しかし自分の知らない場所に対して何らかの感情――罪の意識でもそれ以外でも構いませんが。そういう感覚を抱くということは、過去に何かしらの負い目があったか、もしくは無意識下で失ったものを思い出して、罪深いと感じているかのどちらかですよ」

 しかし、とそこで主治医は言葉を切った。

「ですが、表出した意識が記憶を失っているのであれば、実際に罪があろうとなかろうと同じことです。そんなどうしようもないことで悩むくらいだったら、もうちょっと楽に人生を過ごした方がいいかなと、僕は思いますけどね」

 腕時計に視線を落とした主治医は、そろそろ戻りますねと立ち上がった。こちらに背を向けたところで、しかし思い出したように振り返る。

「忘れていました。これを――偉そうに記憶の話をしておいて、僕の方が忘れてました……まぁ、人間こんなものです」

 乾いた笑みを浮かべた主治医は、そのまま公園から去っていった。ひらひらと後ろに手を振る彼を眺めて、渡されたものへ目を落とす。それは古びた木彫りのキーホルダーで、リスのような形をしていた。

 雪が降り始める。頭や首に冷たさが宿って、せっかく温めたはずの体がまた冷えていく。だけど俺は病院に戻ることなく、そのキーホルダーをじっと見つめていた。しばらくそうしていると、次第に目の辺りが熱くなって、いつしか涙が流れ出す。だけどその涙はすごく複雑なもので、一言で言い表すのはとても難しいものだった。

 知っておくべきことを知らないのが罪なら、“知らないこと“を知っているのは罪なんだろうか。

 ぽろぽろ零れ落ちる涙が公園へと落ちる。それは空から舞い降りる雪と混ざって、その境界を曖昧にしてゆく。

 リスのキーホルダーを額に当てる。とめどなく溢れる涙の中で、苦しいような、だけどそれでいて温かい、ぐしゃぐしゃの泣き笑いが浮かんだ。


「ごめん、葵……俺は、人じゃなかったよ」

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