12(2)
殺気が閾値を超える。Mがスイッチを押してしまう前に、つま先で端末を蹴り上げた。彼女の手を離れた端末は木々の合間へと吸い込まれていき、闇の中へと消えていく。俺はMを抱き寄せて、彼女のこめかみに拳銃を押し当てる。念のために持ってきて正解だった。
戦術要員たちは小銃を構えながら、じりじりと距離を詰めてくる。だけれどこちらへ向けて発砲することはなく、ただただ脅すように銃口を突きつけてくるだけだ。
「構いません! 私ごと撃ちなさい! これは命令です!」
と叫ばれたものの、流石に命令とはいえ迷いなく自分の上司を撃ち抜く冷血漢はいないだろと高を括っていた。しかし場に満ちた殺気が更に濃密なものへと悪化していくのを感じ取って、おいおいと唇の端を歪める。
「それはちとマズいな」
四方から突き刺さる殺気が実体を伴う直前、俺は大きく姿勢を下げて、Mを地べたへ叩きつける。息苦しそうな呻き声が聞こえたけど構っている余裕はない。咄嗟に体を横倒しにしながら回避すると、それまで立っていた場所を無数の火線が通り過ぎていった。俺を貫くことなく通過した弾丸の一部が他の戦術要員に直撃し、何人かがその場に崩れ落ちる。対象を取り囲むようにして発砲すれば、外した場合その後ろにいる隊員に弾丸が命中するリスクがある。戦術要員がその事実を知らないはずもないが、どうやら今日に限ってはかなり焦っているらしい。
追撃を食らう前に飛び去り、木陰の後ろへ身を隠す。消音器で減衰した発砲音が木々に殺到して、弾丸が幹を毛羽立ててゆく。
「逃がさないで! 確実に捕らえるのよ!」
嬉しくない呼びかけに辟易しつつ、そのまま広場から走り去る。もちろんその後ろからは逃がすまいと戦術要員が迫ってきた。銃撃で木の幹が削り取れる音に加え、休んでいた鳥たちが跳弾を恐れて一斉に飛び立つ。ときどき視界に映る火線から逃げる方向を変えつつも、星の位置を探って集会所の場所について大体の当たりをつける。こうなれば葵を放置して逃げるわけにもいかない。
(しかしな……)
迫りくる弾丸を避けつつ、心は少しだけ遠くにあった。まるで十年前の繰り返しだ。あの実験施設も山の中腹にあった。俺は葵を連れて森に入り、そこで捕まったんだ。嫌な記憶を振り払って意識を引き戻す。集会所からあまり離れてはいないはずだ。葵の無事を祈りつつ走っていると、木々の合間から木霊するような遠い声が聞こえた。
「――と、――きと!」
その声が葵のものだと気付いて、とにかく無心で走る速度を上げる。響いてくる声からして、どうやら移動しているらしい。集会所から逃げているのか、それとも連れ去れているのか――そして葵の悲鳴が木霊から確かな声へと変化したところで、急に目の前に何かが飛び出してきた。
「――っ?!」
それは俺の腹に強烈な突進をかました。俺は流石に回避し切れず、その場に尻餅をついてしまう。込み上がる鈍痛に首を振って耐えると、突撃してきた人影が探していた人物であることに気付く。
「葵!」
「あきと! 大丈夫?!」
見たところ怪我はなさそうだ。だけど切迫した表情から察するに、状況はこちらと似たり寄ったりらしい。
「海岸にいたあの人たちが集会所に来て、それで――っ!」
「ああ、わかってる。ごめんな、一人にして」
葵の頭を抱くと、背後から連中の足音が聞こえてきた。加えて前方からも、恐らく葵を追っていた奴らの怒号が聞こえた。
「あきと……」
「まずは逃げるぞ」
コクンと頷いた葵の手を引き、俺は連中とばったり出くわさないように真横へと進んでいく。
葵の体力は既に限界が近かった。もともと体力をほとんど使い尽くした状態で走っていたんだ。懸命についてきてはくれるが、足が完全に笑ってしまっている。だけど後方から迫る奴らの気配が薄れる様子もなく、むしろ次第に距離を詰められているようにすら感じた。雪が火照った体を冷やしてくれるも、熱を完全に吸収してはくれない。
時たま聞こえる銃声が、木霊のように森を駆け巡った。やっぱり十年前と同じだ。追手から逃げようと、森の中を葵と一緒に走っている。
今度こそだ。今回こそは逃げ切ってみせる。葵にまた同じ痛みを味合わせちゃいけない。同じ苦しみはもうたくさんだ。しかしそう思っていても、葵の体力まで賄えるわけじゃない。ある一点を過ぎた瞬間から葵が一気に脱力して、その場に崩れ落ちそうになる。なんとか体を支えることはできたけど、もう走れるような状態じゃなかった。俺は追手の方向を睨んで、とにかく逃走から潜伏へと手法を切り替える。葵の背を木陰に預けて、息を潜める。こちらの意図を理解したのか、葵も苦しい中で呼吸音を抑えてくれた。
木の枝を踏み砕く音と、草木を手で振り払う音が四方から聞こえた。恐怖に飲み込まれそうになっている葵に頷きかけ、安心させるべく肩に手を置いておく。しばらく周囲には刺客の気配があったが、あっちも追跡から捜索に対応を切り替えたらしい。足音の数が減るのを待って、俺は息をついた。
(大丈夫か?)
(うん……ごめんね、走れなくて)
(いや、よく頑張ってくれた。十分だよ)
頭を撫でると、葵は小さく頷いてくれる。そのまま数分待機していると、足音が完全に静まった。
「どうする?」
「ま、山を下りるしかないな……ちなみに荷物は?」
「ごめん、急いで出てきたから何も……」
「無理もない。まずは無事だったのを喜ばないとな」
葵の呼吸が正常まで戻ったのを確認して、俺たちは立ち上がる。とにかく下山するしか選択肢はないけど、当然Mの方ももこちらの動きは予測しているだろう。
お互いの手を握りながら山を下っていく。お互いに疲労が限界を超えていたからか、会話らしい会話もない。だけど相手の手のひらだけはしっかりと話さないように、その温もりだけが確かなものに思えた。
どれくらい歩いただろう。気付くと勾配はかなり緩やかになっていて、地形的にもようやく歩きやすい部類に入っていた。道なき道を進んでいたのはあるけど、さっきまでは山を下るにしては時間がかかってしまった。場所によっては崖みたいな場所もあったし、転落するよりはマシだけど。ただMの部隊はもう配置が終わっていると考えるのが自然だろう。
「気を付けていこう。どこから狙われてるかわからない」
「うん」
そうして正面へと向き直って不意に気付く。月明りに照らされた、艶消しの黒い金属に。ほぼ反射的に葵の方へ飛びつくと同時に、肩口に鋭い激痛が走った。
堪らず地面へと崩れ落ちる。右の肩口に触れると、生暖かい血の感触があった。
「あきと!」
どうやら葵には当たらなかったらしい。安堵と焦燥が思考を焼いてゆくも、決死の覚悟で懐から拳銃を取り出す。だけどそれを構えたところで、指先に衝撃が走った。左手に握っていた拳銃が狙撃で弾き飛ばさたんだ。指が残っているだけ良かったものの、唯一の武器を失ってしまった。
ぞろぞろと黒い戦闘服に身を包んだ戦術要員が現れる。そして彼らの中心を割るように、白衣のような外套に身を包んだMが姿を見せた。
「M……!」
「これでお終いよ」
こちらを冷たく見下ろしたMは、もう用はないとばかりに腕を持ち上げた。肩からはまだ出血が続いている。それを葵が必死に手のひらで塞ごうとしていた。
「葵、逃げろ!」
「いや!」
「早く逃げろ! 死にたいのか!」
だけど葵は言うことを聞かず、恐慌をきたしたままの表情で止血を続けている。Mが右手を掲げる動作で、連中は銃口を俺たちに合わせ終えていた。
「いやだ……もう逃げるのはいや……」
枯れたはずの涙が葵の目尻から流れ落ちる。その後ろから、赤いレーザーポイントが灯籠のように揺らいでいた。
「もう置いていかないって決めたから……何があっても、置いていくのだけは……」
「葵――!」
意識が薄れていく。輪郭がぼやけ始めた視界の中で、ゆらりと葵が音もなく立ち上がった。
「ごめんねあきと。あたしさ、辛い思い出ばっかりあげちゃったね」
そう笑うと、葵はMの方へと振り向いた。
「あたしね、まだはっきりとは思い出せてない。でもね、なんとなくわかったよ。どうして記憶がなくなったのか、どうして――忘れたいと思ったのか」
雪が森に降り注いでいる。だけど静かに舞い落ちていただけの雪が、前触れもなくその勢いを急激に増してゆく。
「あきとはさ、知らないことで、忘れることで生きてこられたんだって励ましてくれたよね。あれ、すごく嬉しかった。知らないことは罪だって、十年もそのことで悩んできたから――」
雪は段々と激しさを増していた。戦術要員たちに僅かな動揺が走る。
「それにあきとも、自分が人なのか魔女なのかで長いあいだ悩んでたんだよね。でも、これだけは言わせてほしい――あきとは人だよ、魔女じゃない。あきとは人を好きになって、人を守って傷ついて、人のためにずっと戦ってきたんだから。絶対に魔女なんかじゃないよ」
雪が大雪となって、いつしか猛吹雪へと変わる。Mたちは雪に飲まれて、もはやその姿を捉えることはできない。
「だから悩む必要なんてないの。あたしが言ったって説得力ないかもだけど、あきとならきっと大丈夫だよ。これからはそんなことに悩まないで、楽しく生きていけるから」
葵の指先が頬に触れる。体で感じ取れるものの中で、その手のひらだけが温かかった。
「だから、ね……」
目尻から零れる涙を拭った葵は、目いっぱいに微笑んでみせる。そして目を瞑ったまま、額同士を優しく触れ合わせた。
「ぜんぶ、忘れて――」