12(1)
「なんでよ?」
「――え?」
不機嫌そうな葵を見て、ぼくは何か不手際があったかどうか思い出す。だけど特に思い当たる節はなくて、口をまごつかせてしまう。
「アンタさ、マジメに授業受けてないでしょ?」
「え、そんなこと……」
「わかるわよ。ワザと誤魔化してることくらい。もうちょっと頑張れば、あいつらのこと見返せるじゃない」
「……」
指の先と先を合わせながら言葉を探す。葵は貧乏ゆすりを続けていたけど、ぼくの回答を急かすようなことはしない。
「……んだ」
「ん?」
「怖いんだよ。先生たちはみんな“素晴らしいこと”って言うけど、ぼくはあんまり、そうは思わないんだ」
ふーんと鼻を鳴らして、葵はしばらく夕日を見上げていた。だけどいつしか無言でジャングルジムのてっぺんから飛び降りて、綺麗な着地を決める。
「いいんじゃない、それで」
「え――?」
「あたしもここの人たち、あんまり好きじゃないのよ。人でいることが悪いみたいなさ、でも先生たちだってみんな人間じゃない。言ってることおかしいのよ、あいつら」
だからさ、と葵は頼もしい笑顔を浮かべた。
「アンタは人間でいい。人のままでいいと思う。なにごとも最後まで貫き通してこそ、男ってもんでしょーが!」
ガシガシと頭を撫でられて、ぼくはすごく恥ずかしくなる。なんとかして葵の手をどかそうと頑張ったけど、やっぱり葵の方が強い。結局なす術もなく撫でられ続けて、だけど心はとっても温かくて、ぼくはこれからも人として生きようと、そう思ったんだ。
前触れもなく目が覚めた。判然としない視界に瞬きして体を起こす。夜の帳で青く映る天井に、部屋を舞う埃が月明りに照らされてよく見えた。
首を回して隣を見やると、静かな寝息を立てる葵がいた。これまた埃っぽい毛布が胸の動きで上下するのを何となしに眺めて、布団を出る。
乾かしていた服はほとんどが乾いていた。それらを順番に身に着けたあと、枕元に置いていた腕時計を確かめる。時刻は午前一時過ぎ。背伸びして障子を開くと、ぱらぱらと柔らかい雪が降っていた。だけどその光景はむしろ暖かさが感じられて、軽く身を震わせて障子を閉める。
傘なんて持っていないから、乾かした服がまた濡れることになりそうだ。でもそんなことは関係なしに、なんとなく一人でいたい気分だった。眠り続ける葵の様子を眺めて、バックパックからメモ帳とペンを取り出す。広間の端に置かれていたちゃぶ台の前に胡坐をかいて、メモ帳から紙を一枚ちぎり取る。そしてそのメモを焦げ茶色のちゃぶ台に置いて、しばらく睨み合う。こういうのは経験もないし苦手だ。だけど断りなく勝手に出ていくのは裏切りに近いだろうし。ペンの尻で頭を掻いて低く唸る。そして音のない広間の中で、メモとペンがこすれ合う音だけが小さく響いた。
何度かメモを破いて書き直し、ようやくそれらしいものができあがる。俺は誰にでもなく何度か頷いて、そのメモを葵の枕元に置いた。そしてバックパックから必要最低限のものだけを取り出して、集会所を出る。
髪が雪に触れて少しずつ濡れてゆく。俺は身震いしながらも山を歩いている。月明りがやけに強く感じられて、懐中電灯を使う気にはなれなかった。まぁ、その懐中電灯は集会所に置いてきているから使いようもないんだけど。夜の山は遭難の危険があるはずなのに、恐怖らしい恐怖は感じない。木々のざわめき、通り過ぎる風。それらも今だけは落ち着いているように思えて、心の内も少しずつ静まってゆく。それが疲労感からくるものなのか、それとも自らの死を受け入れた静けさなのか、俺には区別がつかなかった。
Mの発言に嘘がないのであれば、胸腔に仕込まれた浮き袋がそろそろ溶け落ちてしまう。吸入がなければ三日ほどで浮き袋は崩壊し、中に含まれた濃縮一酸化炭素が肺に吸収され、速やかに酸欠で死に至る。分量的に致死量を大幅に上回る濃度かつ量が両肺に仕込まれているはずだから、偶然にも生き残るなんて未来はあまり想像できない。そして死がほぼ確定しているのであれば、その様子を見せるのだけは避けようと思った。
あんまり意図して散歩していたわけではないけど、どうやら自然と山を下っていたらしい。土を踏み締める足音だけが頼りだ。山は月明りでどこか青白くて現実味がない。外の世界はこんなにも綺麗に見える。最後にそれがわかって幾分かはマシだったのかもしれない。
そして静かに立ち止まる。山の中に、ほんの少しだけ開けた場所があった。淡い光が夜空から降り注ぐ木立の合間。そんなぽっかりと開いた場所に、よく見知った女性が佇んでいた。
彼女はこちらを向くことなく、ただ空に浮かぶ月を見上げていた。粉雪が白い頬に落ちて、さらさらと溶けていく。俺はまっすぐあの人のところへ進んで、同じように夜空を仰いだ。
「こんな時間まで残業とは、恐れ入るよ」
「とっても処理に困る大問題が起きてね……責任者は私ですから」
Mの長い髪が山風になびいて揺れた。彼女はまだ空を眺めている。
「不思議だと思わない? あまり雲はないのに、雪が降っているだなんて」
「天気雨ってやつか?」
「これだと“天気雪”の方が正しいでしょうね。しかしまぁ、この世のものは思えない光景ね」
「アンタに景色を愉しむ趣味があったとは」
「いいえ、私に趣味らしい趣味は今もないわ。ただ今は、こうして空を眺めていたいというだけで」
「奇遇だな。実は俺もそういう気分だったんだ」
「あら、嬉しくない情報ね」
思わず肩を竦めてみせると、ようやくMがこちらを向いた。その面持ちは不思議なまでに落ち着きを見せていて、海岸での出来事が記憶違いだったんじゃないかと疑ってしまう。
「お別れは済んだかしら?」
「――ああ。手紙も書いておいた。慣れなくて手間取ったけど」
「律儀なことね。古き良き愛情は素晴らしいことかと?」
「嫉妬か?」
「冗談はよしなさい。素直に、そう思っているわ」
「あとどれくらいだ?」
Mが音もなく口を閉ざした。でもしばらく夜空を見上げてたあと、しっかり答えてくれる。
「あなたの身体的な損耗を鑑みれば、あと一時間ほどね」
「ありゃ、案外早いんだな」
「二度も魔女と単独で戦闘を行い、それに生還しただけ幸運よ。もしかすれば戦闘中の衝撃で袋が破けていた可能性もあったから」
「そりゃ、交戦は避けろって言うわけか」
「それだけを理由にしていたわけではないけど……あくまで、許可されていたのが調査だったというだけで」
「そういうことにしておくよ」
胸の辺りをさする。手触りで感じ取れるわけないが、この下に潜んだ死の霧があと一時間で俺を殺す。あまり実感らしい実感を得られないまま手を離す。
「んで、何の用だ?」
雪がしんしんと降り注ぐ。俺たちは肩を並べて、これまでの十年を思う。そして俺自身は、あと一時間ほどで終わる人生を。
「あなたの言う通り、私は選ぶこと、そして決めることから逃げてきました。その罪が今の私を規定している」
「罪ね……」
「なにも選ばないこと、なにも決めないこと。私は全てを先送りにして、そうして全てを失いました」
選択肢が二つ存在するとき、俺たちは基本的のそのどちらかを選ぶことになる。つまり二つともを選ぶことや、二つとも選ばないことはできない。選ぶというのはそういうことだ。片方を捨てることだ。
「いや、まだアンタには選択肢がある。全て決まっちゃいない。そのつもりでここに来たんだろ?」
Mは静かに首肯した。そして懐から例の端末を取り出す。
「知っての通り、心臓破りの起動端末です。私がこれを使えば、あなたはこの場で死に至る。しかし――」
Mが携帯していたポシェットからリブリーザーのような形状の装置を取り出す。
「小型の吸入器です。これを用いれば、あなたの肺に施された浮き袋は破けずに済む」
なんとなく意図を察して、堪らず盛大な溜息を吐いてしまう。だけどMはそこで止まることなく言葉を繋いだ。
「最後通告です。私の下へ投降しなさい。さすれば、あなたの命は保証される」
「何度も言わせないで欲しいな」
「ですから最後通告です。私は最後の選択肢を与えている」
Mの顔を見据える。彼女の瞳に一切の迷いはない。ただまっすぐ俺を見つめていた。
「そうか……決めたんだな」
「ええ」
頷いたMは本当に少しだけ――ほんのごく僅かに、目尻を歪める。だけどすぐに事務的な冷たい表情に戻って、選んだ行き先を告げた。
「あなたは魔女です。人へ危害を加える可能性のある存在は、可及的速やかに確保しなければなりません」
それと同時に、周囲の木陰からザッと足音が聞こえた。黒い戦闘服に身を包んで、これまた黒い小銃を携えた戦術要員たち。彼らは銃口を油断なく俺に合わせていて、密度のある殺気が広場に漂い始める。
「ったく、呆れるよ。俺がMを人質にしたらどうするってんだ?」
「すれば、これであなたの心臓を吹き飛ばすまで」
「本気なんだな」
「そう伝えたはずですよ」
Mの決意に揺らぎはない。恐らく、刺し違えてでも俺を仕留める気だろう。加えて俺の居場所が勘付かれていたということは、葵にも危険が迫っている。端末やら発信機の類は捨てたはずだが、流石Mと言ったところか。
「投降しなさい。そうすればあなたの命だけは助けられる」
「んじゃ、葵は殺すんだな」
「薄々勘付いているのではなくて? あの子の能力について」
返事はせず、周りに展開した戦術要員たちをぐるりと見回す。やはり手練れだけあって隙らしい隙は見いだせなかった。
「だったらなんだ? アンタたちからすれば俺も同じなんだろ?」
「ええ。能力が発現しているか否かの違いはありますが」
「くだらないよ。誰が作ったかわからないルールに従い続けるのは」
「人は弱い生き物です。自分で全てを決められるほど、立派にできてはいません――私のように」
Mの指先が端末の起動スイッチに触れた。俺は無数の星々が散りばめられた空を見上げる。
「開けた場所です。例えあなたが私を殺しても、他の隊員が必ずあなたを殺す」
「んー、違うな」
眉をひそめたMから目を離し、周囲の戦術要員を一瞥する。
「俺はラッキーだよ。山ん中で珍しく、広い場所なんだから」
視線をMへと投げる。そして彼女が目を見開くと同時に、俺は軽く笑ってみせた。
「――存分に暴れられる」