11
海岸から離れたあとも、Mたちが追ってくることはなかった。
冷えた体に鞭打ってとにかく歩き続ける。今はなんとか時間を稼げてはいるが、Mが本当に諦めてくれる可能性は低い。仮にMが自ら来なくとも監査会が必ず代理を寄越してくる。それがわかっているからには、できる限り現場から離れるに越したことはない。
雪はかなり落ち着いていた。横殴りに近かった吹雪は、いつしか優しい粉雪に変わっている。しかし未だに停電が続いているのか、町中に月以外の明りらしい明りはなかった。だけど途中に通りかかった高校には眠気を誘うような暖色の明りが灯されている。位置からして恐らく体育館だろう。あそこに町中の人々が集まり、みんなで暖を取っている。できることなら仲間に加えて欲しいところだが、M曰く学校周辺は監視が置かれているらしいし、町の中に長居はでいない。
「ねぇ、これからどうするの?」
葵の不安そうな声に、少しだけ思案する。とは言っても逃げ場などないに等しい。なにせ組織は全国規模で根を張っているのだ。どこか別の場所へ逃げ込んだとしても、すぐに勘付かれてしまうだろう。啖呵を切った以上はもう戻れないが、考えてみると既に詰みの予感しかしなかった。
「まずは遠別から出てくしかないな。ここにはもう残れない」
「そうだよね……」
「寂しいか?」
葵はすぐに首を横に振った。
「あんまりいい思い出ないから。瑞希だってもういないし……」
「ご両親は――って、どちらにせよ会いに帰る時間はないけど」
「別れの挨拶ってこと?」
「十年は一緒に暮らしてたんだろ?」
しかし葵は引きつったような歪な笑みを浮かべる。
「戸籍上はね。だけどあの人たち、家に帰ってくること珍しかったから」
「養子に取ったのにか?」
「うん……きっと可愛くなかったんでしょうね」
「無責任すぎる」
「ほんとよ。こんなだったらずっと孤児院にいたかったわ」
しばらく歩いていると、ただでさえ数が少なかった住居や施設さえも減っていく。そして例の廃工場を越えると、人工物がほとんど見られなくなった。組織の目を掻い潜るために整備された道も避けていたから、本当に何もない。ただただ平坦な大地が続いているだけだ。
だけど歩いている内に段々と勾配が現れ始める。少しずつ高さが出始めているらしい。遠別からはあまり見えなかったけれど、ここまで近づくと月明りの中で薄っすらと、夜空と山肌を分かつ稜線が見て取れた。夜の山越えは不可能に近い。となると仕方なしに、どこかで野宿する羽目になりそうだ。
「キャンプの経験は?」
「ないけど……まさか」
「察しがいいな。だが用具もない。お互いにびしょ濡れだし、流石にどっかで温まらないとマズいね」
すると葵が気難しそうに眉をひそめて、考え込むような素振りを見せた。
「すごい前に聞いた話だから怪しいけど……この辺の山に昔使っていた集会所があったらしいよ」
「どの山だろうな」
「んー……集会所で使うくらいだから、町からそこまで離れてないところでしょうね」
「集会所か。一番使いそうなのはご老人か」
「そうね、昔この辺にも町があったみたいなんだけど、町同士の合併でなくなったらしいよ」
「なるほど、山の中にある集会所まで立て壊すのは手間だったろうな。となると麓辺りか」
「うん。山登りはお年寄りには大変だし」
「違いない」
俺たちは更地を歩いて、近場の山へと進んでいく。ここに町があったとすれば、この山が近さで言えば一番だ。腕時計を見やると、海岸から逃げ始めてから既に二時間半が経過していた。そろそろ寒さも限界に近い。となれば葵はもっと辛いだろう。ときおり葵の体調を確認しながら山を目指していると、意外と早い段階で麓付近まで来られた。淡い月明りのせいで遠近感が狂っているらしい。なるべく使わずに維持していた懐中電灯を使って山肌を照らしてみる。すると間もなく、元は山道だったらしい荒れた通路が見つかった。
「行くっきゃないか」
「大丈夫なの?」
「人里にいた方が危ない」
懐中電灯で先を照らしながら山道を登る。葵はさっきより俺に身を寄せて、できる限り離れないように引っ付いていた。確かに道と言えば道だが、どちらかと言えばもはや獣道に近い荒れ具合だ。足を取られないように注意しながら進んでいると、三十分ほどしてようやく、それらしい不気味な小屋が現れた。
「意外と時間かかったな。麓の範囲かここ?」
「ほんとにここで合ってるの?」
「んま、他を探している暇はないね」
「どっちにしろ、か……」
それでこそ御伽噺の魔女が出てきそうな具合の外観だ。立ち止まってしまった葵を促して、まずは俺が一人で中へ入る。玄関の引き戸は特に施錠されていなかった。廃墟だから当然と言えば当然か。軋みながら開いた扉を抜けて、中を懐中電灯で照らしてみる。放置されていた期間が長かったからか埃の量がすごいけど、大きく壊れている箇所はない。土足のまま廊下を渡っていって、ふと目についた障子を開いてみる。どうやらこの部屋は広間だったらしく、集会所を想定して作られていたからなのか中々の広さがあった。奥の押し入れを開けてみると、座布団や布団の類も残されていた。
「あきとー、どうなのよー?」
玄関からビクついた声が聞こえる。大丈夫そうだと返すと、障子の奥から葵が恐る恐る顔を出した。
「ほら、今晩くらいは大丈夫だ」
「……埃っぽい」
「我慢してくれよ、野宿よかマシだろ」
一応は広間の埃を軽くはたいて座布団を敷いておく。畳もかなり傷んでいるが、破れたり底が抜けたりはしていなかった。懐中電灯の光量を最低まで下げて天井から吊るしておく。ゆきのせいで明りを入れるために縁側の障子は開けなかったし、電池が勿体ないけど仕方ない。
「さてと。まずは服だな」
びしょ濡れのまま集会所跡まで強行してきたから、お互いに体が完全に冷え切っていた。着替えは流石に持っていないけど、乾かさないわけにもいかない。少しだけ葵と目を合わせて、軽く頭を掻く。
「ん……廊下で着替えるよ。どうせ大して寒さも変わらんだろうし」
そう告げて、返事を待たずに障子に手をかける。廊下へ出ていこうとして、しかし上着の裾を掴まれてしまった。
「どうした?」
「……」
葵の表情を見て察する。確かに命からがら逃げ延びてきて、いきなり一人にされるのは不安だろう。だけど同時に、特に男女間では節度ってものもある。
「ごめん。やっぱりちょっと怖いから……」
少し恥ずかしかったのか、言い出すのに少し間があった。まぁ性格を鑑みれば、言ったら負けとでも思ってたんだろう。
「だけど、着替えなきゃ風邪ひくぞ」
「見なきゃいいから」
「大丈夫だって、すぐそこにいるんだから」
「嫌」
裾を握る手のひらにグッと力が籠められる。こうなった葵は絶対に折れない。それは遠別に来る前からずっと前から、身に染みて理解していたことだった。
「わかったわかった。んじゃ、反対を向いて着替えるか」
「うん」
ようやく手を離してくれて、思わずため息を漏らしてしまう。葵が広間の奥の方へ行ったことを確認し、俺は障子とにらめっこする。
「振り向いたら殺すから」
「わかってるって」
もう一度だけ溜息を吐いて、俺は着替えを始める。取り敢えず肌着以外を脱いでみるが、どれもぐっちょりで多少の重みを感じた。これらは乾かしとけばいいとして、流石に下着までは脱げない。バックパックをまさぐって、奥の方からタオルを引き出してみる。だけどやっぱり小さくて、暖を取るのは難しそうだ。
「あきとー! 毛布あったよ、これに包まりましょ!」
「でかした! よく見つけたな」
「押し入れの奥の方に隠れてたわ、あー、よかった」
寄越してくれと頼む前に、頭に何かがバサッと被さる。どうやらその毛布らしく、持ち上げてみると少しだけカビっぽい臭いがした。
「投げるなって」
「仕方ないでしょ」
毛布の臭いに顔をしかめつつ、だけど背に腹は代えられないと諦める。大人しく毛布に包まると、ほぼ同時にもう大丈夫との声がかかった。
「変な状況だな」
「アンタも一緒よ」
毛布に包まれた葵はどこかシュールで、ちょっとだけ緊張がほどけるのがわかった。たぶん葵も俺を見て同じような感慨を抱いたんだろう。疲れで固まっていた表情が軽くだけど緩んでいるのがわかった。
脱いだ服を広げて自然乾燥させながら、その様子をぼんやりと眺める。まぁ寝る以外にやることもないのだが、こんな状況ですぐに眠れるとも思えない。俺の方は訓練で寝る練習をさせられてたから問題ないが、葵は別だ。毛布に身を包んでジッと時間が過ぎるのを待つ葵は、障子の隙間から差し込む僅かな月明りに照らされて、どこかふわふわした雰囲気を纏っていた。
「ねぇあきと」
「どうした?」
「……ごめんね」
前触れのない言葉に、隣を盗み見てしまう。葵はこちらを向くことなく、じっと先の畳へと視線を落としていた。
「あたしがいなければ、あきとはこんな目に遭ってなかった」
「いじめられ続けてたな」
「違うよ。十年も閉じ込められてたんでしょ? それに危ない仕事されられて、あの女の人に命を狙われることもなかった」
葵が膝を抱いた。それも、とっても強く。
「あたし、謝らなきゃいけないことだらけだ……」
泣きそうな表情だったけど、涙が流れることはなかった。きっと枯れ果てていたんだ。十年分の記憶を今日一日でぜんぶ背負うことになったから。あり得ないはずだった罪を見つけて、知るはずのない過去から忘れてはいけなかった記憶に変わった。虚構の痛みが実体を伴って、年月の重みとともに肩へのしかかっているんだ。
「記憶ってのは難しいものでさ」
気が付くと口を開いていた。ほぼ無意識での行動に、自分のことながら内心ちょっとだけ驚いてしまう。だけど俺はまごつくことなく、そのまま話を続ける。
「まだわかってない部分も多いらしい。でも人間はごく稀に、自分で自分の記憶を消すことがあるんだってさ」
葵の記憶喪失が人間の持つ元々の機能によるものなのか、それとも魔女の能力なのかはわからない。
「んで、どうして自分の記憶を消すことがあるかって言うと、それは自分を守るためなんだな」
人間は非常に強い精神的ショックを受けた際、記憶を自ら分離して心を守ることがあるらしい。
「その記憶があると生きていけないから。心が壊れちまうと思ったから、少しの間だけ胸に仕舞っとくんだってさ。だから――」
人間か魔女かは関係ない。なにせ葵は当時幼い子どもだった。成長途中の状態で、ああいう地獄を味わってしまったんだ。なら少なくともその痛みを受け止められるまでは、忘れてたっていいじゃないか。
「記憶を忘れることで、ここまで生きて来られた部分もあるんじゃないかってな。知らないってのはあながち、全部が悪いわけじゃないと思う」
それに俺だって、いじめから助けてくれた葵のことを忘れていたわけだし。そういう意味においても葵だけ苦しむのは筋が通らない。
左肩に重みを感じた。それは優しい柔らかさを伝えてきて、なんとなく温かい気持ちになる。葵の体重を受け止めながら、俺たちはただぼうっと先を見つめた。
「変わんないね、あきとは」
「お前もな。昔のままでよかったよ」
「ありがとね。何度も助けてくれて」
「こっちこそ。助けてくれてありがとな」
明るい笑顔を浮かべた葵を眺めて、そっと体を引き寄せる。葵も俺の背に手を回して、優しく抱き締めてくれた。冷えた体に、人の体温はどれだけ得難いものなんだろう。俺たちはしばらく抱き合って、そして顔を上げた葵と唇を触れさせる。柔らかさと温かさが脳に強烈な眠気をもたらした。一度唇を離して、もう一度重ねる。葵の抱擁が強く、より確かなものへと変わっていく。軽く、強く、長く、深く。何度も唇を合わせた俺たちは、額を触れ合わせて笑った。
「キスしたの初めて」
「ほんとか?」
「嘘なんてつかないわよ」
「それにしては上手かったような……」
軽い頭突きを食らう。頬を膨らませた葵があまりにも可愛くて、もう一度キスをする。瞳を潤ませた葵を抱き締めて、そうして見つめ合った。
「いい?」
「……うん」
「後悔しない?」
葵は俺の胸に顔を埋める。そして不満そうに胸を叩きながら、恥ずかしそうに呟いた。
「するわけないでしょ、バカ」