9
雪はますますその勢いを増していた。
廃工場を離れて一人で町中を彷徨う。あれからどれくらい時間が経ったんだろう。時たま胸の辺りに手をやってみるけれど、心臓が破裂することはない。Mは端末を使えばいつでも俺を殺すことができるはずだ。だけど現在進行形で処理は行われていない。もちろん俺としても、Mがそう簡単に心臓破りを起動するとは思っていなかったからこそ、離反に及んだんだけど。
心臓辺りから手を離して、とにかく歩き続ける。心臓破りの起動を一時的に免れているとしても、“浮き袋”の方は俺の胸腔内に残ったままだ。最後の吸入が二日前だったことを考えると、単独で動けるのは最長でもあと一日程度となる。今思えば浮き袋という第二の保険をかけたのは、監査会としてはとても正しい判断だった。心臓破りは結局のところ、起動に少なからず監視者の意思が介在してしまう。時間経過によって問答無用で発動する浮き袋は、心臓破りの弱点を補う意味で非常に的を射ていた。
そんなことより。白い息を吐いて身を縮ませる。葵は一体どこへ行った。こんな吹雪の中で町の外へ逃げられるとは到底思えない。それはMも同じことを考えているだろうから、すぐにでも捜索隊を編成するだろう。少なくとも俺は、Mより先に葵を見つけ出さなきゃいけない。だとしてもヒントがあまりにも少なすぎる。俺は遠別に潜入して一週間くらいしか経ってないから、あらかたの地理を頭に叩き込んでいるとはいえ、葵の行きそうな場所なんて見当もつかない。自宅の線も考えたけど、葵が魔女であると仮定した場合、戻っているとは考えにくいだろう。暴走しているのなら町のどこかでもう被害だって出ているはず……まぁ手がかりが少なすぎるから、こうして町中を走り回っているわけだけど。
(くそ……なんだってまた……)
そういえばあの時も雪が降っていた。痛む頭を押さえながら走り続ける。俺はあのとき森の中で追手の存在に気付いて、がむしゃらに走り続けた。だけど確実に距離を詰められていたから――あの子を先に行かせたんだ。地面に組み伏せられたとき空から雪が降り始めた。火照った頬に雪が触れて、なんだか無性に泣きたくなったのを覚えてる。
まるで当てつけだ。お前は一生、そういう生き方から逃れられないと嘲笑うように。人と魔女の間で彷徨い続けて、その狭間で朽ち果てるしかない。失敗作だと後ろ指を差されて、そこから逃げ出したと思ったら今度は暗い部屋に閉じ込められて、それでも人間として生きることを願って戦い続けている。
くだらない、と唇をきつく噛み締めた。だけどその意志が、これまでの自分を支え続けていたのもまた事実だ。俺は今も雪の中を走り続けている。もう一人の、自分で決めることが許されなかった、大切な友だちのもとへ。
流石に息が上がり切って否応なくその場で立ち止まってしまう。肩で息をしながら膝に手をつき周囲を見渡す。そういえばこの辺りにはまだ来たことなかった。これまで以上の突風が吹き荒れていて、ようやくここが海岸近くであることに気付く。左手には際限のない暗闇が広がっていて、どこが空と海の境目なのかすら区別がつかない。ここは――そうだ、泥喰らいの目撃情報があった場所だ。一つの可能性として、泥喰らいが何らかの手段で蘇生して逃げ出したなんてことも考えたけど、海岸にそれらしい影はなかった。平べったい砂浜にも雪が絶え間なく降り注いでいて、海水に触れた雪が柔らかく溶かされてゆく。
大きく息を吐いて体を起こす。そして海岸を離れるべく踵を返そうと思ったところで、雪に薄く覆われた海岸に、ひどく小さな影が見えた。暗闇で何かはよくわからない。目を凝らしてジッと見つめてみると、ようやくそれが人であることが分かった。雪に濡れることをいとわずに、砂浜で膝を抱えて身を縮ませている。
砂に風化した石の階段を下りてゆく。それが誰であるかは当然ながら、もう見当がついていた。そのまま彼女の隣に寄って、ともにしばらく海を眺める。海風に混ざって、押し殺した嗚咽が聞こえてきた。
「泣いてばっかりだな」
海はひどく荒れ果てていて、不規則な波を海岸まで運んでいる。どうやら足先まで迫った荒波になど気付いていない様子で、ただただ膝に顔を埋めて泣き続けていた。
大きなため息を吐いて、隣に座っていいか一応は許可を取っておく。無理もないけど、特に返事はない。肩を竦めると、そのまま隣に腰掛けた。上着の裾が濡れる冷たい感覚に小さく身を震わせて、思わず上着のポケットに手を突っ込む。だけどB武装の嫌な感触が伝わってきて、結局は右手だけ外に出した。
「こんな天気で、よく海岸に来ようなんて思ったな。おかげで風邪引きそうだ……お前は寒くないのかよ?」
「寒くない」
と言われたものの、すかさず鼻をすする音が聞こえた。そんな様子に呆れながらも、上着を脱いで頭に被せてやる。要らないと駄々をこねる強情娘を無視して上着で包んでやると、今度は俺の方がくしゃみを放ってしまう。バカね、と呟きながら上着をこちらへ投げて寄越すと、葵は少しだけ俺の方に身を寄せた。
右肩に微かな体重を感じながら、俺たちはしばらく海を眺めた。吹雪で荒れる海波は不規則なうねりを生み出して、海岸へと潮汐を届けている。足はとても冷たかったけど肩に体温を多少なりとも感じていたから、くしゃみは一回で止まってくれた。葵の方も鼻水が少しは収まったようで、ただ漠然と海の先を見つめていた。
「あたしさ、前に言ったよね。知らないことって悪いことかって」
「うん」
「今ね、すごく怖いの。自分が何かを忘れていることに気が付いたから。何を忘れちゃったかは全く思い出せないんだけど、でも自分がとっても大事な何かを忘れちゃってるんだって、ようやくわかった……子どもの頃の記憶だけじゃなくて、ついさっきの記憶もなくなってる。あたしがなんで今ここにいるのか、どうして外になんて出たのか、全然思い出せない。気がついたらあの工場にいて、気付いたら町を走ってて。もう、どうしたらいいか……」
膝に顔を埋める葵。一つ大きな突風が海岸に押し寄せて、その長い髪を束にして攫ってゆく。
また小さな泣き声が聞こえ始めた。しゃっくりを上げる葵を見やって、静かに視線を海へと戻す。
「ねぇ坂川。あたし、どうしちゃったんだろう? もしかして瑞希みたいに――」「違う」
自分でも驚くほどに鋭い声。その一言に完全なエゴが含まれていることに気付いていながらも、止まることはない。
「お前は違うよ。魔女なんかじゃない」
「でもさ、」
「違う。だって葵は人間だ。俺と同じ人間だよ」
なにを根拠に。そんな反駁は胸の奥に深く沈める。わかってる、葵だけじゃなくて自分にも言い聞かせているんだ。俺たちは人間だ、魔女じゃないって。人から疎まれて、排除される存在じゃないんだって。
だけど葵は頷くことなく膝を抱く腕に力を込める。ただでさえ小柄なのに、そのせいで葵はますます小さく見えた。
「坂川と電話したあと、少し休もうって思ってたんだけど、どうしてかあの廃工場にいた。外に出た記憶も、雪の中で歩いた覚えもない。それに瑞希がいた場所にはなんでか雪が積もってて、明らかにおかしいじゃない……訳がわからなくて、でも急に足音が聞こえたから、もしかして瑞希が、って……ほんとに怖くて震えが止まらなくて、それで……気付いたら町を走ってたの。自分がどうして町中で走ってるのか、工場にいたのは何だったのか、わからないことだらけで!」
「落ち着け。大丈夫だ、ここには俺たち以外は誰もいない」
「ねぇ坂川、何が起こってるの? アンタならわかるでしょ、ねぇ教えてよ!」
「落ち着け」
「落ち着いていられるわけないでしょ! どうせアンタだって、あたしを殺しに――!」
「葵!」
肩を掴んで大きく揺する。その反動で葵の目尻から涙が零れ落ちた。泣き腫らした目元から、まだ足りないとばかりにポロポロと涙が流れる。そんな様子を眺めて、俺も昔はこんな感じだったのかなとぼんやり思った。
俯いて泣き続ける葵の姿から、十年前の記憶を遡る。あの子は泣きじゃくっていた俺の手を引いて、いつだって一緒にいてくれた。だからその恩は絶対に返さなきゃいけない。
「こんな時に悪いんだけどさ、昔話を聞いて欲しいんだ」
特に反応はない。だけど構うことなく話を続けた。
「孤児だったって話はしたよな? 昔はそういう施設にいて、同じような連中と一緒に暮らしてた。だけど俺はとんだ泣き虫野郎でさ、いつも泣かされてばっかりだった。今思えば恥ずかしい限りだけど、でもそんな俺にも一人だけ友だちがいたんだ」
葵の肩がピクリと小さく跳ねる。
「その子は女の子で、同い年くらいの子に比べてもかなり小柄だった。でも小さいくせして気性だけはとんでもなく荒くてさ、男の子の喧嘩に混ざっては何人も泣かせて先生を困らせる、いわゆるガキ大将みたいな奴だった。でも不思議なことに、その子は泣き虫だった俺を引きつれて、いじめられたら代わりにやり返してくれた。俺がいじめられてたら、“なんでやり返さないのよ”って怒ってさ。多分そういう軟弱な奴が気に食わなかったんだろうな」
顔を上げた葵は、驚愕からか瞳を小刻みに震わせていた。だけど頬を流れる涙が、その意味を少しばかり変えていることに気付く。
「多分だけど本人は、自分の背が低いのを気にしてたんだろうな。だからあんな風に周りに喰らいついて、必死に生きようって頑張ってたんだ。そんな女の子の姿を見て俺は――」
ポケットから手を出し、それを握らせる。手のひらを眺めた葵は、顔を涙でぐしょぐしょにしながらも、目いっぱいの泣き笑いを浮かべてくれた。
「リスみたいな奴だなって、そう思ったんだ」
「なによこれ」
不機嫌そうに眉を寄せた葵を見て、ぼくは身を縮ませてしまう。
「えっと、その……」
「はっきり言いなさいよ」
呆れたように肩を落とした葵は、だけど続きの言葉を待ってくれているようだった。
「いつも助けてもらってるから」
「なんでリスなの?」
つっけんどんな口調に肩を震わせてしまうけど、一生懸命に気持ちを伝える。
「に、似てると思ったから……」
「似てるって――あたしがリスに?」
頷いてみせると、葵はキーホルダーを食い入るように見つめて、似てるかしらと首を傾げた。
「んま、とにかくもらっていいのね?」
「うん」
「んじゃ、もらっといてあげるわよ」
図工の時間に作った木彫りのキーホルダーをスカートのポケットに仕舞うと、葵はちょっとだけ顔を逸らして、でも嬉しそうに少しだけ頬を綻ばせていた。
「あきと」
リスのキーホルダーを握り締めて、葵は確かにそう紡いだ。
「あたしはあの施設にいて、泣き虫な男の子と一緒に遊んでた。情けなくてムカつく奴だったけど、友だちがいなかったあたしと最後まで仲良くしてくれた」
葵の瞳が揺れる。その眼差しを正面から受け止めて、静かに頷く。
「ほんとに……アンタなの?」
「ああ、俺もさっき思い出したんだ」
驚喜の色を滲ませていた葵の表情が、しかし急に険しく辛そうなものへと変わる。
「だったらさ、あの日のことも思い出した?」
「ああ、思い出したよ」
葵の表情が大きく歪む。キーホルダーを握り締めていた手が小さく震えていた。
「あたし、どうしても謝らなきゃいけないことがある」
「え?」
俯いた葵は、しばらく内に潜んだ感情と向き合っているようだった。そのまま続きを待っていると、しばらくして葵は顔を持ち上げた。
「あの日、施設が焼かれた日。あたしは酸欠で倒れて、気を失ってた。でもアンタがあたしを背負って外へ連れ出してくれて、森へ逃げ込んだ」
「そうだったな」
「でも、追手に気が付いたアンタは、あたしを先に行かせて一人で残った。それでアンタは黒い服を着た大人たちに取り押さえられて――」
葵は語りながら、溢れ出す恐怖と戦っているみたいだった。当時のことは流石に鮮明には記憶してないけど、施設の子どもたちが次々と死んでいったのだけはよく覚えている。無力な子どもたちを、黒い戦闘服に身を包んだ男たちが点射で一人ずつ殺してゆく。あまりに機械的で無感情な動きを見て、俺は必死に葵を抱えて逃げた。焼かれて収縮する子どもの遺体の山。悲鳴と絶叫。肉と血の臭い。堪らず首を振って、そのイメージを切り払う。
「あきとが大人たちに囲まれて手足を縛られていくのを見た。だけどあたし、足が竦んで声も出せなかった……怖くて、怖くて……結局あたしは逃げ出した。ずっと慕ってついてきてくれたアンタを置いて。命懸けで助けてくれたのに、あたしはあきとを助けなかった」
よろよろと力なく後ずさった葵は、後悔と絶望に打ちひしがれていた。忘れていた記憶を取り戻して、その過去を嘆いている。記憶の向こう側に隠されていた自分の罪を自覚してしまったから。
「バカみたい、忘れてることを悪いと思ってたのに、ほんとに悪いことしてただなんて」
「葵……」
「ねぇ、アンタがあたしを探してたのって、やっぱり殺すため? 瑞希みたいに」
「違う、そんなことはしない」
「あきとはさ、その魔女ってのを殺すためにここへ来たんでしょ?」
「それは――」
「ならさ、やっぱり巡り合わせだったんだよ」
葵は優しく微笑む。でもその笑顔は作りものみたいで、ぜんぜんあの子らしくない。
「あたしはアンタを見捨てた。それで今あきとは、瑞希みたいな魔女と命懸けで戦ってる。本当なら、きっとあたしの役割だったはずなのに」
葵の手のひらが重ねられる。俺の手のひらは上着のポケットへと導かれて、そこに収められていた冷たい金属に触れる。
「さっき上着を借りたときに気付いちゃったんだ。ごめんね、辛い思いさせて」
拳銃を握らされた手がポケットからずり落ちる。葵は数歩下がると、荒れた海を背に笑顔を浮かべた。
「あきと。あなたの役目を果たしてよ。あたしは逃げないから。もう逃げたりしないから。もう――一人にしないから、」
右手に握られた拳銃を眺める。これを使えば間違いなく、速やかに葵を処理することができるだろう。魔女の疑いがある相手を撃ったとして、しかし今回に限っては遠別にもたらされるはずの甚大な被害を未然に防いだとの見方もできる。少なくとも葵の記憶喪失は自然なものではない。なら魔女の可能性は十分に考えられるわけで、放っておけば瑞希のように我を失い暴走するリスクもある。それにここで葵を処理すれば、まだ組織へと帰れるかも知れない。この状況が続けばどちらにせよ一日しか生きられないのだ。ならMの下へ戻って、魔女の烙印を押されたままでも生きた方がいいのか。
雪が頬を冷やす。手先の感覚を奪っていく。まるで聖母のような笑みを湛えた葵が、そこに立っている。死ぬことで自分の罪を贖おうとしてるんだ。俺に押しつけたと思い込んでいる役目を、その責任を、十年越しに果たそうとしている。
銃口が持ち上がって、照準が葵の額へぴったり合う。葵のせいで十年も苦しむ羽目になった。魔女だと謗られ、人として生きる権利を全て奪われたんだ。引き金に指をかける。そうだ、今ここで決着をつけろ。俺の運命は変わらない。この世界で生きている限り、俺は人ではいられないんだ。ならその原因を作った女くらい、殺したって誰も怒らないさ――
指先に力が籠もる。そうだ、それでいい……滲む視界の先で、思い出の女の子が微笑んだ。
「ふざけんな」
銃口が震える。自分に言い訳を続けたけど、しかし復讐心が形を成すことなんてなかった。葵を悪いと思い込んでみても、十年間の痛みや苦しみを顧みても、それだけで人を簡単に殺せるほど俺は狂っちゃいない。
「俺は人間だ。撃っていい奴と、撃っちゃいけない奴の区別くらいできる」
俺は魔女じゃない。俺は泣いていた。拳銃が砂浜に落ちて雪に埋もれてゆく。色々な感情が、今まで押し殺してきた感情が溢れて、涙として浜に流れ出していた。
「俺は人を愛し、人を守り、人に尽くす……どうしたって必要な存在」
砂浜に膝をついて号泣する葵へ歩み寄って、その小さな体を抱き締める。ずいぶん冷えていたけど、それでも人の温もりをちゃんと感じさせてくれた。これまでもずっと、こんな細い体でいろんな辛いことに耐えてきたんだ。
「また会えてよかったよ。いつの間にか泣き虫になってたけどな」
うるさい、とばかりに胸を叩く葵を抱き締めて、その温もりに身を委ねる。なくしたはずの大切な記憶が、ちゃんとここに残っているはずだから。
俺たちは吹雪の海岸で抱き合う。お互いの痛みや苦しみが少しでも和らぐまで、そうしてずっと抱き締め合っていた。