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吹雪の中に実際飛び出してみると、いかに自分が矮小な存在であるかを思い知らされる。
吹雪が豪雨と同じように横殴りの様相を呈していて、突風だけでも自分の重心を維持するのが難しい。厚めの上着を着込んでいるはずだけど、雪はそんなこと意に介していないようで、裾の隙間や首元から容赦なく体温を奪っていく。吐く息は降りしきる雪と混ざり合って、その境界を曖昧にしていた。
遠別に街灯なんて設置されちゃいないけれど、吹雪の中の街並みは異常としか言いようがない。どの住宅にも明かりが一切灯されておらず、ほぼ完全な暗闇が街を覆い尽くしていたからだ。そんな中で俺は、黒い人影がいくつも高校の方へ向かうのを見た。恐らく停電などの障害は起きた場合に、高校の体育館へ避難できるようなシステムが整えられているんだ。吹雪に身を縮ませながら一直線に高校へと向かう様子は、これまた非日常的な光景に感じられた。
俺はそのぽつぽつと窺える流れから一人だけ外れて、ほとんど逆方向へ進んでゆく。町の中心近くにある高校ではなく、郊外に位置している廃工場へ。ときおり思い出したように端末を取り出し、Mへの連絡を試みる。ただ回線の復旧は滞っているようで、コールの音すら一切聞こえない。ため息が背景の雪と同化して薄らいでゆく。二、三回ほど試してみたけれど、流石に諦めてポケットへ戻す。それに廃工場はもうすぐだった。
足を絡め取ろうとする積雪を跳ね除けて、俺はようやく廃工場の外郭まで辿り着いていた。夕方見たときも中々の雰囲気があったが、吹雪の夜に外観を眺めているとホラーの舞台にでもなりそうなおどろおどろしさすら覚える。停電以前に電気など来ておらず、廃工場は暗闇の中へ完璧に溶け込んでいた。外郭からメインの工場入り口の前に立って、中の気配を窺う。この先に瑞希の遺骸が残っているはずだったけど……雪嵐で音が多少かき消されてしまうが、目立った異音は特に聞こえなかった――となるとやっぱりおかしい。だってMの派遣した回収班がいるはずなんだ。連絡が途絶えた理由が通信障害によるものなのであれば、気配の一つあるのが自然だろう。もちろん現場の判断で撤収した可能性もある。ただ瑞希の遺骸を発見できていない状況で、通信障害を理由に引き返すというのは流石に早計な気がした。
ここでうだうだ考えていても仕方ない。俺は上着のポケットから小型の懐中電灯を取り出すと、そのまま暗闇の中へ進入していく。
工場内で何が起こっているか分からない状態で、考えなしに懐中電灯を使うのは憚られる。だけど光源が一切ない以上、夜目を使えば進めるという安易な考えも危険だ。俺は工場内に殺気や気配が滞留していないことを再三確かめたあと、懐中電灯のスイッチを入れた。できる限り光度を落とし、闇雲に正面を照らしたりもしない。なるべく低めの位置から足元だけを照らして、夕方と同じように大型の製造機械でカバーを取りつつ前進していく。かなり多くの機械が魔女によって破壊されていたから、製造ラインはズタボロにされていて、もはや原型を思い出せないほど荒れ果てていた。高い天井の隙間から吹き込む雪が、めくれ上がった草葉を沈めてゆく。工場内に自生していた植物の多くも、先の戦闘でその多くが傷つけられていた。
ふと、そこで違和感に気が付く。鼻をすすって付近を漂う臭気を嗅ぎ取る。やはりだ。不自然なまでに匂いがしない。魔女を仕留めたときは泥の腐ったような臭いと、酸の強烈な刺激臭が多少なりとも空気中を彷徨っていた。泥はともかく酸については、いくら入念に後処理をしたところで多少の臭いは残ってしまう。それに天井が避けているとはいえ基本的には屋内だ。ここまで綺麗に匂いが消えてしまうのはやはりおかしい。
そこで俺は立ち止まる。もう一度だけ周囲の気配を確かめ、懐中電灯で少し先を照らす。それで、さっきまで薄っすらとしか見えなかった物体がはっきり見えるようになった。静かに近づいて、その黒い物体を拾い上げてみる。見た目の割にとても重い。つまりこれは金属でできている。なら、モデルガンでしたなんてオチはなさそうだ。
(B武装……なら、回収班はやっぱりここにいた)
形状から組織内で正式採用されている拳銃であることを確信する。俺は懐中電灯を咥えて、弾倉を取り出してみた。弾倉内には通常の9mm弾が所狭しと押し込められている。回収班の具体的な装備内容は知らないけど、少なくともこの拳銃が使われた形跡はない。
拳銃を上着のポケットに仕舞って、懐中電灯で辺りを照らす。ちょうどこの辺りで魔女は死んだはずだ。取りこぼしのないよう慎重に周囲を探っていると、そこでようやく、明らかに夕方の戦闘後から大きく変化している場所に気が付いた。
まさに魔女が崩れ落ちた場所。強酸によって生い茂っていた雑草さえも朽ち果てて、異常なまでに漂白されていたはずの一角。そこは自然に降り積もったものなのか疑わしいほどの雪で覆われていた。その雪は傾斜のなだらかな山のような形状で降り積もっていて、ぼんやりと土葬の風景を思い出させる。土を小山みたいに被せて死者を安置する墓標。現実離れした光景に、ただただ立ち尽くすしかなかった。
その時、ズボンのポケットに突っ込んでいた端末が振動を始めた。反射的に取り出して画面を確認する。思った通り、そこにはMの番号が記されていた。
「復旧したのか?」
『明人! あなた今どこにいるの?!』
雪の小山をちらりと横目で見やる。
「廃工場だ」
『あなた……! 指示もなく勝手に!』
「回収班と連絡はついたのか?」
慌てているMをいなすように話題を変える。だけどMが落ち着きを取り戻すことはない。荒い呼吸が端末から響いて、ちょっとした齟齬を覚えた。Mがこういう想定外の事態に弱いのは知っている。だけどこの取り乱し方は少しおかしい。曲がりなりにも十年の付き合いだ。だからこそ嫌な予感がした。
『いいえ。あなたとの通信が切れたのは回線の問題だったらしいけど、今ちょうど復旧したわ』
「つまり回収班については別の理由だと」
『ええ……今あなたは工場にいるんでしょう? なにか手掛かりはなかった?』
「B武装の一部が落ちてたよ。拳銃だ。使っちゃいなかったみたいだけど」
上着のポケットから拳銃を取り出して軽く握ってみる。やはり正面が薄汚れているけど、目立った傷もなくよく整備されていた。
『他にはなかった?』
「それと魔女が死んでいた場所にどうしてか、雪で小さな山ができてた。これは勝手な感想だけど墓みたいだったよ。あと酸の臭いが完全に消えてる。そんなすぐには消えないと思うんだけどね」
『そうですか……』
沈痛そうな声が響く。俺は上着のポケットに拳銃を戻しながら天井の裂け目を見上げる。雪はまだ弱まる気配を見せない。所々から舞い落ちる雪が床に注いで、少しずつ融けてゆく。
『明人。新しい情報があるわ』
「あんまり聞きたくないな」
『そうね……“あなたにとっては”かなり複雑な内容だと思うわ』
思わず眉をひそめる。俺にとっては? 発言の意味を測りかねて、だけど胸の中は言い知れぬ予感で満ち満ちていた。とても本能的な部分で、続く言葉を避けているような気配があった。
『あなたには伝えてなかったけど、泥喰らいの事件に関わった人物をもう一度調べ直していたの。始末書の関係でね。だけどそこで、とある人物が別の事件にも関係していたという可能性に気付いた』
胸の内に漂う黒い霧が濃度を増してゆく。だけどその一方で、なんら規則性のない数字の羅列が、一つの鍵を得たことによって整然とした答えを導き出してしまう、奇妙な感覚に囚われていた。
『“失楽園”よ。あなたが私たちに保護されることになった例の事件。児童養護施設の皮を被った、人工的に魔女を生み出す実験施設。孤児を引き取っては人体実験を行っていたその施設に、組織は大部隊を投入して殲滅を図った。魔女の疑いがある孤児たちは“一人を残して”全員がその場で処理された……しかし当作戦に従事した戦術要員の多くには原因不明の“記憶障害”が発生し、事件後の聴取は難航を極めた――』
ズキン
突然、強烈な頭痛が襲った。鈍痛にうめき声が漏れて、その場に膝を付きそうになる。だけど端末のマイクから離れていたから、Mに勘付かれることはなかった。でも鈍い痛みは続いていて、呼吸が乱れ始めてしまう。
『事件の後、施設の入所者リストと処理された孤児たちを符号させた結果、数人の子どもたちが処理を受けていないことが発覚した。もちろん逃げた子どもたちの多くは後で見つかって処理されたわけだけど……その中であと一人、未だ行方不明のまま捜索が続いている子がいた。監査会は隠していたようですが』
「なに泣いてんのよ!」
部屋の隅で泣いているぼくを引っ張って、無理矢理立ち上がらせる。女の子はムスッとした表情で、呆れたようにため息をついた。
「アンタ男の子でしょ? ウジウジしてないで、やり返したらどうなのよ?」
でも、でも、とぼくは泣き続ける。嗚咽で声がうまく出せなかった。ぼくはただ泣く事しかできない。女の子の後ろには、ぼくを指さして笑う男の子たちの姿があった。
「あいつ、今日もダメだったって!」
「そろそろ“さよなら”だね! よかったじゃん、もう頑張らなくていいんだからさ!」
「うわ、慰めてもらってるよ、まぁ――だって、そろそろさよならだし?」
ぼくは泣き続ける。この場所でぼくの地位は最低だった。先生たちから諦められて、最近では授業からも追い出されてしまった。
だけど、
「アンタたち! 今なんて言ったのよ!」
女の子が男の子たちに飛びつく。相手は三人なのに、女の子に怯む様子は全然ない。男の子たちは女の子の気迫に圧されて、いつしか半泣きで先生を呼び始めた。女の子は先生に捕まってもがむしゃらにもがいて、男の子へ噛みつこうと暴れ続ける。ぼくよりも小柄なのに、あの子は必死に生きようとしていた。小さい体を駆使して先生の腕をすり受け、再び男の子に襲いかかる。そんな彼女の姿を見てぼくは――
ズキン
頭痛とともに視界が晴れてゆく。体が浮かび上がるような感覚に合わせて、あの女の子の顔を覆っていた黒い靄が取り払われる。そしてぼくはあの子の名前も思い出した。記憶の底に眠っていた大切なものが一気に表へと溢れ出してくる感覚に、堪らず目頭が熱くなる。
「思い出した」
細く呟いたはずの言葉はやけに反響して、工場内に短く木霊した。まるでその一言が自分の運命を規定してしまうような、確かな手触りが体を巡る。どうして忘れていた。どうして思い出せなかった。絶対に忘れてはいけないこと、絶対に思い出さなきゃいけなかったこと。あの子の言葉が鮮明に蘇る。知らないことって悪いことだと思う? ――忘れていたことを再認識したことで、俺は自分の罪にようやく気が付いた。
『どうかしましたか?』
確信に限りなく近しい直感が体を突き動かす。確たる証拠はない。だけどそんなこと今はどうだっていい。本人に確かめてみればいいんだ。あの子はどうして知らないことが罪かどうか、わざわざ俺に聞いてきた? 気付いていたのか、はたまた無意識だったのか。そして俺の記憶が本当に正しいのか、それはあの子だけが知っている。
『とにかく、相生葵は失楽園の一件で逃げ延びた孤児の可能性があります。遠別の診療所のカルテと施設から押収した孤児の検査資料を照合した結果、相生葵は施設から逃げ出した孤児と限りなく近しい生体情報を持っていることがわかりました。それに彼女には記憶喪失の件もあります。今までは偶然だと考えていましたが、ここまで来てしまうと相生葵の記憶喪失が失楽園の事件にも何らかの関係があったのではないか、とも考えられる。泥喰らいの遺骸と回収班の行方が分からない今、魔女の危険性がある相生葵の確保は最優先事項です。状況は極めて切迫しています。私も今から現地へ向かい指揮を取ります。あなたには廃工場で待機を――』
「俺が行く」
予想外の発言だったのか、Mからの返答には多少の間があった。
『――は? 何を言って、』
「回収班は新しい魔女と交戦して消滅したとも考えられる。つまり瑞希と同じ暴走に近い状態かもしれない。ならすぐに動ける俺が探すべきだ」
『冗談はよしなさい! 今から向かうと言っています!』
「この大雪の中でか? 到着した頃には町がまるごと消えてるかもしれないのに?」
『これは命令です! そこで待っていなさい!』
「断る」
『明人!』
「そこまでして止めたいなら、アンタなら簡単にできるはずだろ。手元を見てみろよ」
心臓の辺りをさすりながら自嘲気味に呟く。Mは息を飲んで、そのまま押し黙った。心臓破りを起動させるための端末は、M自身も保険のために肌身離さず携帯する決まりだ。端末の向こう側で何を考えているんだろう。次の瞬間には心臓が爆発して、この場に死んでしまうかもしれない。そんなことを思いながら、だけど実際に心臓破りが起動することはなかった。
だからMは結婚できないんだ。優しさと甘さを区別できないから。
『個体番号A017――服従の宣誓を、』
努めて冷静に振る舞おうとしているみたいだけど、Mの声は小さく震えていた。俺は目を瞑って、静かに宣誓を紡いだ。
「俺は魔女じゃない。俺は人を愛し、人を守り、人に尽くす。この世にどうしたって必要な存在」
天井の裂け目から雪が舞い落ちる。はらはらと雪が降り積もる廃工場で、俺は育ての姉に決別の意思を伝えた。
「俺は絶対に、――魔女なんかじゃない」