プロローグ
雪は全てを包み隠す。過去も、罪も、なにもかも。
焦げ臭い香りが背中からぼくたちを追いかけている。ときおり赤い火の粉が視界を横切って、芝を少しずつ焦がしていた。煙を吸ったせいか頭はぐらぐらしていて、なにを考えているのか自分でもよくわからない。腕や足の感覚もあんまりなくて、だけどよろめきながら、それでもぼくは歩き続けていた。
背中には温かい重みが乗っていて、ぼくはそれをどうしても離さないよう、ぎゅっと握り締めている。指先の感覚もほとんどなくなっていたけど、ぼくの手のひらはそれをしっかりと掴んで、絶対に離さないよう繋ぎとめていた。
怒号と悲鳴、ものが焼ける音、それに乾いた破裂音がひっきりなしに響いて、それとともに一つずつ、たくさんの命が失われていく。抵抗しても逃げても、降参のために手を挙げたとしても、銃弾は一発につき一つ、ときたま二つの命を確実に吸っていくんだ。ぼくはそんな地獄から逃れようと、焼け焦げた芝生を裸足で歩いていた。
「はぁ……はぁ……」
音は鳴りやまない。女の子の悲鳴と、なにかが崩れ落ちる音。次第にその物音が近づいてきているように感じた。後ろを振り返る。そこには赤い炎で包まれた、ぼくたちの“家”があった。透き通るように白くて、太陽に晒されても全く黄ばむことのなかった外壁。それは今、放たれた炎によってあっさり崩れて、そして中に取り残された家族ごと、崩れ去ろうとしている。
不意に崩れかけの扉から女の子が一人飛び出してきた。多分ぼくの知り合いなんだろうけど、その子はもう誰なのか分からないくらい焼け焦げていて、なんで立っていられるのか不思議なくらいだった。なにかを懸命に叫ぶ女の子は、だけどその存在を近くにいた大男に気付かれてしまう。幽霊みたいに両腕を伸ばして歩く女の子に、男が抱えていた小銃を向ける。それと同時にぼくは目を逸らした。三回分の乾いた銃声のあと、どさりとなにかが崩れ落ちる音がした。
「はぁ……はぁ……」
今日の夕方まで庭だった場所を越えて森に向かう。先生は庭を出て森に入ってはいけないと毎日のように注意していた。だけどその先生はもういない。さっき頭が破裂して死んだのを、ぼくはしっかり見ていたんだ。
踵の皮が剥がれて、芝生を踏みつけるたびにずきずき痛んだ。あちこちに火傷があって、場所によっては黒く色も変わっている。それでも、ぼくは歯を食いしばって前を向く。どうしても諦められない理由が僕の背中にはあった。
「だいじょうぶ……だから……なんとか……なるよ……」
背中で気を失っている彼女に呼びかける。もちろん気を失ってるから、呼びかけたところで返事はない。多分ぼくは、彼女じゃなく自分に言い聞かせているんだ。
庭と森とを区切る古ぼけた柵が目の前にあった。ぼくは彼女を抱えたまま、時間をかけてでも落とさないように越えてゆく。なんとか柵を越えると不意に気が抜けてしまって、思わず足を滑らせてしまった。その場に顔から崩れ落ちて、転がっていた小石で頬が切れる。だけどそんなことには構わず、隣に転がってしまったあの子を覗き込む。あちこち擦りむいたり軽い火傷はあったけど、まだ息はしてる。ぽたぽたと頬を伝う血を腕で拭って、彼女をもう一度背負い直した。
まだあいつらは、ぼくたちが逃げ出したことに気付いていない。家の周りは囲まれていたけど、うまいこと目を盗んで逃げてきたから。
森に入ると、さっきまで聞こえていた、たくさんの音が少しだけ静かになる。聞こえるのはぼくの呼吸と、泥を踏みつける足音と、森の音だけ。どこか遠くで鳥が鳴いている。小動物の僅かな動きが、木の草の奥から微かに聞こえた。
胸の内に色々な感情がやってきては、隠れるように去っていく。友だちは、先生は、そして後ろに背負った女の子は……それに真っ黒な服に、またまた真っ黒な銃を抱えた見上げるくらい大きな男たち。なにが起きているのか、ぼくにはさっぱりわからなかった。だけど家から逃げなきゃいけないってことだけは、考えなくてもわかった。
「う……ん……」
咄嗟に後ろを振り返ると、彼女が顔をしかめていた。目は開いていないけど、確かに口が開いている。
「ねぇ! だいじょうぶ?! ねぇってば!」
体をいっぱいに揺すってみる。だけど彼女は軽く唸るだけで目を覚まそうとはしない。ぼくは周りを見て、あの男たちや危ない動物がいないことを確かめると、彼女をその場に下ろした。大きめの木の幹に彼女の背中をそっと寄りかける。
「ねぇ! ――、だいじょうぶ?! ――!」
ズキンと頭が痛んだ。頭の中が真っ白になりそうなくらいの痛みが、意識を奪おうとしていた。俺は必死に女の子の肩を揺すっている。長い髪の先っぽは少し焦げていて、むせるような煤の臭いがした。だけど一番不思議だったのは、その女の子の顔がどうしてか黒く塗りつぶされていたことだ。全くもって顔立ちや、それに表情すら判然としない。
肩を強く揺すっていると、不意に――の瞼がギュッと強く閉じられる。さっと手を離すと、固く閉じられていた瞼から薄っすらと力が抜けて、そうしてゆっくりと開かれてゆく。大きくて丸い瞳。どうしてか懐かしい気持ちになって、ぼくは文字通り胸を撫で下ろした。
「――、だいじょうぶ?」
彼女は先の一点に合わせていた目線を、緩やかにぼくへと向けた。寝起きと言わんばかりの柔らかい目つきに、ちょっとした場違いさを覚える。
「あきと?」
「そうだよ! よかったぁ……目を覚ましてくれて」
状況を飲み込めていない瞳がくるくる動いて、周りに木々へと向けられる。そして漂ってくる灰の臭いに気付いたのか、怯えるように身を縮ませた。
「あきと! みんなが……!」
震える――に手を重ね、大丈夫だよと握りしめる。過呼吸気味だった息が少し静まって、森の音が鮮明になる。
「どうしよう……みんな、みんなが……」
「――、大丈夫。家からは離れたから。すぐには見つからない」
「違うの、他のみんなが、みんな死んじゃう!」
「――、落ち着いて! 静かにしてないと、気付かれちゃうよ!」
頭を抱えて悲鳴をあげる――の腕を掴んで、なんとかその場に押し留めようと踏ん張る。でも口を押えることはできなくて、森に絶叫が響き渡ってしまった。鳥が飛び立って、小動物がそそくさと走り去る。そして彼らと入れ替わるように、他の“異物”が森に足を踏み入れた。
「――、静かに!」
「あきと……?」
「誰かくる」
驚いたように目を見開いた――は、両手のひらで口元を押さえた。家があった方から、いくつかの足音が聞こえる。かなり早い。ぼくは――を支えて立ち上がり、なるべく音を出さないように歩き出す。
――の目尻に溜まった涙が、ぽつぽつと雨みたいに泥へと落ちる。お互いに足取りがおぼつかないからか、生い茂ったシダにあっさり足首を掬われてしまう。よろけて膝をついた瞬間、いくつもの足音が一瞬止まった。そしてぼくたちのいる方向へ向かって、一気に迫ってくる。
「あきと……!」
「くそっ」
堪らず走り出したけど、大の大人に足の速さで勝てるわけがない。段々と足音が背中の方に迫ってくる。ぼやけた意識のなかで、涙を流しながら走る――の姿が目に入った。手足を怪我していても必死に逃げようとしている。そんな姿を見ていると、やっぱり諦めちゃいけないって思う。
「――」
「なに、あきと?!」
「先に行って」
ぼくはそう告げると、その場で足を止めた。絶望したような表情を浮かべた――が足を緩める。
「なに言ってるの? 嫌だよ! 一緒に逃げよう!」
「だめだ、このままじゃ、どっちにしろ二人とも捕まっちゃう」
「でも――っ!」
「止まるな! 行け!」
ぼくの怒号にぴくりと肩を震わせた――は、僅かに瞳を震わせると、それでも振り切るように走り出した。その後姿をぼんやり眺めて、ぼくは後ろに向き直る。すると間もなく黒ずくめの男たちが現れて、あっという間にぼくを地面へと組み伏せてしまった。
(逃げろ、逃げるんだよ……絶対に見つかっちゃだめだ)
全身の自由を奪われてゆく中で、ぼくはただそれだけを思う。唯一自由が許された両目を動かし、彼女の逃げた先を見つめる。
すると突然、視界を白いなにかがよぎった。それらは少しずつ量を増やしていって、暗闇に覆われた森を新しく照らしていく。
(雪……?)
空を見上げると、粉雪が静かに森へと降り注いでいた。その白い結晶は焼け焦げた家と、熱で火照った体を包み込んでくれるみたいだった。
ズキン
視界が歪む。俺と周りの境界線が曖昧になって、ここがどこなのか分からなくなってゆく。まただ、また……消えていく。必死にその奔流に抗おうとする。だけどそんな圧倒的な力には抗えず、ぼくはただ立ち尽くすしかない。
ズキン
いくつ失くしただろうか。なにを失ったんだろうか。気付いていないだけで、俺はもっと多くのものを手放していたのかも知れない。そしていつしか忘れたことすら悉く忘れて、俺は大切なものを見失ったまま漠然と生きなきゃいけないのか。
いやだ。
胸の鼓動が聞こえる。手放したくない、どうしても失いたくない。一つたりとも忘れてたまるか。ぼくは強く願った。
これ以上はどうか、なにも喪いたくないと。
――
『起きなさい、個体番号A017』
聞き慣れたうざったい声に顔を上げる。視界が白に染まって、そうして長らく閉ざされていた扉が開いていることに気付く。その扉のもとには一人の女性が佇んでいて、こちらをジッと見つめているようだった。だけどその背中側から差し込む白い光で、彼女表情を窺うことはできない。
「監査会議から特別許可が下りました。個体番号A017は、監督者Mの責任のもと、条件付きで禁固を一時解除します。A017には“心臓破り”がセットアップされており、有事の際には即時起動する権限を、私は常に保持しています」
固い声色にため息が漏れる。外に出してもらえるのは久方ぶりだけど、心臓破りの下りは耳にタコができるほど聞き飽きていた。
「珍しいじゃない。ついに爺さんたちのボケ始めたか?」
Mの表情はこちらからじゃ見えないけど、恐らく眉をひそめたんだろう。彼女らしい冷たいプレッシャーを受け流して、ため息のまま立ち上がる。同時に足と手首に施された金属製の拘束具が金切り声を上げた。
「あーっと……これもつけっぱで?」
「当然です」
有無を言わせぬ口調に思わず肩を竦める。Mはそんな俺を無視して、扉から一歩後ろに下がった。すると短機関銃を携えた二人の大男が部屋に入ってきて、こちらへ油断なく照準を合わせる。
「それでは、個体番号A017。出立の前に“宣誓”を」
失念してくれるかと思ったが、頭の固いMはそういう要らないことだけはよく覚えている。鼻からゆっくり息を吐いて、まっすぐ彼女を見据える。
「あなたは“魔女”です。あなたは人を害し、人を傷つけ、人を殺す。この世にあってはならない存在」
俺はこの言葉を、そして今から言うセリフを、今まで何度繰り返してきたんだろう。
「――そうだ、俺は魔女だ。人を憎み、人を傷つけ、人を殺す。この世にあってはならない存在」
ならどうして俺を殺さない? Mは無表情のまま頷くと、くるりと踵を返した。大男の一人が俺の背後に回って、銃口で背中を小突いてくる。もう一人は前を固めているから、逃げようなんてしたら一瞬で蜂の巣にされてしまうだろう。
「いけ」
大男の指示に従い、ゆっくりと歩き出す。だけど俺は聞こえないくらいの小声で、もう一つの宣誓を呟いた。
(……俺は魔女じゃない。俺は人を愛し、人を守り、人に尽くす。この世にどうしたって必要な存在)
そうだ――いや、そうじゃなきゃいけない。でなければ俺は、どうしてここまで生きてきたのか、わからないじゃないか。
ズキン
強烈な頭痛が走った。視界が少しばかり眩むほどの痛みだったけど、足を止めるわけにもいかない。前後の大男に勘付かれないよう、なんとか歩くペースを維持する。チラッと背後を窺ってみるが、奴が俺の変調に気付いた様子はなかった。
ホッと胸を撫で下ろして顔を戻す。そのまま指示通り出口へと進んでいくも、どうしてか胸の内にはモヤモヤした感覚が残っていた。その小さな違和感について少しばかり首を捻っていると、ようやくその正体に気が付いた。
そういえば俺はどうして、ここまで必死に生きてきたんだっけ?