第四話『不明』
十二月になる前にどうにか投稿できました。
次回は十二月中には出す予定です。
ただしまだ見直しなどできていないのでそれもできるだけ並行してやります。
ちなみに今回、絵の掲載をします。
お楽しみに。
「どうしたってんだよ……?」
流石は武装警備員だ、あるいは相手が俺だからなのか特に焦りも見せず、傘を持ったまま手のひらを見せるよう上げた荒魂命は、雨風に吹かれながら銃口を下げた俺に対し眉を困らせて言い、何も答えない俺に慎重に階段を上ってくる。
俺はそこで漸く正気に戻り、押し寄せる安堵の波に片膝を踊り場へついた。
「! おいおい!」倒れるようにでも見えたのか、階段下にいた彼女は俺を支えようと乱暴に駆け上がってくる。
一瞬でそこまで近づいてきた命の顔、そこに先程まで銃口を向けてしまったことについて、銃を持つ者としてあまりに軽率だった気がして「いや、大丈夫だ……すまない」と答えた。
もっと相手を確認してから行うべき行動に、自責の念がじっとりとした汗と共に噴き出てくる。
「慣れてる、ってまあ怖くないわけじゃないけどな……にしたって本当にどうしたんだよ」
俺の肩を支えるよう持ってくれた彼女に促され、立ち上がる。
長いガンケースも持っているのに、申し訳ない限りだ。と、不意に命の足が立ち止まり、何事かと見れば、彼女の視線が開け放たれたままの玄関の内側へ注がれている。
その視線を辿って見れば、どうやら立ち上がって膝の汚れを払うアリスを見ているようで「お、おま、おんな……」壊れたラジカセのような音を喉奥から鳴らし、時が止まったかの如く固まっている。
何か酷い誤解を生みそうな気がしたので、俺は一応伝えておく。
「彼女は今の俺の雇い主だ。名前は、田中アリス」
「!」
命の雰囲気が変わった。鋭い殺気を感じる。
当たり前だ、田中アリスは……自身の姉を間接的に殺した者でもある。
――俺をソファに座らせた命は、担いでいた長いガンケースを俺の対面であるソファの傍らに置いて、鷹のような目で問いたださんと腕を組み、
「何よりも、そこの女子高生らしき女の子も含めて、一体何があったのかを教えてもらおおうか」
そう言った。俺は一瞬自分自身でどうするべきかを考えてしまうが、ここは雇い主であるアリスに指示を仰ぐのが正解だと思い直し、視線をそちらに向ける。すると彼女は一瞬の思考を挟むこともなく頷く。
「荒魂和懇氏の妹……関係者だから、全部話していい。私はとりあえず鈴さんを落ち着かせる」
彼女の言葉に寝室に続く扉を見れば、顔を覗かせていた鈴の顔や覗く肩は、何が起きたのか理解できずとも危険であったことを脳が理解したのだろう、微かに震えていた。
俺はそれに一度頷き、改めて命を見上げる。
「……仕事中でな、とりあえず座ってくれ」
命が座るのを見届け、そして一から全てを話し始めた。
田中アリスが俺を探していたこと、その理由、高村さんの失踪、娘である鈴への襲撃、そして今現在、二年前に和懇を殺し俺を意識不明の重体にさせた男との邂逅、ダミー手榴弾で逃げられたこと、ここで起きた戦闘など事細かに。
今し方受けたあの男の蹴りについては、既に痛みは殆どなく、痣程度のものであることも伝え、無事を強調しておく。あれは痛みもあるがどちらかと言えば、肺への衝撃の方が強く、息が吸い辛かった。
強がりではあるけれど、二年前から酷く心配をかけているのだ、これくらいの強がりは大丈夫なはず。
「あの男がいなくなってすぐお前の足音が聞こえてきたんで、銃を構えたんだ。命、お前だと気づいて力が抜けた」
訝しげな視線を命は向けてくるが、恐らく強がりが入っていることなのはお見通しだ。だがここは突き通させてもらう。
「今日一日は警戒し続けなきゃいかん。あの男の目的が俺にはわからなかったからな」
俺が話題を変えるような話をすると、命の訝しげな視線も無くなる。代わりにソファの背凭れへ背を預けたと思うとまあまあな音量で、
「にしてもだ恭介、高村のおっちゃんが失踪ってのは……」
そう言うもんだから俺は口元に人差し指を押し当てて小声で伝える。
「大きな声で言うな。鈴には内緒にしてる」
「……言ってないのかよ」
「あぁ……だけど、まあ大体高村さんについてはわかってる。それよりも、男について何も思わないのか?」
代わりにデリカシーの無い発言だったろうが、それでも聞く欲を抑えきれなかった質問である。俺の先輩であり、上司であり、憧れの人、そんな俺ですらこれだけの復讐の炎を燃やしているのに、彼女はアリスの名前を聞いて睨んだだけだった。
命にとって姉である和懇は、俺以上の存在なのは確かなのだ。両親を亡くしてからの唯一の肉親であり、育ててくれた親のような存在でもあり、他人の俺なんかよりも強い憧憬を持ち、その背中を追って自衛官にまでなったのだ。
そんな和懇を、二年前殺したあの男を彼女はどうとも思っていないようにすら見えてしまい、問いかけた。欲も確かにあるが不思議だった訳だ。
「思わねぇわけねぇだろ。殺してやりてぇぐらいには恨んでる――でもな、姉さんに関しては姉さんが望んだことなんだよ。やりたくて、結果死んだ。そこに親の次に近しいだけの私が、言えることなんてねぇ」
それはその通りだった。肉親故の言葉とも言えてしまうが、和懇がこの武装警備員という仕事を選んだ理由は、恐らく俺と似たようなもの。
俺を誘ったのも自衛官という、入隊したはいいが直接人を守るにはあまりに遠い仕事に、歯痒い思いを抱いていたのを見透かされていたから……そもそも信念が無ければこの仕事を選ばないだろう。
反対する者が多いながらも十数年前のテロ事件を発端に、一般人に近い位置に存在しながら帯銃し、直接守ることができる武装警備員など。
しかも当時、同時に発足した大手と言える警備会社からの誘いを断って、自身が企業した小さな警備会社でやるなど、何か考えがあってのこと。もちろん、彼女はそれについて話すようなことはなかった。
「そうか……」
ただの憧れと好意しかなかった俺が、あの男を激しく恨むのはお門違いだったのだろうか? それだけ彼女の言葉には説得力というか、俺の復讐心を水面に浮かぶ泡沫としてしまう破壊力があった。
俺は――考える。点きっぱなしのエアコンから吐き出される風の肌寒さを忘れ、自問し続ける。やがて導かれた答えは、変わらない。
俺は和懇のことが好きだった。それは変わらないのだ。
それを失って恨まない人間など、ましてや眼前で殺されて何も思わない人間などいるか? いいやいないだろう。
「それで?」と今度は小声で命が続ける。
「高村のおっちゃんのことさ、わかってるってのは?」
「あぁそれについては、まだ明確に話し合ってないからわからないが、俺と彼女……アリスとの見解は大体同じだと思う」
俺も寝室にいる鈴に聞こえないよう声量に気をつけながら、昨日の件である病院での襲撃について補足しつつ、頭の中で整理していく。
まず明確なのは高村さんの失踪直前に、娘である鈴の救出を遠回しに要請してきたこと。ここで明らかになったのは警察官という立場を利用できない状況に高村さんが陥っている可能性が高いこと。
しかも、これはイコール今回の襲撃者と関係してる証明にもなり得るわけで、違うとすれば失踪する意味も嘘を吐いて自身の娘を助け出させる必要もない。
そもアリスがここだと知っているのは警察組織の一部と、俺との仲介役になった高村さんしかいないはずで――要は、事件に巻き込まれ犯罪組織に加担する他なくなった高村さんが、どうにか最悪の状況を打破しようと俺達に救援を求めたのが、病院での出来事となる。
そして先程の襲撃で二年前と同じ連中であることは確定しており、そのこと以上の何かしらで顔見知りであるアリスがこの件に関わってることに気づいたあの男は、鈴が俺達に保護されてるとも知らずにこれ以上関わらないよう忠告、襲撃してきた。
と、そこまで伝えると後は簡単で、腕を組み難しい顔をした命は、
「……ってことは、警察はそう簡単に頼れねぇな」
俺達の置かれた現状を言葉にしてくれる。
「二年前と同じ連中だと考えれば余計そうだ。奴ら、警察に内通者でもいるのか情報が筒抜けだ、だからこそ高村さんも頼れないんだろう」
余白の無い思考の最後に過るアリスの存在、そうだ、便宜上武装警備員として雇われている俺は、彼女の判断がなければここでただ座ることしかできないのだ。
復讐心はあれど左脇にしまい込まれた彼女の拳銃を使い、身勝手に動くことは決してできない――そんなことを考えていると、彼女が来た。
「アリス、どうするつもりだ」
鈴を落ち着かせることはできたのだろう、スマホを片手に寝室から出てきたアリスへ声をかけるが、
「とりあえず待機」
彼女はこちらを一瞥もせずに玄関まで歩いていき、ドアノブへ手をかけ――たところで俺は立ち上がった。
「どこに行くんだ? 出かけるなら俺も……」
待機と言いながら自分だけどこかに行こうとするアリスを呼び止める、彼女はドアノブへ手をかけたまま立ち止まり、髪先から白色が浸食してるような黒髪を背中に流したまま、恐らく何かを考えている。
俺はそれに一抹の不安を覚え、一歩踏み出すとその気配を感じ取ったアリスは右手のスマホを肩越しに見せてくる。
「……連絡するだけ」
寝室もこのリビングも使われていることもあって外に出て連絡をするつもりなのだろう。それでも油のようにその不安は拭いきれないが、彼女がそう言っているのならそう信じる他なく、俺はソファに座り直した。
「わかった、追撃が無い以上、もう大丈夫だろうができるだけ早く戻ってこい」
あまり好ましくは無い。それでもアリス自身が電話の内容を聞かれたくないようなので、俺はそれだけ伝えておく。
「ええ」
アリスは短く返事を返してくれるが、結局一度もこちらを見ずに玄関の外へ出てしまった。後に響くのは鉄扉の錆びた蝶番が限界を迎えつつある音だけ。
暫しの沈黙の後、アリスについての思考はとりあえずやめておくことにしておき、気になっていた命がここに来た理由について聞くことにする。
「話は変わるが、お前は何をしにきたんだ」
俺と同じくアリスの背中を見ていた命は、俺の問いかけに視線をこちらに向けて、彼女自身も半ば忘れかけていたのか思い出したように言った。
「ん、いや大した用事じゃねぇよ? 仕事が終わったんで二日三日くらい前に置いてった弁当箱を取りにきたんだ」
ああ、と口から声が出た。朝起きたらメモと一緒に置かれていたやつだ。食べ終えて洗うまではしたものの、その日の夕方くらいにアリスが来たものだからすっかり頭の中から抜けていた。
思い出す弁当の中身、それはどれも手作りで俺の好物や、健康に気を遣ったものばかり、相談はしていなかったが俺が和懇を亡くして以来自炊をしていないことを見透かしたもの、だけれど彼女は俺と違って働いていた。俺はそれがどうしようもなく申し訳なく、今一度頭を下げる。
「……今回も手作りだったろ、いつも忙しいのにすまない」
すると命は大きな溜息を吐き、腕を組んだまま呆れたように首を振り「憔悴してる人間、放っておけるわけねぇ」
姉を失っているのにも関わらず聞かされる彼女らしい返答は、荒魂命という人物を良く映していた。確かに言葉は男の俺よりも乱暴で、時折誤解されることもあるだろうが、姉である和懇のように強く折れない信念がある。
そんな命だが組んでいた足を下ろし、両手をその膝の上に乗せ、背筋もピンと伸ばすと普段男勝りな感じとは少し違う、頬をどことなく桜色に染めながらも誤って地雷原に入り込んでしまったような神妙な面持ちで、続ける。
「こ、今回のあ、あじは、どう、だった」
……初めてではないその問いかけ、恒例となりつつあるのだが、俺は素直に答えさせてもらう。
「うまかった。俺の好きなやつばかりで、本当にうまかった」
「ほ、ほんとうか?」
「本当だ」
気が気でない、落ち着かないといった様子でそわそわする命が僅かに身を乗り出して再度問いかけてきた。俺はそれにもう一度頷いて答えた。
……常識的な話、俺のことを心配して作ってくれまでしているのに、それをマズイなどと言えるわけもない。もう一度言うがこれは常識的な話であって事実じゃない。
彼女の手料理は本当に美味しかったし、俺の好物ばかりあったのが事実だ。ただ気になったのは、俺が好きなものなぞ自衛官時代ですら含めこれまで話したこともなかったのに、あれだけあったのは少しだけ気になる。
「そ、そうか……そうか」
俺の言葉を噛み締めるよう口にする命、目線は下気味で俺の方は既に向いていない。そんな彼女の名前を呼び、問うた。
「命、俺の好物、知ってたのか?」
「え、あー……」
左右へ揺れる黒い瞳、それは言うか言うまいかの狭間に揺れてるようで彼女の右手が額に触れた時、ピタリと俺を見た。
「ほ、ほら、姉さんから昔聞いたことあったから、さ」
そう言われ納得する。確かに和懇は仕事中でも暇があれば俺と会話していた。世間話から私生活の小さな下らないことまでなんでも話の種にしていた。
姉妹で一緒に住んでいたという命が俺の情報を知っていてもおかしくはない。
けれど、視界に映る命の様子に変化があった。ほんの小さな変化、気づかなくとも仕方のないそれは、表情だ。
当たり前ながら日が暮れ夜の訪れが一日の終わりであることに、一握り寂しさを抱く感情の機微が表に出たもので、恐らく和懇とのことを思い出したのだと思うが。
「……どうした?」
「別に、なんでも……それより遅くねぇか」
隠す必要もない感情をそう言って命は玄関へ視線を移らせた。その動きに俺は瞬時にアリスのことだと理解し、スマホの時計を見る。
彼女が出ていってから既に十分ほど経っている。長電話をしているのはここ数日確かに何度か見てきたが、一人で外にこれほど長く出られても困ってしまう。
俺は命へ様子を見てくると一言伝えて立ち上がり、玄関扉まで近づいた、そこで一度彼女の気配が扉近くにないかを確認するが、気配はもちろん話声も聞こえてこない。
少なくとも二階の踊り場にいないことは確定した、ならばどこにいったかドアノブを回し半分外に出ながら下へも上へも続く階段を見てみるが、人の気配はなかった。それから耳を澄まして電話をしているはずのアリスの声が聞こえるか集中しても……何も聞こえない。
降り続く雨音があるだけだ。
「嘘だろ……!?」
体の感情の奥底と外とを繋ぐ螺旋階段を駆け上がる警鐘は、俺に一体何が起きたのかを理解させた。
瞬時にこのオフィスビルの構造が頭の中で浮かび上がり、二階より上にアリスが上った可能性を掻き消した。理由は難しくない、この外階段は三階と屋上へ繋がってはいるものの三階はともかく屋上へはもう上がれないほど朽ちている。
それがここの家賃が極端に安い理由の大部分でもあるのだが……三階の踊り場にいないとすれば後は下しかないのだが、何をどう見てもアリスの気配は無い。
――しくじった。
仕方ないこと、とは言えない。外に出るのならどんなことを言われてもアリスの傍を離れるべきじゃなかった。
武装警備員として三流どころか素人の方がまだマシなレベル、煙のように消えてしまったアリスに思わず頭を抱えかけるが、左肩にぽんと手を置かれ振り返れば、
「決めつける前にまず気を落ち着けろ恭介」
酷く狼狽える俺の様子を見て、何が起きたか大体察したらしい命で、それは俺達に今し方何があったかをまるで無視した言葉だった。
思わずそのやりきれない命の言葉に噴き上がるような怒りが湧くが、それこそ今は振り切らなければ。
命のことを無視し、急いで階段を降りた俺は周囲を見回して彼女の姿がないかを確認する……が、もちろんというのはあまり好ましくないが、既にアリスの姿は見えない。
肩を濡らすには十分な雨風の中、溢れる動揺に浮かぶ思考が示すのは、通り道だ。この小さなオフィスビルの一階は丸ごとくり抜かれており、車庫として使えるようになっている。事実防弾車もそこに停めているのだが、同時に二階や三階に行くためには外階段しかないのだ。
そしてその外階段はオフィスビルの裏側にあり、唯一そこへ行くためには隣接する両隣のビルとビルの隙間か、車庫としてくり抜かれた一階部分を通過するのが通常。
俺やアリス、命もそうだがわざわざ大人一人が通れるか通れないか程度の隙間を通るわけがない。隣接したビルの室外機や排水ホースなんかも敷かれた狭苦しい道を通りたいと思う人間はそうそうはいないのだ。
アリスが外に出て行ってから十五分弱、恐らく第三者と彼女が通ったであろう雨は凌げる車庫ならば何かしらの痕跡があるはず、そう至り左腕で申し訳程度に雨避けを作り小走りで向かった車庫は、静かなものだった。
焦っていた感情は吹き飛び、ただひたすらに疑問だけを作っていく。
しゃがみ込み手に触れる疑問という靴底をくっきりと残した泥の塊、一つはまだ水っぽくついさっき通ったもの、それこそ十五分弱前に。
他にも二種類、既に乾ききっているが泥で形作られた足跡はあったが、それは違う。
「恭介!」
慌ただしく階段を降りる音、命の声。右手の泥を払い立ち上がった俺は、道路を恨めしく睨みながら振り返る。
「これあのアリスとかいうやつのじゃねぇか!?」
一瞬、命は階段を降りたところで俺を探すように辺りを見回すが「ここだ」と声をかけると彼女もまた意味を為さない雨よけを左腕で作り、こちらに走ってくる。良く見れば右手にはメモ帳から取ったであろう小さな紙が持たれていて、それが彼女の言う物なのだろう。
車庫に入ってきた彼女は、既に落ち着いていた俺の様子に少し驚きながら右手のそれを差し出しくれ「なんか無いか探してみたんだけどな、これがあった」と。
「これで、仕事は終わり……?」
紙に書かれた一文を口にし眉を顰める。この通り契約を終了させると言った文章が書かれていた。ご丁寧に最後、フルネームの田中アリスで締められてもいる。
……感情を困惑が埋め尽くす。海馬にバチバチと静電気が走った気がした。視界も同時に明滅する。
意味が分からなかった。雇っている側は向こうだ、契約を続行するもしないもアリス次第だ。けれど、契約解除を言い渡されるようなことをした覚えがない。
そして次に頭の中を支配するのは報酬だ。金のみだったら流すこともできたろうが、小さな紙に書かれた続きを読み進めると、
「荒魂和懇を殺した男は、傾国の旅団の患部が一人……通称、アルファ」
二年前、そして数十分前、二度の襲撃をしてきた男の情報、喉から手が出るほど欲しかった情報だが、俺の言葉を聞いて命はピンと来たらしく、
「……有名な傭兵かよ」
そう舌打ち混じりに呟いた。
「知ってるのか?」
「幹部ってのは知らねぇけど、海外じゃ雇われテロリストって言われてるイカれた奴らだよ。金さえ払えばどんな危ないことでもしてくれるらしい」
「……詳しいな」
「会社で要人警護なんかする時、直近の情報と概要を知らされるんだよ。まあ……あいつら日本みたいな銃規制が強い国じゃ重火器を持ち込んだ大事はできねぇんだろう。だからか日本じゃ十数年前の武装テロ以来、身体こそ神体の会の方が一般市民は警戒してるからな」
嫌な記憶が蘇り、どうにか振り払って大した答えは期待できないとわかった上で、紙に書かれたとある名前を指差して気になったことを聞いてみる。
「聞きたいんだが、このアルファっていうのは……」
見当もつかない、と肩を竦ませた彼女が言った。
「さあ……国際刑事警察機構だとか公安警察なんかが掴んでる最新情報は、当たり前だが末端には届かねぇ。そもそも私らは警官ですらねぇから当然なんだが……ん?」
そこで彼女は自身が口にした言葉の矛盾に気づいたのか、深く考えこむよう顎に手を当てた。そうだ、俺が言いたいことが伝わったようだ。
「なんで、あのアリスとかいう奴、幹部のこと知ってるんだ……?」
――――田中アリス、命の視点から見ればただ混乱するに過ぎない断片的な情報ばかり、けれど俺は違う。俺はあのアルファと呼ばれた男とアリスとのやり取りを耳にしている。
あの場では何も理解できなかった単語の欠片達が、ジグソーパズルの如くピタリ、ピタリとはまっていく。それどころか二年前の襲撃についても粗方の予想がついた……だがわからないこともある。
それを聞くためには――――
「すまない命、頼みごとがある」
黙ったまま情報の整理をしていた命の肩を鷲掴む、唐突なことに「うぇっ?」と変な声を上げ体を跳ねさせた彼女の瞳を覗き込み、懇願しながら言う。
「鈴のことを頼みたい」
「た、高村さんの娘のことか? ど、どういう……」そう言って不思議そうにする彼女の言葉を遮って「アリスのところに行く。行かなきゃならん」と答える。
命は最初こそ俺の言葉に驚きと汲めない意図に怪訝な表情を浮かべるが、数秒もせずに力んでいた和懇に似た顔を緩ませ苦笑する。
「……姉さんのことなら、もういいんだぞ」
そして自身が姉妹であることを利用した赦しの言葉を吐く。
空からは想像するまでもない清流を濁流へと侵す雨足、俺は一呼吸置く。
「俺は、和懇のためなんて言わん、これは、俺のためなんだ」
彼女のためであると、そんな逃げるようなことは言わない。この復讐は誰のためでもない、俺だけのための復讐なのだ。
「まあ先輩も望んでないかもしれん。だけどな、俺自身がそれを赦さないんだ。俺の力量不足もあれば運だってあるとも、あの女のせいだとも言える」
「……そっか」
俺の返答に命は肩を落とし落胆する、視線も下を向き表情も悲しく儚げになる。そんな彼女に申し訳なくて、俺は防弾車へと正対し運転席へ乗り込んだ。
「ああ、いつも心配かけてすまん……それと、もう一つ頼みたいことがある」
エンジンをかけたところで窓を開け、俺のことを見送るように立ち尽くしていた命へ最後にとあることを頼む。
この様子じゃ恐らくアリスは姿を眩ませ、このままどこかへ行ってしまう。だがそうはさせない。させてたまるか、あの男……アルファへ接触するには彼女の傍が一番だ。
傘もそのままの私物が散乱した寝室に、連れ戻さなきゃならない。
田中アリス、彼女が契約を解除しても行く場所には心当たりがあった。
いや、心当たりなどと大それたことを言うが、実のところ、ただの推測でしかない。武装警備員と言っても彼女の行動全てを把握している訳ではないのだ。本来ならある程度の予定は聞かされるものではあるが、彼女は話さなかったしそれが得策だろうと俺も聞かなかった。
けれど彼女が日本に来た目的というのはあるはずで、しかしここ数日、俺は当然彼女は恐らくこんな大事になるとは思っておらず、その当初の目的をすっかり忘れていたと俺は考える。
そうならば俺が考えられる可能性は一つだけ……それを確かめるためここへ向かうと踏んだ、ある霊園の駐車場……そこは十数年前の事件、武装テロが行われたテレビ局から程近くにあった。
そんな俺は祈りを捧げに来たわけでも、霊園に用があるわけでもない、だから必要もないのに慎ましく駐車場の隅にバックで駐車できたことをサイドミラーで確認し、後部座席へ身を捻って振り返る。
そこには命に頼んで持ってきてもらったアリスの私物があった。まあ契約した初日の初仕事時に買った物ばかりだが、その中から傘を手を伸ばし取り、緊張でせり上がる息を呑み込みドアを開く。同時に濡れないよう、俺は俺で自分の真っ黒な洋傘を差した。
雨粒を弾く小気味の良い音が蝙蝠の羽根のように張られた布の内側で鳴り響き、手に感触として伝わってくる。
微かに白む視界の中、車の鍵をかちりと閉め地面を飛び跳ね踊り狂う雨粒を蹴り上げながら、鎮魂碑がある場所へ向かった。
俺の身長よりもやや低い墓石、高い墓石、古ぼけたもの、真新しいもの、雨に濡れた玉砂利を踏み締めて掻き分けるように進んでいく。
そして、墓と卒塔婆の森を抜けた先、一人の人物へ視線が留まった。
――――その人物は夏とは言え夏だからこそか、厚い雲に覆われ太陽の熱を懐かしむような冷夏の雨だと言うのに、視界を白むほどの雨に傘を差さず佇んでいる。
見たことのある特徴的な白色が毛先から浸食してるような長い黒髪、この雨の中ながら女物のスーツを身に纏った後ろ姿。
玉砂利を転がしながら近づくと、どうやら彼女は黙祷をしているようでそれほど新しくも古くもない鎮魂碑と大きく書かれた石碑へ手を合わせている途中であった。
やがて彼女は俺の気配に気づき、体が冷えるのも厭わない様子で踵を返す。一体どこへ向かおうとしているのか予想もつかないが、
「……すみません」
雨水が目に入るのを嫌ったアリスは、下を向き手で目の上へ笠を作り、ぶつかりそうになった俺へ一言そう言った。
そうして俺と擦れ違う形で通り過ぎようとしたアリスへ、俺は手に持っていた彼女の傘を開いて差してやる。
立ち止まる足、一瞬思考を挟む間、導いた答えを確かめるように田中アリスは振り向いた。
「な、んで……」
予想外と予想通りを掻き混ぜた色に、目は大きく開かれている。
「納得がいかなかった、たったそれだけだ」
彼女のガラス玉のような瞳を見つめて答えてやる。一方的な契約解除など、許されるとて俺自身は納得していない。別の思惑があるとしてもその理由を聞くまでは引き下がれない。
「――――いえ、契約は解除させていただきます」
次の瞬間、顔を出した本音は引っ込み全てを押し殺す鉄仮面が顔を覆っていた、まるで出会った時を彷彿させる他人行儀な口調と差し出した傘を無視してその場を立ち去ろうとする。
「せめて理由は教えてくれ、俺だってそう簡単に引き下がれない理由ができた。お前にはわかるだろ?」
彼女のスーツから下着まで、既に多分に水を含んだスリットが特徴的で腰から臀部の形をくっきりと見せるスカートから滴った雨水が、歩く度に見え隠れする僅かな太腿と、彼女の膝窩をなぞるように落ちていく。
それはアリスが俺の問いかけに立ち止まっても尚、女性らしい綺麗な筋肉のついた脹脛の膨らみを更に濡らし続けている。
「……贖罪は終わった。他に理由はない、それだけです」
背中で答える彼女に俺は更に問う。
「なにから逃げている?」
「逃げる? 私が?」
図星なのだろうか怒気を孕んだ言葉、髪の水気を払うが如く振り返ったアリスの顔は、今まで一度も感情的でなかったのに見てわかるほどにイラついていた。
「私に護衛など必要ないと最初に言ったでしょう。貴方は十分に働いてくれました、なので約束通りの報酬と、また別途金銭的な報酬も渡します。それで終わりでしょう」
怒りを抑えながら何が気に食わないのか、そう言わんばかりにこの静かな霊園に響くような声で言いのける。
だが、違う。
「あの報酬に不満があるんじゃない」
「じゃあ一体――」
「真実だ。お前が隠していることが知りたい……なぜ二年前、襲われるとわかっていて護衛が俺と和懇二人だけだったんだ?」
顔を俯かせたアリスは、無言のまま唇を噛み締め垂れた両手に力を入れたようだった。
……俺の推測に過ぎないが、あの男、アルファの二度目の襲撃時に交わされていた会話は二年より以前から、この二人に因縁があることを指している。
そしてアリスがあの男を追いかけているのだとすれば、逆に考えれば奴らにとってアリスを始末する理由もある。しかも国際的なテロ組織となれば物資も人も潤沢、安全と謳われる日本でも彼女を消す準備は容易だと考えれる。
そこから導かれる答えは、彼女は……田中アリスは自身を餌にしたのではないか、そんな疑問だった……しかも、彼女の言う贖罪はその結果、作戦は失敗しただ巻き込まれ死んだ和懇を弔うためのもの。
俺は更に続ける。
「前回も今回も、その拳銃を持ってるのがなによりの証拠だ。俺を再度指名したのも奴の襲撃をやりやすくするため……違うか?」
確信――――ではなかった。全て証拠の無い推測、推論だけの答え。
和懇を亡くしたこと、もうとっくに喪失感に埋まり切ったと思っていたが、思い込みだったのかもしれない、口をつく言葉は冷静になれないものばかり。
推測が正しければ俺はアリスを責めれただろう。だがただの予測や予想程度のもので俺の語気は強くなっている。
冷静になれない俺を、やっと喋りだした彼女の言葉が止めた。
「この銃は私を守ってくれたとある人……今では誰かもわからないけど、この石碑のどこかに名前を刻まれた警官が使っていた物……それと同じ型なだけ。それに二年前言ったはずです。許可は取ってあると」
悲しげに微笑んだアリスの右手が自身の左胸を触れ、細められた目は鎮魂碑へと流された。
辻褄は合っている。二年前のあの夏の日向かうはずだったこの場所、あの武装テロ事件が起きたのも確かに夏の時期。
すると突然、俺のこれまでの冷静でない思考を否定するようアリスが首を横に振って言った。
「悪くない考え、ね。でも穴だらけだ。あんた……いえ、あなたが怒るのは当然、全てが偶然でなく仕組まれたと考えるのも当然」
「……何が言いたい」
切望するような言葉が続き、
「全て誤算です、何もかも全てが……あなた達二人を巻き込むつもりなんかなかった」
今度は俺が目を細めた。
「私が餌だとして、傾国の旅団の幹部であるアルファを前に例え日本国内で武装に規制がかけれるとして、二度も相対し生き延びたあなたならわかるはず、二人の護衛など足りない、と」
「……それが?」
――――一見結びつかない言葉、だが足りないのは事実だった。あの男一人でどれだけ過小評価しても分隊以上の力はあっただろう。
「餌であれば優秀とは言え、ただの人間でしかないあなた達を巻き込んで死なせて、その罪を贖うなんてあまりに非効率的だし、そんな人間が他人を巻き込むと思う? そもそもの話、高村鈴の襲撃はどうやって説明するの?」
雨に濡れながら続ける。
「それにもしあの病院でのことも組み込まれた計画だとして、私はなぜあの時あなたに撃てと言った? あそこで捕まえずに帰す方がアルファ出現の確率が高い――事実、奴は来た」
「俺たちだけなのは油断するためだろう、病院でのことは……」
絞り出そうとするが、先の言葉に、詰まる。
思い出される一時間、二時間ほど前のこと、アルファ、あいつが言っていたのは忠告であった。邪魔をするな、と。
「あの男を追い詰めるのには私一人だけで十分……二年前、あなた達二人が護衛としてついたのは、久しぶりの休日を使って実家とこの石碑へ挨拶をしに帰国する旨を伝えたら、日本政府が護衛をつけろとうるさかった、たったそれだけ」
彼女は溜息を吐く。
「……それがまさか、日本の警察内部に裏切り者がいるとはね」
大仰に肩を竦ませ首を振るアリスは、恐らくあの襲撃時のことを思い出している様子。まるでそれが全ての元凶とも言わんばかりで、俺は聞き返してしまう。
「今回のように情報が筒抜けだったと言いたいのか? 高村さんのせいで……」
「半分は正解、半分は外れ。前回は高村さんではない誰か、二年前に私の目の前でそんなやりとりをしていたからね」
目の前でやり取り? 考えられるシチュエーションは二年前の時、俺が気を失った後の話だろう。
だが全て信じていいのだろうか? 確かに鈴のことは説明がつかない、がそれは……
「お前の言う言葉が全て真実だとして、鈴のことはどう説明する」
彼女の言う言葉であってもそうだった。あのやばい連中がただの女子高生を襲う理由については同じく説明されていない。
けれど、俺の問いにアリスは一瞬の迷いもなく、事もなげに答えてしまう。
「私にとってもそれが一番の謎だ」
降り続ける雨のように俺も考える。途方もない時間、雨樋から落ちる水滴が石を穿とうとするほどの時が、経った気がした。そしてそれは、熱を冷ますのに十分だった。
眼前の彼女は、雨に打たれ続けるのにげんなりした口調で何かを言いかける、が俺がそれを遮った。同時に一歩進み、彼女の体を傘の庇護下に置く。
「最後に一つ聞きたい。お前は本当に、和懇のことを覚えていたのか?」
二度と顔を見たくないとすら思っていたのに、二年も前のことを覚えていた田中アリスに、あの夏の雨の匂いと夕空を衝く夏雲が寂しい黄昏、俺は心を動かされた。
今や風も吹けば雨足は強まるばかり、俺は……もう一度問うた。
彼女は、
「……嘘は吐かない。忘れるわけがない、私のために死んだ人たちを」
いつか聞いた和懇以外を示す接尾辞を使い、そう言った。
その執念にも似た黒い瞳に紅を滲ませて。
「理解してくれたのなら……」続けて帰れとでも言おうとしたアリスの言葉をまた遮った俺は「武装警備員、続行させてもらおう」とまるで彼女の意に反したことを口にする。
何を言い出すんだこいつ、という表情を浮かべたアリスは、
「な、なんでそうなるんだ!」
困惑の中に怒りを湧き上がらせて言うものの、当然だろう、と得意げな顔をして答えてやる。
「お前の話が本当かどうか、確かめなきゃならん。だから俺はついていくぞ、無理矢理にでもな……なんだったらお前がいなかろうが俺はあの男に近づく覚悟でいる」
「は、はぁ?」
「当たり前だろ、和懇の……愛しい人を殺されたのだから」
――――かつて、いや二年前と言っておこう。
腕を撃ち抜かれ、満身創痍となった和懇の言葉で優先順位を迫られた時、アリスは俺ですら分からなかったその感情を一瞬で見抜き、そんな言葉を使って見捨てるなと言った。
その結果があれなわけだが――――だからと言って簡単に諦められるわけがないのだ。やり返さなければ、この感情は……雨に濡れたとて冷えることも鎮まることもできず、一生燃え続ける。
俺の瞳は、彼女のように執念に染まっているだろうか、微かな動揺に揺れるアリスの目はじっと俺を見つめ続け、やがて何かを考える素振りを見せる。
暫しして、アリスは観念したように息を吐いた。
「……いいわ、巻き込んだのは私だし、一人で辿り着いて死なれても困る」
俺のほとんど脅しの言葉でしかないそれは、どうやら功を奏したらしい。
「ほら、傘、受け取れ」
改めて俺が差していた彼女のビニル傘を差し出し、受け取ってくれるのを見届けた。若干彼女の表情は不服そうだが、そのまま体を百八十度ターンさせ駐車場方面を見据えたアリスへ、声をかけておく。
「鎮魂碑は、もういいのか」
「ええ、十分」
ちょいと振り向いた彼女の顔は満足そうで、心の内で蛇足だった、と呟いた。
既に傘を差したところでびしょ濡れになった体では意味を為さない。アリス、彼女が今まさにそうなのだが、俺はそれを見越して彼女の私物を車に積んでいた。と、言ってもまさかこんな水に浸かったようにとは思っていなかったが。
そんな彼女を手に伝わる雨の感触を感じながら防弾車両にまで案内して、
「お前の私物だがタオルと服、着替えろ」
コツコツ車両の屋根に落ちる水音を聞きつつ、後部座席に座ろうとドアを開けたアリスへ伝えた。だが同時に彼女は頬を僅かに赤らめ、口調に反し乙女らしくなったと思うと、
「まさかあなた……あんたが漁ったの?」
肌に触れる湿気に負けず劣らずのじとっ、とした目でそんなことを言った……そんなわけあるか、と口調を強くして言いたいところであったが、呆れだけはどうにもならなかったが他の感情を抑えどうにか優しく答える。
「命に頼んだんだよ」
念には念を入れて、で家を出る前に命に頼んで持ってきてもらったのだ。とりあえず俺はその後部座席にある物を指差し、着替えるよう促す。
「俺は外に出てるから安心しろ、周りに人もいない」
それだけ伝え、運転席側で傘を差して突っ立っていようかと思っていると、車内からアリスの驚きの声が漏れ聞こえてきた。
「なんだ!?」
一瞬敵が襲って来たのかと思い、すぐさま後部座席側のドアを開いて確認したところ、
「な、なんでこれがあるんだ!」
下着姿になったアリスの手に白いワンピースが持たれており、それに彼女が過剰に反応したのだとわかり、一安心。
けれどアリスからしたらそのことが一番の緊急事態のようで、黒いブラジャー、黒いパンツ、まだしっとりと濡れたままの生肌……上半身ならば背中から脇下と肩部分、下半身ならば特に鼠径部と骨盤辺りの食い込みを見られても気にした感じはなく、
両手に持ったワンピースを突き出し、中世的な声を悲鳴に近い声に変えて言った。
「なんでこれがあるのって!!」
だが、当然俺が持ち出したわけではないので知る由もなく……
「し、知らん! 俺じゃなくて命が丸ごと持ってきたんだって!」
純白のワンピースを着た姿を脳裏に思い浮かべつつ、冷や汗を掻きながらドアを閉める他、なかった。
それから傘越しに雨に打たれながら待つこと少し、防弾車両の内側から何かを打ち付ける音が二度聞こえ、それが着替え終わった合図だと判断してドアを開けて運転席へ座る。
水の滴る洋傘を助手席側へ置いて、ルームミラー越しに見れば、着替えと一緒に置いていたビニル袋にさっきまで着ていたスーツ他を入れて保管してくれているようで、座席のシーツは汚れずに済んでいた。
まあ、そのために持ってきたのだから使ってくれてありがたい限りだ。
エンジンをかけ、車両を出そうとしたところ、ふと俺は一番気になっていたことを聞けていないと思い出す。アクセルペダルに触れていた右の足先を離し、改めてルームミラー越しだが、アリスの横顔を眺めて。
「聞きそびれてたんだが、お前は結局……なんで契約解除をしようと思った」
それだけ明確な答えを得ていないのだ。田中アリス、彼女が何を考え、どう至ったのかを……僅かな間を空けて、アリスの紅を帯びた黒い瞳が、雨に白む外の世界からふっと俺の方へ向く。
けれど、次に俺が瞬きをした時には窓の先に広がる風景へ、視線が戻っていた。
答えるつもりがないのか、あるいは考えているのか待っていると、
「言ったでしょ、贖罪のために人を死なすなんて非効率的だって」
分かりやすい建前をくっつけた言葉に、俺は鼻を鳴らして笑ってしまう。要するに、話すつもりなどないということだ。ただきっと、本心も絡んでいるのだと思う。
守られるような立場のくせに、守って死んだ人間のことを覚え続けて、それどころか贖罪だとか言ってのける人間だ。
垣間見える優しさに俺は鼻から抜けるようにまた笑う。そんな彼女を愚かだと、若干嘲りもしていたからだ。そして今度こそアクセルペダルを踏み、エンジンを唸らせて。
「それに」アリスがシートベルトを装着しながら続けた「……それに、初恋の相手に似てたからかな」と。
「そうか、まあ冗談で誤魔化されるならまた今度聞かせてもらうとしよう。それに実はもう一つ聞きたいことがあってな」
霊園の駐車場を出たところで、俺はもう一つ聞かなければならないことを思い出し、あの姿のことを浮かべながら言った。
「なに」
深窓の令嬢、いつかの感想を再度心に宿し、続ける。
「白い髪、紅い目、お前といいあれはなんなんだ?」
再び二年前へ戻るが、先日の病院での襲撃者も合わせるととてもあれが夢や幻とは思えないのだ。しかも、俺の予想が正しければアリスは二年前、あの姿でアルファから俺を助け出し、逃げ切った。
運転中ということもあってルームミラーに映る彼女へ意識を向け続けるわけにもいかない、たまにちらと見ながら様子を窺い返答を待つ。
やがてアリスは、一度は隠したそのことについて話し出した。
「……私にもわからない」
わからない……? 自身の体のことなのに?
そんな思いが顔に出ていただろうか、いや例え顔に出ていたとしてもルームミラーに映っているのは俺の目元だけで、きっとわからない。
「十何年か前にあるきっかけでこうなった。黒かった髪は力を使う度に白く染まり、瞳は紅く。代わりにあんたが対峙した奴らのように、人間離れした力を出せる」
「きっかけ?」
俺がそう問いかけると西洋人形を思わせる整ったアリスの顔が、一瞬翳りを見せるものの次の瞬間には、勝気そうな目元を防弾ガラスを這い落ちる水玉が歪ませる外の景色に向けたまま、
「言いたくない」
たった一言だけそう言った。元々隠しごとばかりの彼女だ、恐らく今日ここまで追いかけて来なければ一生知らないままだったろう。
そういう意味ではここに来てよかったと思う。
「そうか、なら最後の質問だが」と揺れるワイパー、白む視界で前照灯を点け反対車線を走る車に気を付けつつ言ったところ「多いな、君タクシー運転手向いてる」別に俺は悪くないのに、少しうんざりした声色で投げやりに答えられた。
多少俺も思うところはあったので、皮肉めいて言ってやる。
「そりゃどうも、この仕事が終わったら人の秘密を暴く探偵にでも転職するよ」
「それでなに」
「今更、なんで俺の質問答える気になった」
――当然至極、だ。
あの体質について俺が初めに聞いた時、アリスは「他の武装警備員に助けられた」と言っていた。だと言うのに今更全てを答えてくれたのだ、その理由が気になるのは当たり前だろう。
けれど彼女は暫くの間、何も答えなかった。それは隠している、というわけではなく深く考え込んでいる様子で、急かしたってしょうがない、俺は待つことを選ぶ。
舗装された道路を走るタイヤの音、車内でもくぐもって聞こえてくるコンクリート混じりの水溜まりを潜る音、それから数秒後、漸く彼女は閉じていた口を開いた。
「私に、似ていたから」
似ていたから、心の中で反芻しその意味を考える。がすぐにやめてしまう、なぜなら俺は彼女の境遇を一つも知らない。さっきも過去に関して聞いたが断られたばかりな以上、問いも思考も無駄だと気づいたのだ。
俺は小さく、そうか、とだけ答え、運転に集中する。結局俺の目的は和懇の復讐だ。この手で和懇を殺したそのツケを払わせなければ、気が済まない。
俺のこの心が、いつまでもざわめき続ける。今雨が振っているように冷えて凍えて濡れ続ける……確かに現実と同じく、一生それが続くわけではないだろうな。いつしかこの雨は止み、厚い雲は消え去り、太陽に暖められる。
ただその事実は残る――好きだった彼女を殺されたこと、俺の心の傷は癒えたとて痕としてあり続けるのだ。
「もしもし」
無意識にハンドルを握る手に力が入っていた。アリスの声にルームミラーを見れば、スマホを耳に当てて誰かと会話しているのが見える。
「えぇ、えぇ、柳田凛子? わかりました、聞いてみます」
頷き相槌を打つアリス、口調も敬語と丁寧であり、電話の相手は同等かあるいは格上となるわけだが、特に気になったのが人名だ。柳田凛子、どこかで聞いたことがある。
「誰からだ」
「私のサポートをしてくれてる連中、アルファの目的について調べてもらってた」
どうやら、アリスも本当にアルファの目的に見当はついていないらしく、彼女の後ろにいる連中とやらも、言い方を見るに完全にはわかっていないみたいだ。
聞いてみる、と言っているのだから俺にも当然その質問は来るだろうが、生憎どれだけ考えても思い出せそうにはなかった。どこかで聞いたことがあるのは確かなんだが「で、聞いたことある?」と不意に、けれど予想通りアリスが身を乗り出して聞いてきた。
俺はやはり少しだけ考えてみるが、
「聞き覚えはあるんだが、はっきりとは覚えてないな」
まるで喉に引っ掛かった魚の小骨のような感覚に、苦虫を潰したような顔をして素直に答えた。すると、アリスは身を乗り出したついでと言わんばかりに、俺の左胸ポケットに入れていたスマホを取り上げ、
「なら鈴さんに聞いて」
そんな無茶を口にしやがった。当然、俺は今運転中の身、しかもこの視界の悪い雨の中を気を張りながら運転しているのだから無理な話だ。そう伝えると……
「なら今すぐ車を停めて。路肩があるでしょ」
――それだけ急ぎの話なのか半ば強引に俺へ命令したアリス、俺も雇い主であることに違いないので路駐禁止の看板がある路肩へ車を停め、ハザードを焚く。
雨降りの視界ゼロに近い中なので、あまり片側一車線の場所でそういったことはしたくないのだが、言ったところでもうしょうがない。
一度抜き取られたスマホを返され、鈴のことを頼んだ命へと電話をかけた。頼んだ通りにしてくれているのだろう、すぐに彼女は出てくれる。
「あー、もしもし? 鈴の様子はどうだ?」
『おぉ元気にテレビ見てるぞ。今のところアルファとかいう奴からの追撃もなし、至って平和だぜ』
その言葉を聞けてほっと胸を撫で下ろす自分がいて、少し驚く。恐らくどこかでずっと心配していたのだ。
『それで? そっちはどうよ』
俺が黙った一瞬、命も命で俺のことを心配してくれていたのか、そう聞いてくれる。俺はそれに、簡単に状況を伝え、鈴に代わってくれるよう頼む。
『ちょっと待ってろ――恭介が聞きたいことあるってさ』
スマホのスピーカーからノイズと二人の話し声が聞こえ、パッと静まり返ったかと思うと、鈴の声が聞こえてくる。
『恭介にいちゃん?』
実際に目の前で喋ってるわけではないので、鈴の声の機微から強がっているのか本当に大丈夫なのかどうかというのはわからないが、聞いた感じだと明るい鈴に聞こえる。
「大丈夫か?」
『うん、大丈夫。みこねぇの初恋とかして結構たのしーよ!』
……みこねぇ、と呼ばれるほどに仲良くなったのか。思った以上の進展に驚いてしまう。しかもそんなことを話した鈴の後ろで命が慌てているのが聞こえ、微笑ましくも思う。
ただ、そんな他愛もない話ばかりしてるわけにもいかない、運転席の後ろに座るアリスが耳を欹てているのが気配でわかるからだ。
「その話はまた会ってからしよう。聞きたいことがあるんだ」
女子高生であるが、まだまだ幼い鈴の相槌が聞こえる。
「柳田凛子っていう人、知ってるか?」
世間話もほどほどに聞けと言われた本題を口にした時、場の空気が固まった音がした。
台風の影響で降り続ける雨が、一定の周期で強まったり弱まったりを繰り返し、妙に静まり返った車内に、百足が歩くかの如くの打音。
エンジン音だって鳴っている。エアコンだって点いている。なのに意識をスマホのスピーカーへ向けているからか、最も近くにいるアリスの小動物のような呼吸音すら聞こえなくなるが、打って変わってスマホからの音は鈴の呼吸音すら聞こえてくるようだった。
そして、彼女は告げる。
『あたしの……お母さん』