9 赤顔の怪物
いつものようにナギが代わり映えのしない景色を眺めながら森を進んでいると急に開けた場所に出た。目の前には大きな湖が広がっていて、目を凝らさないと対岸がよく見えないほどだ。これまで陽の光の多くが森の木々で遮られていたので湖面に反射してきらきらと輝く光が眩しかった。
「森の中にこんな大きな湖があったのか。なかなか景色が綺麗な所だな。しばらく休憩していきたいけどやめとくか」
これが元の世界ならお弁当でも持参してピクニックできるほど眺めの良い場所である。天気も良くて爽やかな風も吹いているのでさぞ気持ちいいだろう。しかし、こういった水辺には魔物が集まりやすいことをこの森で何週間も過ごしてきて学んでいるので長居は無用である。
とりあえず顔だけ洗ってすっきりしようとナギは湖の中を覗き込む。この湖の水もこれまで見てきた小川や泉同様澄んでいた。とはいえさすがに底が見えずどのくらいの深さがあるのかは分からない。魔物が闊歩するような世界なので危険な水棲生物が潜んでいてもおかしくはない。
目を凝らして湖の中を覗き込むと移動する魚たちが確認できた。しばらく時間をかけて探ってみるも魚以外の気配は感じられなかった。
とりあえず安全を確認したナギは湖の水をすくって軽く顔を洗う。そして用意しておいたタオルで水気を拭き取る。このタオルも定期的に水で洗ってはいるもののややくたびれてきており、異世界に来てからそれなりの時間が経過したことを示していた。
このまま一生この森を彷徨うなんてごめんだと考えていると、湖の向こうに広がる森のはるか彼方にうっすらと大きな山々が横たわっているのが見えたのだ。
「だいぶ距離はあるけど山脈か? さすがにあの辺りに人里はないだろうな」
魔物だらけの森の更に奥にある山脈に集落がある可能性は低そうなのでナギはその反対方向に向かって歩くことにした。
そしていざ行動を開始しようとした時、森から何者かが出てきて湖に近づいていくのを発見したのだ。まだそれなりに距離があるため向こうはこちらには気づいていないようだった。
(いったい何かと思えばオーガか)
ナギは湖のそばで膝をついたまま相手を観察する。身長はおよそ三メートルほど、筋骨隆々とした人型の生物で、頭部にちょこんと角が生えており、一見すると鬼のような外見をしていた。
(これまた面倒な奴が来たな)
単体ではこれまでナギが戦ってきた魔物の中では最強の敵だ。見た目通り強靭な肉体を生かした攻撃を得意としていて、身体能力が非常に高く、素手でも木をへし折るくらいのパワーと無尽蔵のスタミナを誇る。知能はゴブリンとタメを張る程度だが、それゆえか痛みに鈍く、腕を一本切り飛ばしたくらいでは戦意は衰えない。
もっとも気配を消して近づいたり罠を張ったりするタイプではないので寝込みを襲われる心配はほとんどない。要は単細胞でタフな敵だということだ。
ナギが見つめる先でオーガは湖のそばで四つん這いになると水をうまそうに飲みはじめた。その姿は隙だらけで奇襲をかければ倒せそうだ。
気づかれないよう腰を落としながら静かに移動を開始する。湖のそばから弧を描くように動き、相手の死角になる場所に位置取りして、背後から<風刃>を飛ばして首を切り落そうとした時だった。
(……何だ?)
違和感を感じたナギが水を飲んでいるオーガから湖の方に視線を移すと、湖面が不自然に揺らめいて波立っていたのだ。よく観察してみると湖面の下を巨大で長細い影がゆらゆらと身体をくねらせながら泳いでいるのが見えた。どうやら影はオーガの方へと近づいているようだ。
思わずナギが動きを止めていると、突然、湖の水が爆発したように飛び散り、中から巨大な蛇が出現してあっという間にオーガに噛み付いて頭から飲み込んでしまった。体長は湖から地上に出ている部分だけでも相当あり、全体ではどれくらいになるのか見当もつかない。もうほとんど怪獣と呼んでいいスケールだ。
茫然としているナギの前で巨大蛇は徐々にオーガを腹におさめていく。蛇の腹の中を暴れるオーガが少しずつ移動する様がここからでも確認できた。おそらくこれから長い時間をかけてゆっくりと消化していくのだろう。
やがてオーガの動きが鈍ってきた頃、巨大蛇は静止したままのナギを一瞥すると、また湖の中へと姿を消したのだった。
しばらくナギはその場を動けなかった。衝撃的な場面に遭遇したのに加え、巨大蛇の何の感情も篭っていない冷酷な爬虫類の目に見据えられて背筋が凍っていたのだ。まさに蛇に睨まれた蛙状態である。
「……とりあえずここを離れるか」
この森の怖さと自然界の厳しさを目の当たりにしたナギは冷や汗をかきながら湖をあとにするのであった。
湖から離れたナギが予定通り山脈とは逆方向に歩いている時だった。どこか遠くから大きな音が響いてきたのだ。よほどの衝撃が発生したのか地面を通してここまでかすかに振動が伝わってきたほどである。
音が聞こえてきた方向に顔を向けると、木々の間に粉塵が上がっているのが見えた。
「……様子を見に行ってみるか」
危険な魔物が暴れているだけかもしれないが、もしかしたら人間がいる可能性もある。もし人がいるならば念願の脱出が叶うかもしれない。
ナギが今もなお断続的に音が聞こえてくる方へと走り出すと、やがて森の中に膝をついて苦しそうにしている女性とその近くに佇む大きな魔物の姿が見えた。彼女らの周りは何本もの木がへし折れていたり地面が陥没していたりと生々しい戦闘の跡が残っている。
どうやら一刻の猶予もなさそうだと走る速度を上げると、接近した魔物が女性に噛み付こうとしたので咄嗟にその横顔へ<風弾>をぶつける。不意を突かれた魔物は顔をのけぞらせて一瞬動きが止まった。
ナギはその隙に女性へ駆け寄ると素早く抱え込み、間髪を入れずに<瞬脚>を使って後方へと急いで下がる。
「お、重っ!」
「な……!? お、重くなんかない! 失礼な奴ね!」
「あー、いや、あんたが重いとかそういうことじゃなくて、人を抱えたまま<瞬脚>を使ったのは初めてだったから、思ったより足首に負担がきたというか――はい、失礼なことを言って本当にすみませんでした」
弁明していると女性にじろりと睨まれたので丁寧に謝った。理由はどうあれさすがにデリカシーのない発言だったと反省する。あと現地の人間と普通に会話できているので心の中で安堵した。管理者からもらった<言語理解>のスキルがちゃんと仕事をしているようだ。
ナギが改めて腕の中にいる女性に視線を向けると、意志の強そうなすみれ色の瞳をした同年代くらいの子だった。はっとするような綺麗な顔立ちに凛々しい雰囲気の美少女で、艶のある長い黒髪を後ろで縛ってポニーテールのようにしてある。イメージ的には剣道部や弓道部あたりが似合いそうな少女だ。
「……あのねえ、初対面の人間をまじまじと見つめるのも失礼でしょ。あといつまで抱え込んでるつもり?」
「おっと、悪い! というか、こんな悠長なやり取りをしてる場合じゃないだろ!」
少女を慎重に地面に降ろすと前方に視線を移す。ちょうど動きを止めていた魔物がのけぞらせていた顔をこちらに向けたところだった。
「……何だよこいつは」
魔物の全容を視界に捉えた瞬間、ナギは呻き声をあげた。なぜならそいつは今まで見てきたどの魔物よりも異様な姿をしていたからだ。
「あいつはマンティコアというたちの悪い魔物よ」
「かなりやばそうな敵だな」
マンティコアは四足歩行の巨大な獣のような魔物だった。大きさだけならアルギュロスにも匹敵するだろう。獅子のような身体にサソリのような先端が膨らんだ尾を持っており、そしてなにより目を引くのが猿に似た赤い顔面だった。大きな体躯の先に人間のような顔がついていてこちらを見ながら気色の悪い笑みを浮かべているのだ。醜悪極まりない怪物である。
「あの巨大な蛇といい、この森は魔境かよ」
顔を引きつらせながら少女にマンティコアについて尋ねる。
「あいつはどういう魔物なんだ?」
「主に森を住処にしている高い知能を持った魔物で一番の好みは人肉。一度ターゲットに狙いを定めるとどこまでもしつこく追ってくる厄介なやつよ。それとサソリのような尾には毒がある」
見た目からしてやばいがやはり戦わない方がよさそうな相手である。
ナギはマンティコアから目を離さないまま少女に語りかける。
「……立てるか? 逃げるぞ」
「生憎だけど、さっき毒を喰らっちゃってね。しばらくは走れそうにないの」
「毒って大丈夫なのか?」
思わずナギは少女の顔を見る。多少苦しそうだが顔色はそこまで悪くない。
「あいつのは神経毒だからすぐに命に関わるほどじゃないし、獲物をいたぶるためにわざと毒を調整してるの。呼吸困難などで死なないようにね。それに常備してる解毒剤を飲んだからとりあえずは大丈夫」
「いたぶるって……確かにたちが悪いな」
あんな不気味な魔物にすぐに殺されることなく嬲られ続ける光景を想像してげんなりする。
「というわけで、普段どおりに動けるようになるまでまだ時間がかかるからあんたは逃げなさい。少しは戦えるようだけど、その格好からして森に迷い込んだ旅人か何かでしょ?」
「逃げろって、お前はどうするんだよ」
「余裕ぶったあいつが近づいてきたところに強烈な一撃をお見舞いして撃退するつもり。これでも冒険者だから大丈夫よ。これくらいの修羅場は何度も潜ってきてるし。だからあんたは一刻も早く逃げなさい」
不敵な表情を浮かべる少女をじっと見つめる。装備や雰囲気からしても冒険者であるというのは間違いないようだ。それに紫色の瞳は強い光を放っており、心が折れて自棄に陥っているわけでもない。
ただ、半分くらいは強がりだとも思った。彼女の武器であろう槍は魔物の足元に転がっていてほとんど丸腰の状態だ。何か切り札を持っているのかもしれないが勝算が高いとはお世辞にも思えなかった。
ナギが再びマンティコアに視線を向けると、不思議と動かずにこちらの様子を見ているだけだった。おそらく追い詰められた獲物のやり取りを眺めて楽しんでいるのだろう。
頭をかきながらナギは溜息をつくと少女の前に立つ。少女を見捨てて逃げるなどはじめから選択肢にはなかった。ならばあいつに立ち向かうしかない。
「ちょっと、あんた何してんの? さっさと逃げなさいよ」
「悪いが却下だ」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を上げる少女を尻目にナギはマンティコアと対峙するのだった。