6 初戦闘
星霊術を実際に試してみてテンションが上がってきたナギは午前中とは別方向を探索していた。
「う~ん。管理者の少女は人里にできるだけ近い場所と言ってたけど、けっこう広い森みたいだからどこの方向に行けばいいのかさっぱり分からんな」
このままいけば今日中に探索できる範囲は寝床の大木を中心にせいぜい半径一~二キロといったところだろう。森の中は歩きづらい上に警戒しながら進んでいるのでどうしても距離が伸びず、今のところ脱出の手がかりになるものは何ひとつ見つかっていない。
もっとも探索を開始してまだ一日目である。すぐに上手くいくほど人生は甘くないと自分に言い聞かせながら歩き続けていると、進行方向にある木の根元になにやら白っぽい物体を発見した。
近づいて確認したナギは思わず呻き声を上げる。白っぽい物体の正体は白骨死体だったのだ。よく見ると錆びてぼろぼろになった鎧のようなものを着込んでいる。
(もしかしてファンタジー世界につきものの冒険者ってやつなのか? こうはなりたくないな)
魔物にやられたのか、あるいは森を彷徨ったあげくに衰弱死したのか。どちらにしろひとり寂しく死んでいくというのはゾッとしない話である。
仏さんに手を合わせて静かに瞑目すると、死体の傍らに鞘に収まったままの西洋風の片手剣を見つけた。抜いて刀身の状態を確かめると、野晒しにされていた割にはそこまで状態は悪くなかった。おそらく錆び止めの油でもこまめに塗っていたのだろう。
ナギは少し迷ってからその剣を拝借することにした。少々錆びているし、普段使っていた木刀や竹刀とは勝手が違うとはいえ、この森を探索するのなら武器があったほうが心強い。試しに軽く振ってみると問題なく使えそうだった。名前も知らない仏さんに内心で感謝しながら剣を鞘に収める。
剣を手に入れたナギが探索を再開して一時間ほど経った時だった。午前中に発見した果物をまた見かけたので収穫していると、近くで何かが歩いているようなかすかな音が耳に入ったのだ。そいつは正面から少しずつこちらに向かって近づいているようだ。
ナギは咄嗟にそばにあった木の陰に隠れて息を潜める。危険な生物だった場合はやり過ごすことも考えなければならない。
先程手に入れた剣の柄に手をやりながら幹から顔を半分だけ出して確認すると、視線の先に大きな黒い狼がゆったりと歩いていたのだ。
(狼か。まずいのに出くわしちまったな)
木陰に身を隠しながら覗いてみるとそこには大型犬ほどの大きさの狼がいた。さすがに星霊のアルギュロスほどではないにせよ、なかなか凶悪な面構えで強靭かつしなやかな体躯をしている。全身が漆黒の毛で覆われており暗闇から襲われると厄介そうな相手だ。ただの狼ではなく狼型の魔物なのだろう。
黒狼はナギの前方十メートルほどで立ち止まると長い舌で前脚を舐めて毛繕いを始めた。どうやらまだこちらには気づいていないように見える。だた、狼ならば嗅覚は鋭いはずでいつ気づいてもおかしくない。
(このままやり過ごせるか? いや、気づかれてから迎撃するよりもこちらから仕掛けたほうがいい)
先手必勝。現在はナギの方が不意打ちできる有利な状況だ。しかも異世界で初めての戦闘なのでできるだけ穏便に終わらせたい。少しずつこの世界での戦いに慣れていくためにもこの状況を生かさない手はない。
ナギはついに星霊術を使う時がきたのだと理解し、そのなかから<風刃>を選択した。できるだけ一撃で仕留めたいので、この中で一番殺傷力がありそうなスキルを選んだ。
ナギは腹を決めると木陰から左手をゆっくりと黒狼に向ける。特に決まった動作は必要ないが術の行使はイメージが大事だ。手の先から発射された風で作られた鋭い刃が狼の胴体を切り裂き絶命させる。そういう確固たるイメージを脳内で構築した。
(よし! 行け!)
狙いを定めて星霊術を発動させると、体内から引き出された魔力が風の刃を形作り、一直線に黒狼へと向かっていくはずだった。しかし、術が発動する直前に何者かが高速で疾走する音が聞こえてきたのだ。
(!? もう一匹いたのか! くそっ、罠かよ!)
振り返り背後から距離をつめてくる漆黒の狼の姿を視界に入れたナギは舌打ちしながらもすぐに状況を理解した。おそらく目の前でのんびりしていたやつはこちらの注意を引きつける役で、別の仲間がやや距離が離れた場所から静かに隙を窺っていたのだろう。つまり最初からナギの存在はばれていたのだ。
十メートル以上あった距離をあっという間に走破した黒狼が飛びかかるために四肢をたわめて跳躍しようとする。それを見てナギは横にわずかにずれながら右手に持っていた剣を水平に構えた。コンマ数秒後に襲いくるであろう黒狼に対して、もはや不慣れな星霊術を行使するという考えは頭から消え、身体が自然と長年鍛錬を積み重ねた剣術を選択したのだ。
ナギが最小限の挙動で突進を避けたのに驚いたのか、目を大きく見開く敵の首元をすれ違い様に寝かせた剣が通過する。その後、地面に着地した黒狼はよろよろと数歩歩くと首から鮮血を噴き出して横倒れになったのだった。
初めて武器で生物を殺した感触に顔をしかめるも、一息つく間もなく今度は二匹の黒狼が襲ってきていた。どうやら最初のやつと更に三匹目が挟み撃ちするように接近しているようだ。
(今度は二匹同時にかよ!)
両方を剣で迎撃するのは難しい。しかし悠長に考えている暇もない。ナギは必死になって地面を蹴ると身体を前に投げ出すようにして両側から襲いかかってきた二体の黒狼を辛くもかわした。
だが、ナギが態勢を整えている間に黒狼たちもこちらに向き直り再度突進してくる。俊敏さではあちらの方がずっと上だ。
追い詰められたナギは咄嗟に<風爆>を目の前の地面に叩き付けた。完全に苦し紛れだった行動は直後に発生した猛烈な風によって一人と二匹を引き離すように吹き飛ばしたのだ。
「――ぐおっ!」
物凄い勢いで地面を十メートル近く転がったナギは背中から樹木にぶつかってようやく止まった。空気が肺から強制的に押し出され呻き声が出る。身体のあちこちがじんじんと痛み、このまましばらく痛みが引くまで大人しくしていたいが急いで追撃に備えなければならない。
気合でその場に立って警戒するもののすぐに追撃がこないので眉を顰めていると、視界の隅に倒れたまま動かない狼を発見した。目を凝らすと首が変な方向に曲がっている。どうやらナギと同じく木にぶつかったらしいが当たり所が悪く首が折れて絶命したようだ。
こちらを殺そうとした敵とはいえ哀れみの感情を抱いていると、横合いから黒狼が急に迫ってきているのを感じた。吹き飛ばされたもう一匹が襲いかかってきたようだ。
慌てて振り向くも全身の痛みに身体が強張ってしまい動きが一瞬止まってしまう。その隙を見逃さずに敵が押し倒すように圧し掛かってきた。こちらを噛み殺すために大きく開いた口を横向きにした剣の刃でなんとか受け止める。
「……!!」
背中から倒れこんだナギは押さえつけられた両肩に爪が食い込んで顔を歪ませるも、刃を噛み切らんばかりの黒狼の形相と血走った眼を間近に見て背筋が凍った。
(こいつは俺を本気で喰い殺そうとしている)
善悪の問題ではなくここにあるのはただの自然の摂理。弱いものは捕食されて淘汰されるという冷徹なまでの真理なのだと理解した。
その事実を理解したナギは本能的に怒りを覚えた。同時にさっき発見した骨だけになった死体を思い出し、あんな風にはなりたくないと心の底から思う。
(こんな所で死んでたまるか!)
先程までの恐怖はほとんど消え、ただ生き延びたいという本能のみに支配されたナギは全力で黒狼の腹を蹴りつけた。火事場の馬鹿力が出たのか、体重が自分と同じくらいはありそうな相手を勢いよく吹っ飛した。
「おら、こいよ。お前を倒して俺は生き延びてやる」
立ち上がったナギが剣を構えると、挑発されたことを理解しているのか黒狼は唸り声を上げて一直線に向かってきた。
これまで敵の攻撃を三度受けてタイミングは掴んでいる。やつらは獲物にある程度接近してから跳躍してこちらの首筋に牙を突き立てようとするのだ。跳躍したらもう方向転換はできなくなる。だからその瞬間を見極めることが勝利につながるはずだ。
「うおおおおおおっ!」
黒狼が地面を蹴った瞬間に自らも前に飛び出したナギは、目前に迫った牙を避けながら狼の首元に剣を思い切り突き刺すとそのまますれ違いながら地面を転がった。手には確かに剣が深くめり込んだ感触が残っている。
ナギがゆっくりと立ち上がって振り返ると、そこには首に剣が貫通したまま息絶えている黒狼が転がっていたのだ。戦いが終わり生き延びたことを理解して思わずその場に座り込む。これ以上魔物が襲ってくる気配もなさそうだった。
(マジで危なかった)
ナギは改めて危機感や緊張感が欠如していたことを思い知った。黒狼を目撃した時ももっと慎重に周囲を観察するべきだったのだ。よく考えれば魔物とはいえ狼なのだから群れで行動していてもおかしくない。
同時に見通しが甘かったことも痛感した。当初の予定では少しずつ探索範囲を広げて森を脱出するつもりがそんな悠長なことなど言っていられない。まず必要なのは力をつけることだ。実戦で星霊術を効果的に使えるようになるまで鍛え上げる。そうでないと生きて森を抜け出すなど到底不可能だ。
ナギは倒れている黒狼に歩み寄って首に刺さった剣を引き抜くと、寝床に戻るためにその場を後にしたのだった。