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40 現在の住まい

 どこか遠くから何かを叩く音が聞こえてきてナギの意識は覚醒した。まだぼんやりとしたまま上体だけ起こして窓の方に視線を向ける。


「……もう朝か」


 カーテンの隙間から日の光が漏れ出ていて布団の上に細い帯を作っていた。今日もまた異世界での一日が始まるのだ。


 ふと最近日本にいた頃の夢をあまり見なくなったことに気付いた。徐々にこちらの世界での生活に慣れてきているのかもしれない。


「ナギさん。起きてますか? もう朝ですよ」


「起きてるぞ。ちょっと待っててくれ」


 扉の外からフィリオラの声が聞こえてくる。今日もまた彼女が律儀に扉をノックして起こしてくれたのだろう。


 なぜナギが寝泊りしている部屋をフィリオラが訪れているのかというと、それは引越しして新たな場所で暮らしているからである。ここはセントリース中央学院にほど近い学生専用の宿の一室で、学生街にはこのような宿舎がいくつもあるのだ。編入とともに一室を借りて生活し始めたという次第である。


 異世界に来てからしばらく暮らしていたエルフォード家からこの宿に移ったのは、いつまでも世話になりっぱなしでは申し訳ないから――ではなく、単にエルフォード家のある北区域から学校のある東区域に朝から長い時間をかけて通うのが面倒だったからである。


 セントリースは広大な街ゆえに普通に歩くと一時間近くかかってしまうのだ。街中で運行されている乗合馬車は楽ではあるもののスピードが遅い。時間ぎりぎりまで惰眠を貪っていたい身としては学校の近くに寝床を用意する方が合理的だったのだ。


 ちなみにシオンは毎朝歩いて学校まで通っているらしい。ナギ的には信じられない話である。体力作りのためだそうで時間に余裕がない時は走っているそうだ。


 手早く普段着に着替えたナギはカーテンを開けると室内を見回した。そこまで広くはないがひとりで暮らすには十分な個室である。部屋にはベッド、机と椅子のセット、クローゼットがもとから備えつけられていて、私物や買い揃えた日用品などがところどころに置かれていた。


 それに学生向けの宿で宿泊代もなかなかリーズナブルなのだ。経済的にあまり余裕のない貧乏学生にはありがたい値段設定である。


「待たせたな。おはよう、フィリオラ」


「おはようございます。ナギさん」


 扉を開けるとしわひとつない神官服を纏ったフィリオラが廊下に立っていた。彼女は規則正しい生活をしているので、朝早くに起きるとお祈りなどひと通りのことを済ませてからナギの部屋に来るのだ。


 そしてフィリオラもまたこの宿で暮らしている。コルテス司教の支配が終わり自由の身となった彼女は、以前から教会の寮以外での一人暮らしを希望していたので、ナギが住む場所を変える話を聞いて一緒に移ってきたのだった。そばに知り合いがいた方が安心できるのだろう。


「いつも悪いな。わざわざ起こしにきてくれて」


「気にしないでください。ナギさんと一緒に朝ごはんを食べたいですから」


 神官姿で笑いかけるフィリオラに横の窓から朝日が降り注ぎ、まるで後光が差しているかのようだ。思わず拝みたくなる光景である。ナギがいつも遅刻せずに登校できているのはひとえに彼女のおかげだ。この前まで母親がしていた役目を自発的にしてくれているのだからたまには手を合わせておくべきだろう。


「あの、なんでありがたそうに拝んでるんですか?」


「俺なりに感謝の意を示していたんだ」


 ナギの説明を受けてきょとんとしているフィリオラに下の食堂で待っているように伝える。まだ洗顔とか軽く髪を整えたりとやることがある。


 フィリオラが階段を下りていくのを確認すると、タオルなど必要な物を持ってから共用の水場兼トイレへと歩いていった。この宿は四階建てで、各階に蛇口のついた横に長い洗面台と複数の便器が備えつけられている場所が男女別に設置されている。残念ながら個室にはついておらず、その辺を完備した宿はかなり宿泊費が高い。それでもこの宿はまだいい方だ。


 ひとつ不満な点があるとすればお風呂がないことである。宿にしろ個人宅にしろ風呂付きはけっこうな値段がするのだ。普段はお湯で濡らしたタオルで身体を拭いている。


 ある程度の身支度を済ませると廊下の端にある階段を下りる。ナギとフィリオラの個室は三階にあり、一階には食堂と厨房、スタッフルームなどがあり、典型的な宿屋の構造だ。


 一階に到着すると席を確保してくれているはずの神官少女を探す。神官服が目立つ上に休日だからか人もまばらなのですぐに見つかった。これが平日だと登校前の学生で混みあっていたりするのだ。


(……ん?)


 フィリオラのいるテーブルに向かおうとすると、座っている彼女に話しかけている男子がいた。何度かすれ違った記憶があるので宿の利用者で間違いないだろう。私服姿なのでどこの学校の生徒なのかは分からない。


 もしかしたら知り合いかもしれないので、会話の邪魔をしないように少し待っていると、しきりに話しかけていた男子が肩を落として去っていった。


 去っていった男子と入れ違うように席に近づくとフィリオラがぱっと顔を上げる。


「ナギさん!」


「お待たせ。顔見知りか?」


「いえ、違います。一緒の席で食事をしないかと誘われたので断っていたんです。今でなくてもいいと言われたんですけどそれもお断りしました」


 どうやらただのナンパだったらしい。そういえば宿を利用している何人かの男子生徒たちがちらちらとフィリオラに視線を向けていたのを覚えている。可憐な彼女が気になるのも分からなくもない。


(うーむ。やっぱりフィリオラは別の宿のほうがいいのか?)


 この宿ではルールがしっかりと定められており、揉め事などは禁止されていて、場合によっては退去させられることもある。これ以上アプローチが過激になることはおそらくないだろう。先程も宿のスタッフが少し気にかけている様子だった。学生専用ゆえに外部の人間が利用することはないので治安も悪くない。ただ男女兼用の宿なのでこうした事態も出てくるのだった。


 実は当初、シオンや同僚の女性神官からフィリオラには女性しか利用できない宿泊施設を推されていたのだ。しかし彼女は頑として譲らなかったのである。


(俺としてもそっちの方が安心できるんだが……)


 内心ではシオンたちの意見に賛成だったりする。まるで保護者のような思考であった。


 もう少し様子を見てみることにして、とりあえすフィリオラがテーブルの上に用意してくれていた朝食をいただくことにした。本日のメニューは、焼きたてのパン、ベーコン、スクランブルエッグで、野菜スープと果物を使ったジュースがついていた。学生向けということもあり栄養バランスを考えた構成になっている。


 朝食は宿代に含まれていて、契約している客ならカウンターで頼めばすぐに用意してくれるのだ。昼食及び夕食も別途料金を払えば食べることができる。


 ナギはフィリオラの食事前のお祈りを待ってから一緒に食べ始めた。バゲットのようなパンにバターを塗ってからかぶりつき、ベーコンをフォークでつつき、何種類もの野菜が入ったスープで流し込む。どれも新鮮で美味しい。


 二人で他愛のない話をしながら食事を続ける。そういえばこの宿で暮らすようになってからは食事のほとんどは神官少女と共に摂っている。朝食と夕食に関してはほぼ毎日一緒で、昼食も別々なのは休日に仕事の都合で時間が合わない場合だけだ。あとたまにアマネから誘われてエルフォード家で夕食を食べる日があるくらいであった。


 しばらく談笑しながら食べていると、フィリオラがジュースを一口飲んでから真面目な表情になって切り出した。


「あの、ナギさん。ひとつお願いがあるんですけどいいですか?」


 フィリオラのお願いとは珍しいなと思いつつ先を促す。


「私もたまにナギさんの仕事を手伝わせほしいんです」


「自由冒険者の仕事を?」


 なんでそんなことをしたがるのだろうかと首を傾げる。商会から受ける仕事は中級冒険者以上の仕事がほとんどで、安全で簡単な仕事はそうそうない。そんな仕事は冒険者ギルドに頼むからだ。それにようやくコルテス司教の強制がなくなったのだからわざわざ自分から危ない仕事を進んでする必要はないように思える。


 だがフィリオラは首を横に振って説明してくれた。個人の能力にもよるが神官は時に危険な仕事もしなければならないと。場合によっては戦場や魔物の徘徊する場所に赴いて怪我人の治療もするらしい。司教の場合は自分の都合で連れまわしていたのが問題であって、助けを求めている人々を相手にしていたことは確かなのだ。


 フィリオラの話とは要するにもっと経験を積みたいということのようだ。この前の地下遺跡での件でも自分の未熟さを痛感したそうだが、あの時は悪魔という普段出会わないようなやばい敵がいたから仕方ないと思う。ただ現状に甘んじることなく向上心を持つことは悪いことではない。


 結局ナギは少女のお願いを受け入れるというか折れることにした。あまり危ない目には遭わせたくないが、彼女の性格的にもそう簡単にあきらめたりはしないだろう。それに神官である彼女がサポートしてくれるなら心強くもある。


 ナギがOKを出すと固唾を呑んだまま返答を待っていたフィリオラはぱっと花が開くような笑顔を見せて感謝の言葉を述べたのだった。

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