4 異世界アストラル
気がついたら森らしき場所にいた。そしてナギは大木に背を預けるように座っていたのだった。
「どこだよここ……。いや、異世界なんだから知らなくて当然なんだけど」
まずは身体に異常がないか軽く触ってチェックしてから立ち上がる。特に問題はないようだ。服装も背負ったままだったリュックサックもそのままである。
周囲を見渡すと樹木が全方位にどこまでも続いていてどこかの森にいるとしか言いようがなかった。遠くからは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
上を見上げると木々の葉や枝の間からやや茜色に染まりつつある空が見え、そこには色や大きさが異なる月のような天体が三つ浮かんでいた。
(おお……本当に異世界に来たんだな。管理者の子が最後に異世界アストラルとか言ってたっけか。実はまだ少しだけリアルすぎる夢説の可能性も考えてたんだが……)
数メートル離れた前方の木になにやら瓢箪みたいな植物がぶら下がっており、その植物がケタケタ笑っているのを見て間違いなく異世界だと確信するのであった。
とりあえず現状を確認したナギはこれからどうするべきか悩む。管理者の少女はできるだけ危険が少なく人里の近い場所を指定すると言っていたが、この森に危険な魔物や動物が生息していないとは断言できない。もう時刻も夕方で暗くなるのも時間の問題だ。これからどの方角にあるのかも分からない人里を目指して歩くのは得策ではないだろう。
(まずは寝床の確保だな。とりあえず水と食べ物があったから助かったぜ)
背中のリュックサックには水筒に半分以上残っているミネラルウォーターとスナック菓子がひと袋入っている。スナック菓子は遠足中に残ってしまったものだがこの場合は貴重な食料となる。これでできるだけ食いつなぎたいところだ。他にはタオルやいつ入れたのかも覚えていない絆創膏が何枚か入っていた。
(あとは財布と……げっ! スマホがなくなってやがる!)
ズボンのポケットに入れておいたスマートフォンがなくなっている。どうやらここに来るまでのどこかで落としてしまったようだ。この世界で使用はできなくてもショックである。
「はあ……。ともかく寝る場所を探すか」
足取りも重くのろのろと周囲に視線を走らせながら歩き始め、そんなナギをからかうように瓢箪型植物がケタケタと笑うのだった。
翌日、日の光が森に差し込んできてナギは目覚めた。
ぼんやりと目の前を見つめると、そこには太い幹とそこから生い茂った葉が重なり合っていた。
「……あー、そういえば異世界のどこかの森に飛ばされたんだっけか」
知らない天井どころか天井ですらないものが視界に入り、現在自分が置かれた状況を徐々に思い出してきた。
昨日は結局良さそうな寝床を発見することができず、仕方なく最初に寄りかかっていた大木の太い幹の上で一晩を明かしたのである。
当初は寝心地が良いとはいえない幹の硬い感触でなかなか眠りにつけなかったが、気付けばいつの間にか意識が途切れて今に至るというわけだ。昨日は色々あったので肉体的にも精神的にも疲労していたのだろう。気温もそこまで低くないので寝るのに支障はなかった。
ナギは枕にしていたリュックサックから頭をはなすとゆっくりと地面を見下ろしてみた。しばらく観察してみるも何もいないようだった。疲れていたとはいえ我ながらよく呑気に眠れたものだと思う。魔物でなくても木の上に登れる肉食動物に見つかったらアウトだったかもしれない。
(ここはしっかり休めたとポジティブに考えよう)
最終的な目標はもちろん森を抜けて人がいる集落に辿り着くことである。あまり眠れずに疲労が蓄積していけば森を踏破することも覚束なくなるかもしれない。それに寝不足は集中力の低下につながり危険に対するレスポンスも鈍くなってしまう。
それからナギはさっそく行動を開始することにした。まず最初にすべきことは水と食料の確保である。森を抜け出そうと闇雲に歩き回っていても体力や気力を無駄に消費するだけだ。とりあえず寝床にした大木を中心に少しずつ探索範囲を広げていくことにした。もしそのまま森を抜けられればラッキーくらいの心持ちだ。
ちなみに昨夜は先のことを考えてスナック菓子と水筒の水を少しだけ消費するに留めていた。この森をいつ抜け出せるか分からないので仕方がない。とはいえ食べ盛りの高校生としては全然物足りない。
ナギはリュックサックを背負うと慎重に辺りを確認しながら地面に降り立った。森の中は鬱蒼としていてまだ早朝とはいえ薄暗く少し不気味だ。
(ん? この先に何かいるな)
しばらく探索しているとおよそ十メートル先くらいの樹木の間に生物らしきものが移動しているのを発見したのだ。
ナギはできるだけ気配を消しながら近づきこっそりと木の裏から覗いてみる。するとそこには小さなウサギのような生物がちょこまかと動いていたのだ。危険な生物でなくて安堵する。
それから徐々に探索範囲を広げていった。また戻ってこれるように拾った石で樹木に目印となる傷跡をつけながら移動する。
(キノコ発見! でもこれ食べられるのか?)
歩いていると地面に生えている手の平ほどのキノコを見つけた。赤い色の派手なキノコで毒キノコの類にしか見えない。それに火をおこす手段がなく生で食べるのはためらわれたので結局収穫を断念したのだった。
しばらくしてナギは少し休憩を挟むことにした。まだ体力的には問題ないが、危険な生物に遭遇しないように気配や痕跡などを見落とさないよう注意しながら進んでいるので普段よりも精神的な疲労が大きい。
休憩を取ったあとに粘って探し続けていると、数時間ほどで木の実や数種類の果物など複数の食べ物を手に入れることができた。軽くかじってみたがどうやら大丈夫そうだ。恵みの豊かな森のようで、この調子だと少なくとも飢える心配はなさそうだ。
ただ残念ながら水を発見することはできなかった。果物である程度水分が摂れるとはいえ、できれば湧き水でも見つけておきたかったところだが、午後の探索に持ち越しである。
(さてと、そろそろ一度寝床に戻って昼食にするか)
時刻的にもだいたいお昼くらいで、それにずっと神経を使いながら歩いていたのでけっこう疲れた。そろそろ身体を休めたいところだ。
寝床にしている木の近くまで戻ってくると背後に生物の気配を感じた。振り返ってみると最初に遭遇したうさぎのような生き物が佇んでいたのだ。
「何だ、お前か。驚かすなよ」
やばい生物に目を付けられたかもしれないと一瞬肝を冷やしたのだ。こいつなら身体も小さいし危険性は皆無だろう。
そんな風に油断したのが間違いであった。うさぎのような生物は突然こちらを威嚇するような鳴き声を出すと襲いかかってきたのだ。
存外速いスピードで迫ってきた突進を横っ飛びで避ける。転がりながら視線を向けるとうさぎは勢いのままに進路上の木にかぶりついていた。可愛らしい外見とは異なり口の中に並んだ凶悪な牙で木の表面を簡単に噛み砕いている。もし腕や足にでも噛み付かれたら肉ごと食い千切られそうだ。
「こいつ、もしかして普通の生物じゃないのか!?」
愛玩動物のような見た目だがその目には殺意が宿っておりこちらを食らうつもりが見てとれた。おそらく管理者が話していた魔物の一種なのだろう。
とはいえ悠長に考えている暇はない。不吉な赤い目を光らせたうさぎが再度突進してきたので木を盾にしながら距離を取る。突進中は途中で方向転換できないようなので動きは読みやすい。
それでも逃げているだけでは事態は解決しない。魔物でも敵の身体は小さいので避けて蹴り付ければ勝てそうな気もする。あるいは攻撃的な星霊術を行使して倒すかだ。
覚悟を決めて向き直るとなぜかうさぎはぴたりと突然動きを止めていた。これまで執拗に追いかけてきたのに不思議に思っていると、敵はナギの背後の方を窺うように見ているのに気付いた。
(……もしかして、後ろにある木を見てるのか?)
いつの間にか戻ってきたらしく背後には寝泊りした大木があったのだ。敵の様子を観察するとどこか嫌そうな表情をしている気がする。
その様子を見てナギの脳裏にある考えが浮かんだ。
試しに地面に落ちていた樹木の枝を拾ってうさぎに投げつけてみると、あからさまに忌避するように飛び退いてそのまま一目散にどこかに走り去ってしまったのだった。それを見て考えが当たっていたようだと確信する。
どうも寝床として使っている大木は人間には感じ取れないが嗅覚の鋭い動物や魔物が嫌がるような臭いを発散させているようだ。周囲にある木よりも幹が白っぽく背が高いので、今までは単に目立つから探しやすい程度の認識であったが、どうやら知らないうちにこの木のおかげで助かっていたのかもしれない。偶然ではあるがこの木を寝床にしたのは正解だったようだ。
ともかく魔物の襲撃を無事切り抜けたナギは大木に登ってささやかな食事の準備をする。リュックサックに入れておいた木の実を少々手こずりながら石で割り、大木の幹に上がってからもそもそと昼食を取るのだった。