3 星霊との契約
「うおっ!?」
少女のすぐ隣にトラックくらいのサイズの狼がいきなり現れたのでナギは慌てて跳び退った。
狼は襲ってきたりはせずこちらを興味深そうに眺めているだけだったが、目の前にこんな巨大な生物がいると威圧感が半端ない。
「彼はアルギュロスという名の星霊です。危害を加えたりはしませんので安心してください」
『そうだぞ、少年。星霊はむやみに人を襲ったりはしない。それにこれから契約を結ぶのだろう? 仲良くしようではないか』
「お、おう……」
狼が喋ったことに違和感を感じつつも意外と気さくな態度に拍子抜けする。とはいえこれだけ大きな猛獣が目の前にいるのだから怖いものは怖い。口の隙間から見える人の腕ほどはある牙に噛み付かれたらあっという間に挽肉にされてしまいそうだ。
ただ、アルギュロスという狼の姿をした星霊の瞳はとても澄んでいて知性を感じさせた。それに銀色の毛並みは美しく、その身には気高い雰囲気を纏っており、こうして佇んでいると一個の芸術品のようにも見える。
アルギュロスはナギを見つめるとにやりと人間のような表情をした。
『なるほど……。我と契約できるだけの資格はあるみたいだな。面白い。我としてはすぐに契約しても構わないが少年も異存はないのだな?』
ナギが頷くとアルギュロスは一歩前に出た。今までのどこか面白がっている表情から一転して真剣な雰囲気に変わったので思わず背筋が伸びる。
『では、これより風と雷の星霊アルギュロスとナギ・テンドウの魂の契約を執り行う』
まるで儀式の神官のように厳かにそう宣言すると、両者を取り囲むように魔法陣のようなものが地面に浮かんで輝き始めたのだ。
足元から強烈な光が立ち昇り、思わずナギが浮き足立っていると、何か身体の奥深い部分が目の前の星霊と繋がったのを感覚的に理解できた。そして魔法陣が一瞬強い閃光を放つとそのまま静かに消えていったのだった。
「……これで契約できたのか?」
『うむ。滞りなく終了した』
辺りに静寂が戻りナギは軽く息を吐く。思っていたよりもあっさり終わった印象である。
「お疲れ様でした、ナギさん」
「今のやり取りってどんな意味があったんだ?」
「簡単に言うとお互いの魂同士で経路を結んだんです。星霊の場合は正確には星霊核ですけど。これにより契約者は能力や知識を得ることができるんです」
「なるほどな。最初に魂の契約を執り行うとか重々しい言い方をしてたから、どんなことをするのかと身構えちまったよ」
『あれはそれっぽいことを言ってみただけだ。別に何か言葉を喋る必要はない。我にとって星霊術士と契約を結ぶのは初めてなのでな、真面目な雰囲気を演出してみたかったのだよ』
「何だよそれ……」
ガハハと大きな口をあけて笑う狼を見てナギは肩を落とす。さっきまで緊張していた自分が馬鹿みたいに思えてくる。
『それにしても少年よ、我と契約できたことを光栄に思うがいいぞ。我は管理者に仕えるために半神半霊となった星霊だ。つまり我と契約できる人間は本来なら存在しないのだからな』
「……そうなのか?」
「彼を含めて私に仕える星霊たちはもともと人間界でも最高位の星霊だったのです。それが私の仕事を手伝ってもらうために我々の世界である神界へと存在を格上げして来てもらったのです。彼が神界から人間界へ赴くことはまずありません。ですから彼と契約できる人間は事実上存在しないことになります」
管理者である少女が丁寧に説明してくれた。
「それってやっぱり凄いことなんだよな?」
『星霊には等級というものがあって、我はその中でも最上位にあたる一等級の星霊なのだから当然だ』
星霊は等級という単位でランク付けされている。強力な存在ほど等級が上がるそうで、最も高い一等級から七等級まであるらしい。ただ、アルギュロスは半神半霊という星霊の枠を半ば飛び越えた存在なので、実際には二等級の星霊が人間界で契約できる最高位の星霊となっているそうだ。
それならアルギュロスのような存在は枠組みから外してもいいような気もするが、半分とはいえ星霊であることと、かつて遠い昔にナギのようにアルギュロスと同格の星霊と契約したことがある人間がいたので一等級として残してあるらしい。これはナギが行く異世界でも同じ基準になっているそうだ。
「全く実感はないけど、一等級の星霊の力を扱えるってのはかなり凄そうだな」
『あくまでまだ契約しただけで初めから我の力を全て使いこなせるわけではないがな。そこは少年の頑張り次第だ』
「そうですね。試行錯誤しながら少しずつ力の扱い方に慣れていってください」
星霊術やその素質があるのはついさっき知ったばかりだ。なのに不思議と頭や身体が今何ができるのかを理解している。たぶん魂がアルギュロスと繋がったからだろう。
なんとなくナギが軽く手を握ったり開いたりして己の内にある不思議な感覚を確かめていると、何かを気にするような素振りをしていた少女が声をかけてきた。
「ナギさん。申し訳ないのですが、そろそろ時間のようです」
「時間って何の?」
「ナギさんが異世界へ降り立つ刻限が迫っているということです」
「え。まだいくつか訊きたいことがあるんだけど……」
「残念ですが、人間はこの空間に長く留まれないんです。そしてひとつ先に注意しておくことがあります」
その言葉を聞いてナギは嫌な予感がする。
「実はこれから異世界に転移するわけですが、ナギさんがどこに転移するか自由に設定できないんです」
「それってまずくないか?」
転移した先がもしはるか上空だったら、あるいは土の中、深海などだったら即死してしまうかもしれない。異世界に到着したとたんにそんな目に遭ったら悲しすぎる人生である。
「そこは安心してください。現在発生している空間の亀裂の中からどこに飛ぶか選ぶことができるんです。できるだけ危険が少なくて人里に近い場所を選ぶつもりです」
それなら問題はないかとナギが安堵した瞬間、次元の亀裂に呑まれた時のなんともいえない感覚が急に身体を包み込んできた。
「も、もうかよ!?」
足場が消失し、まるでブラックホールにでも吸い込まれているような気分を味わっていると、管理者とアルギュロスが声をかけてきた。
「頑張ってくださいね、ナギさん」
『少年。いや、ナギよ。幸運を祈っているぞ』
二人の声を聞きながら徐々に意識が朦朧としてくると少女の声が耳に入ってきた。
「そういえば、これから行く世界の名前をまだ教えていませんでしたね。ようこそ、異世界アストラルへ――」
その言葉を聞いたとたんナギの意識は暗転したのだった。
☆ ★ ☆
神隠しに遭った少年が異世界に旅立つのを見送ったアルギュロスは、同じく隣に立って見守っていた管理者の少女に視線を向けた。
『管理者よ、あの少年が転移した場所はどこなのだ?』
「彼が転移したのはシルヴィアナ大森林です」
『シルヴィアナ大森林だと? 我の記憶によれば魔物の巣窟だったはずだが』
ナギの飛ばされた土地に関する情報を引っ張り出したアルギュロスは内心で苦笑する。シルヴィアナ大森林は広大で深い森に覆われており、多くの魔物が闊歩している危険地帯だ。まだ森の浅い部分ならばともかく奥深くに転移したのならば脱出するのは厳しいだろう。
『他に良さそうな転移場所はなかったのか?』
「残念ですが、そこが一番ましだったのですよ。あとはルウェンベリ山脈の山頂付近とラトリア共和国の空の上、およそ高度一千メートル付近しかなかったのです」
『……なるほど。確かにそれらと比べればまだましなのか』
前者は大森林以上の危険地帯で、後者は空を飛ぶ術でもなければ即死以外の結果は待っていないだろう。
『あの少年が生きて森を出られることを祈るしかないようだな』
「ええ。身に付けたばかりとはいえ、ナギさんには星霊術があり、己の身を守る手段は持っています。あとは彼次第ですよ」
『そうだな。あの者次第では地上最強の存在にもなれるだろう。果たしてそうなれるかは我にも分からんがな』
少女とアルギュロスは先程までナギが立っていた場所を静かに見つめるのであった。