10 決死の行軍
「あんた、なに格好つけてんの! 状況分かってるの!?」
「分かってるって」
少女に向かっておざなりに返事をしながらマンティコアを警戒する。やはりすぐに襲いかかってくる気配はない。こちらを追い詰めるだけ追い詰めてからとどめを刺すつもりなのだろう。強者の余裕みたいなものを漂わせている。ならば付け入る隙は十分にあるはずだ。
ナギが密かに作戦を練っていると、こちらの適当な態度に業を煮やしたのか少女が詰め寄ってきた。
「ちょっと! 人の話を聞きなさい! あんたが立ち向かったってどうこうできる相手じゃない! 死にたいの!?」
「そんなわけないだろ。俺だってできれば逃げたいさ。でもそれは後々面倒なんだよな」
こちらの言い分に少女が理解不能という表情をする。
「まあ、聞けって。ここであんたを見捨てて逃げるのは簡単だ。でも、そうすれば結果的にあんたが無事に生還できたとしても、俺は間違いなく一生後悔することになる。それは非常に面倒臭い。なんせ死ぬまでずっと後悔に苛まれながら生きてくことになるんだからな。そんなのは考えただけでもうんざりするっての」
こちらの言い分に少女はぽかんと口を開けたままナギを見つめた。どうやらよほど予想外の返答だったらしい。
その間抜けというか愛嬌のある表情をからかおうかどうか迷っていると少女がぽつりとこぼした。
「……とりあえず、あんた馬鹿なの?」
「随分な言い草だな。助けてやるなんて恩着せがましいことは言わないけど、少しくらい感謝の念を持っても罰は当たらんだろ」
「勇気と無謀は違う。酔狂で言ってるわけじゃなさそうだけど、それでも足手まといでしかない。戦うことを生業にしてる人間じゃないんでしょ?」
「確かに俺は冒険者でも何でもない。けど、そういうあんたもあいつを倒せるかどうか賭けなんだろ。それも俺の予想だとかなり分の悪い賭けだ」
「それでも――」
「いいから、もう諦めろって。あんたが何を言おうと俺に逃げるという選択肢はない」
なおも言い募る少女を遮りナギは剣を鞘から抜く。こちらのやり取りを眺めるのにも飽きてきたのかマンティコアが大きな前肢で地面をこすっていた。もう問答している時間はなさそうだ。
「あんたはそこを動くなよ」
背中越しに声をかけるとナギは<瞬脚>を発動させて一気に異形の怪物の懐深くまで移動した。まずは余裕ぶっている敵に先制攻撃をぶち込む。
上に視線を向けるとマンティコアの顎が見えた。小型トラック並みのサイズなので、こうして近くから見上げると改めてその大きさが分かる。
一瞬遅れてマンティコアが驚いたような表情で視線を下に向けるも、その頃にはこちらの全力の星霊術が完成しており、ナギは最大威力の<風刃>を敵の首筋に目掛けて解き放ったのだった。
しかし、<風刃>が直撃する寸前で敵は素早く首を振って回避した。頬にかすって鮮血がぱっと飛び散る。血の色は人間と同じ赤色であった。
「くそ! 今のを避けるのかよ!」
マンティコアが反撃とばかりに丸太のような前肢を振るってきたので、悪態をつきながらナギは<瞬脚>を使って側面へと回りこむ。今の不意打ちが決まれば致命傷を与えられるかもしれないと期待していた。しかしそう簡単にいくほど甘い敵ではないようだ。
その後もナギはマンティコアの周囲を翻弄するように高速移動しながら<風刃>と<風弾>を浴びせていき、獅子のような身体のあちこちに血が滲んでいった。
「さっきも思ったけど、なんなのあの移動術は……。それに術の発動速度がありえないほど早いんだけど」
遠くから少女の声が聞こえてくるのを尻目に、ナギは捕捉されないよう移動を繰り返しながらひたすら星霊術を撃ちこむ。
(硬いな、こいつ!)
一見、ナギが押しているように見える戦いもなかなか決定打を与えられずにいた。どうやら敵も並みの相手ではないようでこれだけ攻撃を浴びせても倒れる気配がまるでない。ダメージはちゃんと通ってはいるが、これまで戦ってきた魔物よりもずっと防御力が高いようだ。
しかも、少しずつこちらの攻撃に慣れてきたのか時折避けるようになってきた。あの巨体にもかかわらず俊敏に動き、時には器用に身体を捻ったりして回避しているのだ。その動きには知能の高さを窺わせた。
(……でも、かなりイライラしてきてるな。最初と顔つきが違う)
サルのようなマンティコアの顔からは余裕の笑みが消えてあきらかに苛立っていたのだ。格下に見ていただろう人間が周りをちょこまかと移動して執拗に攻撃しているのだからストレスも溜まるだろう。こちらを睨みつけながら口から鋭い犬歯が見え隠れしている。どうやら危険な魔物の怒りを買ってしまったようだ。
ただこの状況はこちらの望むところであった。もとよりこの怪物を倒せるとは考えていない。もともと狙いは別にあったのだ。
(そろそろ頃合だな)
マンティコアの横腹にボディブローのように<風弾>を食らわせると、すぐにサソリの尾が迫ってきたので<瞬脚>で敵の胴体の上に飛び上がりながら避ける。そして軽業師のように背中に手をつきながらくるっと宙返りをしてそのまま地面に着地したのだった。
「おいおい、敵に背中の上を通過されるなんて間抜けだな。お前が遅すぎるからつい遊んじまったわ」
ナギが煽るように言うと、挑発されたことに気づいているのかマンティコアの猿顔に青筋が浮いた。人間のような顔面なので表情が分かりやすくて助かる。
「ほら、こっちだ猿野郎。ついてこれるもんならついてきてみろ」
森の奥に走りながら更に挑発するとマンティコアが咆哮して物凄い勢いで向かってきた。かなり頭にきているようで怒りの波動みたいなものがびりびりと伝わってくる。はっきりいってかなり怖い。
「ちょ、ちょっと!」
離れていく一人と一匹を見て慌てた声を出す少女に、ナギは全力で走りながら一瞬だけ目線を合わせ、そのまま逃げるよう合図を送った。
マンティコアはもう完全にターゲットをナギへと絞っており、こちらを殺ることしか考えていない。はじめから満足に動けない少女から敵を引き離すのが目的だったのだ。
「待っ――」
こちらに向かって何かを叫んでいる少女の声を背中越しに聞きながらナギはマンティコアとの追いかけっこに突入するのだった。
少女と別れてから数時間後、ナギはいまだマンティコアとの危険な追いかけっこを継続していた。
「はあはあ……! 本当にしつこいな、あの野郎!」
森の中を走りながらナギは背後を振り返って悪態をつく。少し離れた場所には相も変わらずにやにやした猿顔があった。しばらく時間が経って冷静さを取り戻してきたらしい。現在は羊を追い立てる猟犬のように余裕を持ってこちらを追跡していた。
(あの少女はもう動けるようになってるといいけど。きっと大丈夫だよな)
当初の目的である少女からこちらへとターゲットを移してそのまま引き離すことには成功した。あのあと彼女がどうなったかは分からないが冒険者なのだからたぶん無事なはずだ。それよりも問題はこちらの方である。馬鹿正直に戦うつもりはなく適当に撒くつもりがだいぶ苦戦していたのだ。
(……何をしても撒ける気がしない。これはちょっとまずいか?)
<風刃>で木を切り倒したり、<風爆>をぶつけたりと星霊術で足止めしようにもびくともしない。他にも川を何度か渡って匂いを消そうとしたりと色々な手段を試しても効果はなかった。少し距離を稼いでもすぐに追いついてくるのである。
ナギがどうしたものかと思案していると、突然マンティコアが走る勢いを強めて突進してきた。進路上の樹木を薙ぎ倒しながら迫ってくるので迫力が半端ない。トラックが猛スピードで向かってくるようなものだ。
小走り状態だったナギが慌てて<瞬脚>で回避すると、マンティコアは急制動をかけてから止まり、そのままこちらが逃げるのをじっと見つめていた。
「あいつ、やっぱり遊んでやがる」
先程からこんな感じである。つかず離れずの距離を保ちつつ時折急接近してくるのだ。疲労で走る速度が落ちているにもかかわらずここまで逃げられているのはマンティコアがあきらかに手加減しているからである。そしてたまに油断するなとばかりに迫ってくる。完全にこちらをいたぶって楽しんでいるのだ。
(それにもう日が暮れる)
走るのを再開したナギがちらりと空を見上げると徐々に群青色が支配する世界になりつつあった。あと少しで太陽が完全に沈むだろう。さすがに暗い夜の森を走り回るのは無謀すぎる。
こうなったら一か八か勝負を挑もうか迷っているとまたマンティコアが突進してきた。何回も繰り返してきたやり取りにうんざりしながら避けようとすると、なぜか途中で不自然に停止したのだった。猿顔を見るとなにやら嫌そうな表情を浮かべている。
「そうか、ゴンズの木か」
敵の様子がおかしいので周囲を探ってみると少し離れた場所に特徴的な木が立っているのを発見した。マンティコアも嗅覚に優れているようなので苦手なのだろう。その場をうろうろするだけで近づいてこようとしない。
これはもしかして夜が迫る中で九死に一生を得たのかもしれないと、マンティコアを警戒しながらゴンズの木まで歩み寄って慎重に登る。しばらくしても近寄ってくる気配がなくとうとうその場で足を折って休む態勢になった。
(俺がゴンズの木から離れるまでそこで待つつもりか。なんにせよ助かった。これでやっと身体を休めることができる)
マンティコアを一時的に引き離した時に小休止していたとはいえずっと走りっぱなしだったのだ。たぶん人生で一番長い距離を走ったと思う。高校のマラソン大会をはるかに超える距離だ。それに常に緊張を強いられていたこともあってもうへとへとである。
木の幹に寄りかかりながらマンティコアが休んでいる方向に視線を向ける。もうだいぶ暗くなってきたので肉眼でもその巨体がぼんやりと見える程度だ。ここにいれば本当に襲ってこないのか確信が持てないので警戒を怠ることはできない。
ナギはリュックサックの中にストックしていた水と食料で軽く食事をとるとこれからのことを考えた。
(あいつがゴンズの木に近寄れなくても、ずっとここに閉じこもってるわけにもいかないしな。そもそも水や食料が何日ももたない)
ならばこのまま鬼ごっこを続けて疲労が溜まり、ジリ貧になるよりは早めに勝負した方がいいのかもしれない。
ナギは暗闇の中で虎視眈々とマンティコアを倒す算段を練るのだった。