09.利用できるもの
事態を飲み込みきれないまま、アイリスは用意された服に着替えると、広々とした部屋に通された。
ヘイズ子爵家での自室よりもはるかに豪華で、これがアイリスの部屋になるらしい。
欲しい物があれば、メイドに言えばすぐに用意するそうだ。
王太子レオナルド直々に案内され、アイリスは現実感がないまま、ただ頷いていた。
「私はこれから仕事があるので、その間は好きに過ごしていてくれ。図書室や庭園は自由に行くとよい。商人を呼んで宝石などを買っても構わぬ。好きに使え」
そう言うと、レオナルドはアイリスの頬に片手を添え、額に軽く口付けた。
「良い一日を過ごしてくれ」
アイリスが呆然と立ち尽くしている間に、レオナルドは去って行った。
しばしそのまま突っ立っていたアイリスだが、やがて柔らかいソファに座ると、沈み込んで宙を仰ぐ。
王太子に近付くという当面の目的は、想像を超える形で叶ったと言えるだろう。
だが、超え過ぎていて、もはや自分の手に負える自信がない。
「……今できることを考えないと」
それでも、アイリスはどうにか気持ちを切り替えようとする。
レオナルドが純粋にアイリスに惚れたなど、考えられない。何か企みがあってのことだろう。
ならば、アイリスもこの状況を利用するだけだ。
「ええと……やっぱり、薬物かしら……」
ゆるやかに病を得る毒を盛って、少しずつ弱らせていく。そこに付け込んで、自分に依存させて最後に罪を突き付けるという方法が、まず浮かぶ。
悪くはないが、この状況で毒を手に入れる方法が難しい。まさか、メイドに命じて持ってきてもらうわけにもいかないだろう。
「簡単に手に入りそうなもの……」
庭園にあるような植物が原料となるもので、アイリスでも作れる薬を考える。
思いついたのは、惚れ薬の一種だ。一時的に判断力を弱らせ、感情を高ぶらせるもので、この薬を盛って愛を囁くと効果的だという。
相手を操るための薬だと、暗殺者のたしなみとして教えられたが、これまで使ったことはなかった。
だが、現状ではなかなか効果的に思える。本当にアイリスに溺れさせ、そこから突き落とせば、より深い絶望を与えられるだろう。
「庭園は自由に行っていいと言っていたわね……行ってみましょう」
早速、アイリスは庭園に向かう。
途中ですれ違うメイドたちはアイリスの姿を見ると、恭しく礼をした。どうやら、レオナルドからの通知が行き渡っているらしい。
庭園にたどり着くと、色とりどりの花々が咲いていた。アイリスがざっと眺めただけでも、薬草にもなる植物がいくつか見える。
しかし、目的の花はすぐに見つからず、アイリスは探しながら庭園を歩く。
少し歩いたところで、作業をしている庭師を見つけた。二十代半ばくらいの男性だ。
「ごめんなさい、ちょっとよろしいかしら」
アイリスが声をかけると、庭師は作業の手を止めて振り返った。そして、アイリスを見てぽかんとした顔をする。
徐々に赤く染まっていく庭師の顔を眺め、アイリスはよく見る反応だと思いながら微笑む。
「……ど……どのようなご用でしょうか……」
視線をさまよわせながら、庭師はぼそぼそと答える。
「月雫花が欲しいのですけれど、あります?」
「月雫花……ですか? ええと、あ……なるほど……はい、あります……」
アイリスの問いかけに対し、庭師は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに何かを納得したらしい。もじもじとしながら頷いた。
何を納得したのかは少し気になったが、まずは目的のものがあったことに安堵する。
「ただ……今はまだ少し早くて、夕方には良い状態になると思います」
「あら、そうなのね。では、夕方また来てもよろしい?」
「は……はい、用意してお待ちしております……」
頬を赤らめながら答える庭師に微笑むと、アイリスはひとまず立ち去ろうとする。
だが、言い忘れたことがあったと、足を止めた。
「あ、そうだわ。このことはレオナルドさまには内緒にしておいてほしいの」
「え……? あ……はい、かしこまりました……」
庭師が頷いたのを確認すると、アイリスは今度こそ立ち去る。
最後に庭師が神妙な顔になっていたことが少し引っかかったが、すぐに打ち消す。
主人に対して内緒にしておけなど、戸惑って当然だ。
だが、おそらく自分から告げ口するようなことはないだろう。庭師の反応は、これまでアイリスのお願いを聞いてくれた男性たちと同じものだった。
また、仮に告げ口されたところで、庭園に咲いている花を欲しがっただけでしかない。いくらでも言い訳はできるだろう。
とりあえず一つ準備はできた。
他にも何か利用できそうなものはないかと、アイリスは庭園を散策しながら考える。
王太子宮の構造を知っておくのもよいだろう。庭園の配置も覚えたほうがよいかもしれない。そう思い付き、アイリスは色々と歩いてみることにする。
「あら? ここの壁……」
ツタに覆われた壁の前で、アイリスはふと足を止める。
緑色のツタが壁一面を覆っているのだが、下の一部だけ厚みが違うように見えたのだ。
まさか隠し通路でもあるのだろうか。アイリスは近寄り、屈んでツタをかき分けてみる。
「……何もないわね」
かき分けた先にも壁があるのを見て、アイリスはため息をつく。
考えてみれば、ツタは生きているのだから、全部の厚みが均一になるとは限らないだろう。おかしなことをしてしまったと、立ち上がろうとする。
「何をしている?」
そこに後ろから声をかけられ、アイリスは驚きのあまり息が止まりそうになる。
硬直した体はバランスを保てなくなり、足をもつれさせてアイリスは転んだ。