05.王妃の思惑
「まあ、あの下品な女がこのような場所にまで……図々しいわ」
「たかが子爵家の分際で……身の程をわきまえない恥知らずだこと」
「あのようなふしだらな女に惑わされるなど、これだから殿方というのは……」
アイリスが王城の庭園を歩いていると、令嬢達の陰口が聞こえてきた。
穏やかな陽気と温かい日差しに似つかわしくない、陰惨な空気だ。
だが、アイリスは気に留めることもなく、歩き続ける。すると、庭園を抜けて宮殿に入ろうとするところで、一人の令嬢が立ちはだかった。
「どちらに行こうとしているのかしら? この先は私たちのような、選ばれた淑女のみが立ち入りを許される場所よ。あなたのような下品な女が行ける場所ではないの。卑しい臭いが染みつくから、さっさと消えなさい」
ふわふわとしたストロベリーブロンドの令嬢が、水色の瞳に嘲りを浮かべて高慢に言い放つ。
周囲では、陰口を言っていた令嬢たちが唇の端を歪ませながら、頷いている。
勝ち誇ったような顔をする彼女たちに見せつけるように、アイリスは一通の手紙を取り出した。
王家の色である濃い鮮やかな青色の封筒に、百合の封蝋が押されている。王妃の印章だ。
「そっ……それは……」
ストロベリーブロンドの令嬢も、周囲の令嬢たちも、唖然と封筒を見つめる。
「王妃殿下からお招きいただきましたの。そこを通してくださいます?」
アイリスの言葉に、ストロベリーブロンドの令嬢は悔しそうな表情を浮かべながらも、黙って道を譲った。
令嬢たちによる怨嗟の眼差しを浴びながら、アイリスは軽やかに宮殿へと進んでいく。
「アイリス嬢ですね。お待ちしておりました。王妃殿下がお待ちです」
宮殿に入ると、凜と立つ侍女に迎えられた。先ほどの令嬢たちとは違い、アイリスに対する態度は礼儀正しく、何の感情もうかがえない。
侍女に案内されながら、アイリスは宮殿内を歩いていく。
王妃のための宮殿は優美で、慎ましやかな佇まいだ。だが、ところどころに飾られた花は華美なものが多く、強い香りを放っている。
やがて、アイリスは一つの部屋に案内された。
中に入ると、赤褐色の髪の三十代半ばほどの女性が、優しげな微笑みを浮かべてアイリスを見つめた。しかし、緑色の瞳に宿る光は鋭く、冷徹な観察者のようだ。
「王妃殿下、お目にかかれて光栄に存じます。ヘイズ子爵が娘、アイリスでございます。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
淑女の礼を取りながら、アイリスは落ち着いて述べる。
「よく来てくれたわ、アイリス嬢。庭園では雌鶏を放し飼いにしているので、煩わしかったでしょう」
「いいえ。愛らしい、ひよこたちでございましたわ」
アイリスがにこやかに答えると、王妃の笑みが深くなった。
王妃から向かいのソファに座るよう促され、アイリスはしとやかに座る。
「あの雌鶏たちは、生まれ持った毛並みがすべてだと勘違いしているのが困ったものだわ。それよりも、どこに住まい、どのような卵を産むかのほうが重要なのにね」
静かに語る王妃だが、その口調には嘲りと怨嗟が入り交じっているようだった。
アイリスは、王妃が元は男爵家の出身だったことを思い出す。
彼女は侯爵家の養女となってから側妃として嫁いだのだ。そして王子を産み、前王妃が亡くなった後に正妃として繰り上がっている。
ちなみに、王太子は前王妃の子だ。
「あら……つい、このようなことまで。あなたと私は似ているような気がするのよ。だから、口も軽くなってしまうようだわ」
上品な笑みを浮かべながら、王妃は言い繕う。
「あなたには、ぜひお友達になってほしいのよ。ヘイズ子爵家は中立の立場だったと思うのだけれど、そういった派閥とは関係なく、個人的に親しくしてほしいわ」
「私ごときにそのような……身に余る光栄にございます」
アイリスは目を見開き、恐れおののいたように答える。
貴族たちの派閥は大きく分けると、王太子派、王妃派、中立派となる。今のところ、それぞれの力関係は拮抗している状態だ。
ヘイズ子爵家は表向きは中立派となっているが、実際には反王太子派と言える。ただ、アイリスの義父であるヘイズ子爵自身の考えというよりは、さらに上位の存在である誰かの言いなりになっているようだった。
「派閥が出来上がって対立してしまっているけれど、本当は王太子とも良い関係を築きたいと思っているのよ。でも、王太子はあのとおりの気性で、困っているわ……先日も、メイドを気に入らないからと斬り捨ててしまったの」
憂鬱そうに、王妃はため息を漏らす。
「やはり実の母である前王妃さまを病気で亡くしてしまったのが、大きな心の傷となったのかしら。それから変わってしまったのよ。それまで可愛がっていた妹王女のことも、母を思い出すのか遠ざけていると聞くわ」
前王妃は二年ほど前に亡くなっている。彼女は公爵家の出身で、前宰相の娘であり、現宰相の妹だった。
王太子である第一王子と王女は前王妃の子で、第二王子は現王妃の子だ。
王女は病弱で、なかなか表には出てこないという話を聞いたことがあった。
「社交界で話題のあなたなら、王太子の心をつかむことができると思うの。そうして、私と王太子との橋渡し役となってもらいたいのよ。やってもらえるかしら?」
王妃の言葉に、アイリスは震えそうになる手をぐっと握りしめる。
王太子に近付けという内容が、王妃の口から出るなど、思いもしなかった。
断られることなどかけらも想定していないような、自信にあふれた王妃の顔を見て、アイリスは一つの結論が浮かび上がってくる。
これまでヘイズ子爵やアイリスを操り、保護してきた上位の存在とは、もしや王妃だったのではないだろうか。
仮に王太子が亡くなれば、王妃の息子である第二王子が次期国王となる。己の子を王位に就けたいのは、ごく当たり前と言えるだろう。
いよいよ、時が来たということか。
王妃の言葉に、王太子を害しろといった内容は何もない。彼女には何の責任もなく、これから起こることはすべてアイリスの独断ということになるのだろう。
所詮、アイリスなど駒の一つに過ぎない。
だが、王妃の協力があれば王太子に近付くのも容易になるだろう。
アイリスの目的を果たすための手助けをしてくれていると思えば、王妃の思惑などどうでもよかった。
「……はい、身に余るお役目ではございますが、王妃殿下のために尽力してまいります」
アイリスは緊張で強張りそうになる己を叱咤し、はっきりと答える。
すると、王妃は満足したような笑みを浮かべ、アイリスを優しい目で見つめた。