33.父の意思
「まさか、あの方とやらの指示ですの……? このようなところにまで……」
「それよりも、早く解毒薬を使わないと王太子殿下が危険だが、いいのか?」
警戒するアイリスだが、ヘイズ子爵に問いかけられてはっとする。
今は、何よりも解毒薬だ。
「そ……そうですわ……解毒薬……」
「先日送った物は、持っていないのか? 護身用の短剣と、解毒薬があっただろう」
「先日……まさか、このいかにもな毒薬……?」
アイリスは紫色の毒々しい液体が入った小瓶を取り出す。
先ほど使った短剣には塗らなかったので、未使用のままだ。
「それだ。念のために送っておいたのに、何故使わない。まさか、箱の三層目にあった手紙を読んでいないのか?」
「手紙……?」
短剣と小瓶が入っていた箱は、二重底になっていた。
二層目に入っていた小瓶を取り出したところで、アイリスは箱から興味を失ったのだ。三層目の存在など知らない。
「……わかった。とにかく、早くそれを使え」
ため息をつきながら、ヘイズ子爵は促してくる。
「こんな毒々しい液体……これこそ猛毒ではありませんの? まさか、止めを刺すために……」
「すでに死にかけているのに、わざわざ毒を追加する意味があるのか」
冷静なヘイズ子爵の言葉で、アイリスは呻く。
ごもっともすぎて、何も反論できない。
どのみち、他に打つ手などないのだ。アイリスはレオナルドのもとに戻ると、小瓶を彼の口元にあてがう。
しかし、意識を失っているレオナルドは飲むこともできないようだ。
アイリスは小瓶の中身を己の口に含むと、レオナルドに口付けて流し込む。
「ん……」
レオナルドの喉がこくりと動く。
無事に飲んでもらえたようだと安堵しながら、アイリスは唇を離す。
おそるおそるレオナルドの様子を見守っていると、苦しげだった呼吸が穏やかになってきた。まるで死人のようだった顔色も、少しずつ赤みが差してきている。
「よかった……それにしても……凄い味ですわね、これ……」
口に残る苦味に、アイリスは顔をしかめる。
解毒薬を飲ませたときは必死で、味などわからなかった。だが、少し落ち着いて余裕が出てきたのか、舌を刺激する不快な味に気付いてしまったのだ。
「とりあえずは、これで大丈夫だろう。移動するぞ」
ヘイズ子爵はレオナルドを背に担ぎながら、アイリスを促す。
「は……はい……」
アイリスはおとなしく従いながら、これは現実だろうかと戸惑う。
これまでヘイズ子爵は、影の薄い人物という印象しかなかった。義理の父ではあったが、気が小さくて、いつもアイリスにやりこめられていたはずだ。
アイリスが何か問題を起こすたび、小言を言いながらも最後にはすごすごと去っていく姿を覚えている。小さな背中だと、気苦労をかけることを心苦しく思っていたものだ。
だが今、アイリスの目の前にある背中は、まるで別人のように大きく見える。
「お義父さま……あなたはいったい、何者ですの?」
「訳ありのお前を引き取った私が、ただの苦味走る魅力的な紳士でしかないと思っていたのか」
「いえ……そのようなことは思っておりませんが……」
やはり何かの勘違いだろうか。アイリスはじっとりとした視線をヘイズ子爵に向ける。
だが、前を歩くヘイズ子爵は、アイリスの眼差しに気付いていないようだ。
「私は薬師だ。扱うのは毒薬のほうが多いけれどな。フォーサイス侯爵夫人に毒杯を渡したのも、私だ」
衝撃的な言葉で、一つ前のふざけた内容は吹き飛んだ。
アイリスの本当の父フォーサイス侯爵の正妻である、フォーサイス侯爵夫人とも関わりがあったのか。
さらに、フォーサイス侯爵夫人は王妃の義理の姉だったはずだ。それも王妃は憎しみを抱いているようだった。
おぼろげな糸が繋がっていくのを、アイリスは感じる。
「……お義父さまは、誰の指示で動いていますの? 王妃? それとも、あの方とやら? あの方とやらも、王妃の支援者ですわよね。レオナルドさまを殺そうとしながら、いったい……」
「アイリス、あの方は王妃の支援者ではないよ」
問いかけるアイリスに対し、ヘイズ子爵はきっぱりと答える。
「あの方が王妃を支援したのは、目的のためにそれが最良と判断したからだ。王妃個人に対する思い入れといったものはないよ」
「……では、目的というのは何ですの?」
答えはないかもしれないと思いながらも、アイリスは尋ねる。
「国のためだ」
しかし、ヘイズ子爵はあっさりと答えた。
ただ、その内容は抽象的とも言えるものだ。もっとも、本心から国のために尽くす人間もいるので、その類なのかもしれない。
「それと私は今回、何の指示も受けていないよ。お前の様子を見に来たのは、私の意思だ。……もっとも、私が動くことすら、あの方は織り込み済みなのかもしれないが」
「お義父さまの意思? どうしてですか?」
指示を受けていないというのが本当なら、何故わざわざこのような場所まで来たのだろうか。アイリスは首を傾げる。
「心配だったからに決まっているだろう。そろそろ大詰め、命の危険が出てくる頃だ。義理とはいえ娘の身を案じて何が悪い」
ややふてくされたような答えに、アイリスは唖然とする。
単純にアイリスが心配だったからなのか。そのように心を向けてくれていたのかと、アイリスは驚く。
「……私には、かつて妻と娘がいた。もう十年以上前に病で亡くしてしまったが……娘は、生きていればお前と同じくらいだっただろうか」
ぼそりと、ヘイズ子爵が語り出す。
初めて聞く話だった。アイリスは黙って耳を傾ける。
もしかしたら、喪った娘とアイリスを重ねていたのかもしれない。
「一度は失った父としての存在意義を、お前が再び与えてくれた。頭を抱えることすら、娘に振り回される父という、得難い喜びだった。あとは、父としてお前が幸福になるのを見届けなくてはならない」
ずっと迷惑ばかりかけてきたと思っていたが、ヘイズ子爵はそう感じていたのか。
驚愕と、むずがゆいような温かい気持ちが、アイリスの中にわき上がってくる。
「……そう考えると、この王太子では軟弱で、アイリスを託すのに忍びないな。このあたりに捨てて逃げたほうがよいだろうか……」
「ちょっ……やめてください! レオナルドさまを捨てないで!」
とんでもないことを言い出すヘイズ子爵を、アイリスは慌てて押しとどめようとする。
すると、ヘイズ子爵は立ち止まり、大きなため息を漏らした。
「そうだよな……やっぱり、父の言葉なんかより恋人のほうが大事だよな……」
ぶつぶつと呟きながら、ヘイズ子爵は再び歩き出す。
レオナルドを担ぐ背には、哀愁が漂っていた。