26.王妃の命令
「よく来てくれたわ、アイリス嬢」
呼び出しに応じて王妃宮を訪れたアイリスを、王妃は穏やかな微笑みで迎えた。
ソファをすすめられ、アイリスは座る。
控えていた侍女たちはお茶の準備をすると、退出していった。
「すっかり王太子の心を捉えてしまったようね。あなたを寵愛しているという話は有名で、先日のパーティーでも確かめさせてもらったわ。さすがだわ」
「……恐縮でございます」
アイリスはしとやかに答えながら、王妃の次の言葉を待つ。
何を持ち出されるのかと、緊張で体が強張る。
「本題の前に、少しお願いがあるの。ジョナスのことよ」
ジョナスの名が出てきて、アイリスの背筋に冷たいものが走る。
やはり暴行に対するお咎めだろうか。
「あなたのことを側妃にしたいと言い出して、引き下がらないのよ。あの子の誘いを断ったのですってね。それがきっかけで、心を奪われたとか何とか……」
王妃は軽くため息を吐き出す。
「……はい?」
思わず、アイリスは疑問の声を漏らしてしまう。
何かの冗談かと思ったが、王妃の顔は真面目だった。
暴行に対するお咎めではなかったが、まったくもって予想外のことだ。
顔面を平手で叩き付けられ、足払いをかけられて、心を奪われたというのか。随分と歪んだ性癖のようだと、アイリスは戦慄する。
「そこで、一度だけでよいから、あの子の思いを叶えてくれないかしら。手に入らないから執着しているだけで、閨を共にすれば醒めると思うのよ」
王妃の願いを聞き、アイリスは心が沈んでいく。完全に娼婦扱いだ。
結局、王妃にとってアイリスは道具以外の何者でもないのだと、宣告されているようだった。
「でも……」
「まさか、本当にあの子の側妃を狙っているわけではないでしょうね」
アイリスの戸惑いを見て、王妃は眉をぴくりと動かす。
閨を共にすることが嫌だとは、かけらも思わないようだ。アイリスをそういう女だとして見ているのだろう。
「いいえ、側妃など望んでおりません」
「それならよいのだけれど……あなたには、いずれ裕福な伯爵夫人あたりの座を用意するつもりよ。上を目指す気持ちは私にもよくわかるけれど、身の程をわきまえなければ破滅に繋がるものだわ」
「はい……」
もともと側妃など狙っていない。しかし、それとは別に王妃の言葉が、アイリスのレオナルドへの想いが不遜であると突き付けてくるようだ。
うなだれるアイリスを見て、王妃は長い息を吐き出す。
「私だとて、前王妃さまが存命のときは、その座を狙おうなどと思わなかったわ。立場を心得るのは大切なことよ。たとえそのときは優位な位置にいても、後からひっくり返ることだってあるわ。それを認められないと、悲惨なことにもなるの」
今はレオナルドの寵愛があるが、それはいつか失われるものだと言われているようだ。アイリスは俯きがちに、軽く拳を握る。
「……そう、いつまでも見下してきたあの女が破滅したときは、喜びのあまり涙が出たわ。偉そうなことを言っていたくせに、家を取り仕切ることもできなかった、あの女。ストレイス伯の訴えに耳を貸して良かったわ」
ところが、ぶつぶつと呟く王妃の言葉で、アイリスははっとする。
これはおそらく、フォーサイス侯爵夫人のことを言っているのではないだろうか。
しかも、ストレイスとは、よくアイリスに突っかかってくるデラニーの家名だったような気がする。
「まさか、それはフォーサイス家の……」
思わずアイリスが口にすると、王妃が息をのんだ。
「……あら、つい余計なことを言ってしまったようね。念のために言っておくと、フォーサイス家の事件は私が引き起こしたことではないわよ。その情報を得て、動いたというだけ」
言い訳のようにそう口にすると、王妃は咳払いをする。
「それよりも本題に入りましょう。近いうちに、王太子は視察に行くことになるはずよ。あなたも一緒に行ってはどうかしら」
王妃は話を切り替えた。
うっかり漏らした話は気にかかったが、まずは本題に集中しようと、アイリスは王妃を見つめる。
「道中は盗賊が出るかもしれないわ。もちろん護衛は優秀でしょうし、王太子自身も武芸に優れているでしょう。でも……例えば、誰かがそっと近付いて、毒でも使われたら危険よね……毒に長けた盗賊もいると聞くし、恐ろしいことだわ」
そう言いながら、王妃は大げさなくらいに怯えてみせる。
ついにきたかと、アイリスの全身に緊張が走り、思わず拳を握り締めてしまう。
これはつまり、王太子を毒殺しろということだろう。はっきりとした命令を言うことなく、そういう可能性を示唆しているだけだが、明らかに指示だ。
「あの方から遣わされたのだから、あなたのことは信用しているわ。私が最初に側妃になれたのも、あの方のおかげですもの。期待を裏切ることはないと信じているわ」
穏やかに微笑み、王妃は圧力をかけてくる。
衝撃的な命令ともうひとつ、また『あの方』が出てきた。
以前、王妃の出世を『あの方』が後押ししたのかと考えたことがあったが、それは正しかったようだ。
だが、アイリスにはそれが誰なのか、さっぱりわからない。
何も知らないまま、駒として動かされているのだ。
「……あの方とは、どなたのことなのですか?」
意を決して、アイリスは問いかける。
すると、王妃が唖然とした顔でアイリスを見つめ、ややあってから首を横に振った。
「あの方のことを詮索してはいけないわ。あの方の指示に不安があるのかもしれないけれど、最後には良い結果になるの。余計なことを考えるのはおよしなさい」
王妃は神妙な声で忠告する。
どうやら、少し勘違いされているようだ。アイリスが『あの方』とやらの正体を訝しんでいると王妃は思ったようだが、そもそも指示すら受けていない。
しかし、本当は指示を受けているわけでもありませんと口にして、それが良い結果に繋がるとは思えなかった。
アイリスは黙って、頷く。
「話はそれだけよ。戻ってよいわ。ああ、そうだわ。ジョナスのこともよろしくお願いするわね」
話を打ち切ろうとした王妃は、思い出したように付け加えた。
いったんは忘れかけていた不快感が、アイリスに蘇ってくる。
ジョナスと閨を共にするなど、了承しがたい。どうにか穏便に断る理由を探す。
「……今は、レオナルドさまに疑われる要素は作らないほうがよろしいかと存じます。それは、また後日に……」
どうにか言い訳を紡ぎ出すと、王妃の瞳から優しげだった光が消えた。
口元は穏やかに微笑んだままだったが、明らかにアイリスを見る目が変わった。
「……そうね、確かにそのとおりかもしれないわ。今は王太子に疑われることは避けたほうがよいかもしれないわね」
落ち着いた声で意見を受け入れる王妃だが、アイリスは背筋に悪寒を覚える。
これまでと、王妃の雰囲気が違う。
「もう行ってよいわよ。ご苦労さま」
退出を促され、アイリスは礼をして従う。
どうやら、失態をしでかしてしまったらしい。
部屋を出て歩きながら、王妃宮すら一気に寒くなったようで、アイリスは身を震わせた。