20.動かされる駒
「随分と、にぎやかだったようね」
にこやかな笑顔を浮かべながら、王妃がやってくる。
アイリスは椅子から立ち上がり、レオナルドに寄り添う。
「王妃の侍女たちは、躾のなっていない者ばかりのようだ。もっとまともに教育したほうがよい」
つまらなさそうな表情を浮かべながら、レオナルドが言い放つ。
先ほど、自分の弟の顔面を鷲づかみにした者の言う台詞かと、アイリスは内心で少し呆れる。
「もっとも、アイリスは別だが。先ほどの雌鶏どもと同じ、王妃の侍女とは思えぬな」
レオナルドはアイリスの腰を抱き寄せながら、薄く笑みを浮かべる。
「まあ、本当に仲睦まじいこと」
嫌味を言われた王妃だが、顔色一つ変えることなく優雅に微笑む。
苛立ったような様子などかけらもうかがえず、むしろ嬉しそうなくらいだ。
「アイリス嬢は、自慢の侍女だわ。いっそ、他の若い侍女たちの教育もお願いしようかしら」
「そうだな、それは良い考えだ。だが、私との時間が減るのは困るな」
にこやかに笑い合う王妃とレオナルドを、アイリスは蚊帳の外に置かれたような気持ちで眺める。
自分のことを言われているのだが、二人が本当に見ているのは違うものだろう。
「あら、アイリス嬢。耳飾りが取れそうになっているわ。こちらにおいでなさい」
ふと気付いたというように王妃がそう言い、アイリスに目配せをする。
やや緊張しながら、アイリスはそっと王妃に近付く。
すると、王妃はアイリスの耳に手を伸ばし、自ら直そうとする。
「順調のようね。さすが、あの方が推していただけのことはあるわ。その調子でお願いね。働きにはいずれ必ず報いるわ」
耳飾りを直しながら、王妃はアイリスの耳元で囁く。
どういうことだとアイリスは動揺するが、かろうじて表情に出すのは食い止めた。一瞬だけ身をすくませてしまったのを、恐縮したためであるかのように振る舞う。
「あ……ありがとうございます」
「今度は、お茶でも飲みながらゆっくりお話ししたいわね。また声をかけるわ」
穏やかに微笑むと、王妃は去っていった。
レオナルドはそれを冷めた表情で見送る。王妃がアイリスに何かを囁いたのはわかっただろうが、何も尋ねてくることはなかった。
「とんだ邪魔が入ったな。疲れただろう」
ただ優しく微笑み、レオナルドは持ってきた飲み物をアイリスに手渡してくる。
琥珀色の液体が満たされたグラスからは、ふわりとした花と甘い果実のような香りが漂う。
アイリスはグラスを受け取ると、そっと口に運んだ。優しい酸味と豊かな甘みが広がり、さわやかな余韻を残す。
ほっとして体の力が抜けていくようだ。味わいながら、自分が緊張で強張っていたのだとアイリスは気付かされた。
「……ありがとうございます、美味しいですわ」
「それはよかった。きっとアイリス好みだろうと思って持ってきたが、間違っていなかったようだ」
レオナルドの答えを聞き、アイリスの好みを考えてくれたのかと驚かされる。
そもそも、王太子に飲み物を取りに行かせるなど、とても贅沢な行為だ。
こうして気遣われ、他人には見せないような優しい笑顔を向けられると、勘違いしてしまいそうになる。アイリスは胸にわき上がる焦燥感を、必死に押し殺す。
それよりも先ほどの王妃の言葉だと、アイリスは己をごまかすように別のことを考える。
どうやら王妃にとっては、アイリスは狙いどおりに動いているらしい。しかも、それをアイリスが了承した上で動いているような口ぶりだった。
何よりも不可解なのが、あの方が推していただけのことはある、という言葉だ。
アイリスは自分が誰のどういった意図の元で動かされているか、知らない。だが、おそらくヘイズ子爵家に引き取られたときから、駒として動かされているはずだ。
あの方とは、アイリスを駒として仕組んだ者のことなのだろう。
最初は、王妃がヘイズ子爵やアイリスを操り、保護してきた上位の存在だと思った。しかし、それでは矛盾が生じるとは以前も考えたことだ。
やはり王妃の後ろには、さらに誰かがいるらしい。
王妃が『あの方』と呼ぶような相手は、いったい誰なのか。
「おや、伯父上」
物思いに沈み込んでいたアイリスを、レオナルドの声が引き戻す。
はっとして顔を上げると、ブラックバーン公爵の姿があった。以前、王太子宮に向かう途中で会ったとき以来だ。
そういえば、ブラックバーン公爵についてレオナルドに尋ねてみるべきかと思いながら、結局他のことで流されてしまい、そのまま忘れていたことをアイリスは思い出す。
「元気そうですね、レオナルド殿下。アイリス嬢とは以前、お会いしましたね。アイリス嬢の登場で、近頃は周囲もにぎやかになってきたようで」
「どういうことですか?」
にこやかに口を開いたブラックバーン公爵に対し、レオナルドは訝し気な顔で問いかける。
王妃に対してぞんざいな口調だったレオナルドが、ブラックバーン公爵には丁寧な態度で接していることに、アイリスは少し驚く。
「近頃は殿下も穏やかになってきたという噂ですからね。その証拠がアイリス嬢というわけで。これまで我が身可愛さに控えていた令嬢たちも、安全だと判断して慎みを忘れてしまったのでしょう」
「……なるほど」
レオナルドは苦笑する。
どうやら、狂気を得たレオナルドの側にいては命が危ういと、令嬢たちは彼を避けていたらしい。それがアイリスを側に置き、危害を与えていないらしきことから、レオナルドの狂気も落ち着いたと判断したのだろう。
ならばアイリスを排除して妃の座を狙おうというわけだ。先ほどの令嬢たちの姿を思い出し、アイリスは納得する。
「カトリーナ姫もアイリス嬢になついておいでだとか。姫がお気に召す令嬢など珍しいですからね。これで少しでも行動範囲が広がればよろしいのですが」
姪を気遣う伯父といった顔で、ブラックバーン公爵が呟く。
カトリーナは他人の悪意に敏感で、王太子妃の座を狙う令嬢たちとは合わないらしい。
もしかしたら、ブラックバーン公爵は最初こそ王妃の手駒としてアイリスを警戒していたが、その後の様子を見て考えを改めたのだろうか。
アイリスがレオナルドの妃になるといったことを、ブラックバーン公爵が言っていたとは、カトリーナから聞いたことだ。
ブラックバーン公爵は、カトリーナが問題なく接することのできる相手を、レオナルドの妃にと考えていたのかもしれない。
条件に合致したのがたまたまアイリスだったという、それだけの話なのだろうか。
「私も、お二人はお似合いだと思いますよ。調整可能な不釣り合いなど、どうとでもなるものです。最終的に調和が取れていればよいだけですからね」
ブラックバーン公爵の穏やかな声に、思わずアイリスとレオナルドは顔を見合わせる。そして、どちらともなく視線をそらした。




