01.夜会での出会い
生温い夜風が漂うバルコニーに、三人の男女がいた。
真剣な表情を浮かべる男と、それにすがるような眼差しを向ける女、そして退屈そうに立っている女だ。
室内からはパーティーの音楽が静かに流れてきている。軽やかで楽しげな曲とは裏腹に、この場の雰囲気はとても重たい。
「僕は、きみとの婚約を破棄させてもらいたい」
「そんな……今までだって、ただの遊びだと思って、あなたの浮気には見て見ぬふりをしてきたわ。それなのに、どうして……」
「すまない……僕は真実の愛を見つけてしまったんだ……」
「浮気ではなく、本気だというの……?」
「そのとおりだ。だから、僕は誠実でありたいんだ……」
「そんな……」
その場にがっくりと崩れ落ちる女を、男は痛ましそうに見つめる。
だが、すぐに男はもう一人の女に向き直り、晴れがましい笑顔を浮かべた。
「アイリス嬢、これでよろしいですね。過去は清算しました。これで、僕と交際していただけるのですよね」
熱っぽい眼差しを向けられ、これまで退屈そうに立っていたアイリスは、緩慢な動作で扇を広げて口元を隠す。
長く艶やかな黒髪がさらりと音を立て、けぶるような紫色の瞳がぼんやりと男の姿を捉える。
「まあ……私、そのようなことは何も申しておりませんわ。過去を清算してくれと頼んだ覚えもございませんことよ」
アイリスが気だるそうにそう言うと、男が唖然として立ち尽くす。ややあって、彼の顔が徐々に赤く染まっていった。
「な……僕を騙したのか!」
「騙したなどと、人聞きの悪い……あなたが勝手に思い込んで、勝手に物事を進めただけでしょう。私のせいにしないでほしいですわ。でも……」
突き放すように言いながら、アイリスは口元から扇をはずす。紅い唇に蠱惑的な笑みを乗せながら、ゆっくりと男に近付いていった。
怒りに震えていた男は、何事かと困惑しているようで、ただアイリスを見つめることしかできない。その瞳には、期待が宿っていた。
「許せない……」
アイリスが男の目前まで来たとき、それまでうなだれていた女が、低い呟きを漏らしながら動いた。
女は己の髪飾りを勢いよく抜き取り、鋭い先端を向けながら、アイリスに迫ってくる。
髪を乱し、鬼気迫る表情で近付いてくる女の姿に圧倒され、男は動くこともできない。
「きゃあ」
わざとらしい悲鳴をあげながら、アイリスは鮮やかな朱色のドレスを翻す。軽く男を押し、それまで己がいた場所に誘導する。
「あ……」
男と女が、同時に愕然とした声を漏らす。
女の髪飾りの先端は、男の胸に突き刺さったのだ。上等な生地の、仕立ての良い服に、赤いものがにじんでいく。
「きゃあぁぁぁ! 誰か、誰かぁ!」
「いったい何が……うわあっ!」
「どういうことだ、これは……!」
大きく息を吸い込んでアイリスが叫ぶと、何事かと思った人々が室内からバルコニーへとやってくる。そして、女が男を刺している状況を見て、騒ぎ出す。
「令息が令嬢に婚約を破棄すると言い放って……そうしたら、令嬢が激昂してこのようなことに……ああ……恐ろしいですわ……」
アイリスは説明しながら、ふらりとよろけてみせる。
すると、パーティーの客の一人が支えてくれた。アイリスは礼を言って一人で立とうとするが、支えている相手の顔を見て、言葉を失う。
薄明りの下でさえ輝かしい黄金色の髪に、鮮やかな濃い青色の瞳は、王家の色彩だ。整った顔に浮かぶ笑みが獰猛なものに見えて、アイリスは息をのむ。
かつて一度だけ間近で見た姿が、すぐ目の前にあった。
「王太子殿下……」
「何故、王太子殿下が……」
周囲もざわめき出す。どことなく、恐怖をはらんだ声だ。
今日のパーティーは、とある貴族が開いた夜会だ。若者を中心とした気軽なもので、王太子が出席するなどアイリスは聞いていない。
様々な感情が一気にアイリスを襲い、再びよろけそうになってしまう。だが、己を叱咤してアイリスは王太子から離れた。
「ご……ご無礼をいたしましたわ……」
わずかに視線をそらしながら、アイリスは王太子に謝罪する。
すると、王太子は笑みを浮かべたまま、アイリスに顔を近付けた。
「……良い身のこなしだったな、見事だった」
「……っ!?」
小さく囁かれ、アイリスは目を見開いて王太子を見つめる。
見られていたのかという思い、怒りや悔しさ、そして憎しみがアイリスの心に渦巻いていく。
今すぐ、自分も先ほどの令嬢のように髪飾りを取り出し、王太子の喉元に突き付けてやりたい衝動がわき上がってくる。
だが、この場でそうしたところで、取り押さえられてしまうことが、はっきりとわかった。正面から戦って勝てる相手ではないと、アイリスは直感する。
それでも己を抑えきれず、アイリスは王太子の首に向かって手を伸ばした。
「おや、これは今宵の相手として誘われているのか? これほど情熱的な令嬢には、初めてお目にかかる」
王太子は、殺意をはらんだアイリスの手を難なく受け止めた。そしてその手に口付けながら、面白がるように目を細める。
軽くあしらわれたことへの屈辱や怒りがアイリスにわき上がってくる。だが、その心を最も多く占めたのは、失望だった。
やはり自分のことなど覚えていないようだ。そのほうが都合が良いにも関わらず、アイリスはどこかで期待していたことに気付いて愕然とする。
「し……失礼いたしますわ……!」
いたたまれず、アイリスはこの場から逃げ出す。
王太子に背を向け、わき目もふらずにパーティー会場を後にする。
苛立った足音を立てるアイリスの瞳に、涙がにじんでいく。
とうとう仇に会うことができたのに、何もできなかった。無力感と、自分への失望で、アイリスの頬を涙が伝う。
「いいの……いいのよ、そんな簡単に終わらせてはいけないわ……」
しかし、たとえあの場で王太子を殺すことができていたとしても、それは本当の目的を達成したことにはならないと、己を慰める。
自分のことも覚えていなくて当然だ。むしろ、覚えていたほうが困る。だから、何も悪いことなどない。
アイリスの望みは、王太子に過去の過ちを悔いさせ、謝罪させてから、その命を絶つことなのだ。