八瀬童子
(十)
「弥平さんっ」
飛びついた童がくたり、と庄助の腕に倒れ込んだ。目を剥いた庄助に、老爺がぽかん、と口を開ける。童を案内した中間が、戸惑い顔で庄助と童を見比べた。
(熱があると言って下さい)囁いた童に、「あぁあかん。酷い熱や」
庄助はすかさず応じた。弥平を知る童は、きっと御使い狐だ。
首を突き出した中間をぶっ飛ばし、突進した大女が、竹筒を童の口に押し込んだ。
「五平、奥の角部屋を空けとくれ。お客さん、医者を呼びましょうか。おゆう、六兵衛さんを呼んどくれっ」
手際の良い大女は、女中頭だろう。
橋谷家のお伊勢さん、六兵衛とは顔見知りの庄助は、
「しばらく休めば落ち着きます。連れは医者嫌いでして……」
咄嗟の嘘に、胸を撫で下ろした。素間万金丹の効力に感謝する。
「そやな。ちぃと様子を見てからのほうがええやろ。子供はよう熱を出す。はぐれた連れとようやっと会えて、疲れが出たんやもしれん」
大女の脇から顔を出した老爺には、本当に世話になる。
「向かいの奥は、家人の住まいとなっとります。出入りはありますが、表の賑わしさとは無縁です。女中の詰所もありますよって、お呼び頂ければ、すぐ誰ぞが参ります」
童を横たえた小部屋は、邸のどん詰まり。中庭を挟んだ向かいに、廊下が奥へと続く。客をもてなす建物の裏手に当たる、小部屋は華やかさを欠いて静まりかえり、始まった神楽奉納の音が、僅かに耳に届く程度。
御師邸の立派な構えは表だけ。裏へ回れば手狭で質素と、松右衛門の言葉を思い知る。
大女の足音が遠ざかり、ちょっと覗いてみようかと、廊下に身を乗り出した庄助を、
「やれやれですね、庄助さん」
初めて聞く、童の声が引き留めた。振り向いた先で、布団に起き上がった童がにこり、と笑う。色黒の童は十ばかり。ぽつぽつと頬に浮く、白い斑点がもしや本当に病ではと、庄助の不安を搔き立てる。
「気にせんと。これは生まれつきですんや。わては玉助いいます。若旦那に言われてきました」と、ぺこりと頭を下げた。
やはり御使い狐だったかと頷いた庄助に、童はおもむろに懐から紙を取り出した。
――伊勢講一行に馴染んでるは見事だが、ちぃと馴染みすぎだよ。爺の相手をするために、お前を送り込んだわけじゃあない。このまま放り出されても意味がないから、助っ人を送ってやるよ。玉助の言うことをよーく聞いて、謎の医者の身元を探っておいで。
くっきりと押された、野間万金丹の金文字が、無性に勘に障る。
「だったら、てめえで聞きに来れば良いやろう。伊勢の御師は皆、野間万金丹と懇意やないんかっ」
思わず口走ってぱしっ、と指示書を叩きつけた。
「おやおや」と、指示書を拾った玉助は、
「橋谷大夫様は、野間家を退け、小西万金丹を土産物とされました」
指示書を畳んで懐にしまい込んだ。
取引を断られた野間家の子息が、橋谷邸を嗅ぎ回るわけにはいかんわけだ。
小屋を焼かれた、庄助は行方不明。御師の間では、焼け死んだと噂になっているだろう。月代を剃った庄(弥)助(平)は、格好の密偵……。
(火付けの犯人は、素間とちゃうやろな……)
訝る庄助の袖を、玉助が引いた。
「そろそろ行きましょう」
「どこへやっ」苛立つ庄助の口を魚臭い手が塞いだ。
「静かに。今が良い機会です」
神楽奉納の間は御師邸に隙ができる。主もお伊勢さんも神楽奉納に出張り、中間らも各々役割に忙しい。女中らは詰所で一服、出迎えのお伊勢さんが出払った邸には、庭を臨む広間に人もいない。
「今やったらこっそりと、件の医者のいる離れへと向かえます。急いで」
助っ人童は、件の医者の居所まで掴んでいる。
己の不甲斐なさに歯がみした庄助は、音もなく、中庭に降りた玉助の後を追って、向かい廊下の床下に潜り込んだ。
あっちでもない、こっちでもないと、動き回る助っ人の後を追う、庄助の眉間の皺が段々と深くなる。思ったより助っ人は頼りない。
手狭で質素と、松右衛門の言う家人の住む床下は広く、御師の底力を実感する。
何度目かの「あっ、ここですっ」に庄助は床板を押し上げた。まばゆい明かりに目を細めてしばし。
ぱこん、と小さな頭を叩いた庄助は、魚の臭いの残る布団に横たわって瞼を閉じた。
「役立たず」呟いてぺっ、と蜘蛛の巣を吐き捨てる。
「しくじったわけやありまへん」と不満げな声は相手にしない。
「帰れ」言い放った庄助に、「とっておきの抜け穴があります」玉助は、猫撫で声で囁いた。
(最初からそっちに行け)
築地塀に沿って歩けば、生い茂る草木に行く手を阻まれる。表の庭とはえらい違いだ。
家人の住屋の廊下はささくれ、障子は所々破れて、春の風にひらひらと靡いている。目の当たりにした質素には感心するばかりだ。
草を分けた先に、大きくへこんだ築地塀。橋谷家の夫婦喧嘩の名残は、今も戒めとして残されているのだと、玉助は言う。
「先々代のきよ様は、一人娘のお嬢様。中間から殿原へと上がった太一郎が、大層お気に入りで」
婿取りとなったとは、どこぞの話とよく似ている。加えて、太一郎には想い人があったと聞けば、誰かさんとそっくりだ。
「想いを断ち切れん太一郎は、伊勢の町にあった想い人と、こっそり逢うておったんですな、きよ様がそれを知って、大喧嘩となった」
大女のきよは、あらん限りの家財を太一郎に投げつけ、そのなかの一つが、築地塀に大当たりをかましたと。
「先代も当主も、当家の嫡男でありますが、きよ様の教えに従って、ここだけは決して手入れをせんのです。橋谷の家は女が強うございます。きよ様の戒めは、今も生きてますなぁ」
童のくせに、玉助は情報通だ。
「お前、何もんや」と、問う庄助の声を、「誰ぞおるんか」嗄れ声が、かき消した。
「待っとって下さい」庄助を制した、玉助の背を見守ってしばし。
「何や、久しぶりやなぁ」親しげな嗄れ声とは、知り合いらしい。
「腹減っとるんか。ちぃと待っとけ、何ぞ探してきたるわ」かなり親しい間柄だ。
戻った玉助に、知り合いはいいのかと懸念しつつ、「時がありません」玉助の言葉には、頷かざるを得ん。聞き馴染んだ神楽の音が、神楽奉納の終わりを告げている。
急かされるまま、築地塀の綻びに身を押し込めば、低木の生い茂る庭に出る。かび臭い辺りは薄暗い。身を低くして玉助の背を追えば、慣れぬ髷が枝に引っかる。
ようやく薄日が庄助の視界を開き、「あっ」と声を上げた玉助が、庄助の脇をすり抜けた。
「こらまた珍しい若芽がおる」
射し込んだ陽の光を背にした影が、庄助を覗き込んで、するりと髷が背を滑った。
「お前、間の山の庄助やな」言い当てた相手に、肝が縮んだ。じり、と後退る庄助に、ちくちくとした痛みが、襲い懸かる。
「動かんほうがええ。目木の棘は鋭いぞ。深く刺さると、抜くに難儀する」
いよいよ天狗のおでましかと、観念した庄助に、
「蕾は惜しいが。間の山の蕾は、素間の大事やし。ちぃと待っとけ、檻から出したる」
素間を知っているらしい、総髪の男が、にやっ、と笑った。
(十一)
「大方は抜いたと思うが。痛みがあれば、これを塗っとけ」
囲炉裏端に敷かれた敷物に、全裸でうつぶせた庄助は、丁寧に棘を抜いてくれた、松坂で評判の変わり者の医者、春庵先生に感謝する。春庵先生は、素間と懇意だ。
ついでに塗ってくれた、傷薬に尻もひんやりと気持ちいい。腰痛に効くという飴薬はちょっと苦いが、飴は好きだ、万金丹よりずっといい。
「お前も式部せんせに会いに来たんか」
化膿止めの飴薬を手渡しながら、春庵先生は表に目を向けた。
「先生、頂いて来ましたっ」元気な声が板戸を開ける。小さな童が、さらしを抱えて飛び込んできた。
童にむつきを換えられつつ、春庵先生の話を聞けば、件の医者はもう、ここにはいないと言う。
「頑是ない童が間違いで死んで、ここの主が、よそへ移したんや。摂関家の手先が、剣呑な動きをみせとるらしい」
常のことながら、苦労のわりに結果は出ない。
まったくお前は役立たずだねぇ――。
頭に浮かぶ素間の言葉に、今回はきっちりと反論する。
(お前のよこした、助っ人のせいやぞっ)
まどろっこしい床下も築地穴も、玉助の案だ。
(そんな遠回りなことせんと、邸を出て、裏へ回ったら早かったやないか)
こぢんまりとした建物の、庭周りは背の低い垣根。庄助が運ばれる間、のんびりと欠伸をかましていた犬は、番犬ではあり得ない。侵入は簡単そうだ。
「わては素間に言われて、橋谷家の居候を訪ねて来ました」
庄助の言葉に、春庵先生は、あぁ、と膝を打った。
「素間の代理か。確かに今、橋谷家に顔を出すのは良くないな。あやつは今、行方不明と聞いたが」と、身を乗り出した。「元気か?」の問いに庄助はこくり、と頷く。
「まったく。薬を値切るとは、橋谷大夫はとんでもない男や。小西家はよう応じたな。有り難い霊薬やで。ま、そのうち罰が当たる。式部先生も、よそへ移られて正解や」
昨日、山田の知人から誘いを受け、伊勢に一泊した春庵先生は、ついでにと橋谷家を訪れた。前々から噂に聞く、竹内式部たる人物に興味を抱いていたからだ。
「恐れ多くも、今上帝に講義をなさっていたお方でな。ちょっとした事件があって、重追放となった。伊勢はお構いなしやから、先生の門弟御師らが、お招きしたんや。ここのご隠居が熱心な門弟でな、滞在先を買って出た」
竹内式部が唱える垂加神道とは、山崎闇斉たる人物が伊勢神道、吉川神道を学び、朱子学、陰陽学、易学を取り入れ、神道の集大成として完成させた学問である。
天照大御神に対する信仰を、御子孫であられる帝が統治する道を、正しき神道とする教えだと、春庵先生は言う。
「そもそも伊勢は、神宮領であり、神職らは皆、大神様にお仕えする我が身に、誇りを持っておった。ところがご公儀は、不躾にも奉行所なんぞを出張らせてきた。かつては完全に、自治区域であったものを、今は、何かと奉行所が茶々を入れる」
我らがお仕えするのは大神様であり、将軍家ではない――。
誇り高い伊勢の人々は、口にはせずとも、胸の内では誰もが思っている。世襲制の神職らには、積もりに積もった思いだろう。
「故に、式部先生の門弟が多いわけや」
垂加神道の教えは、王政復古を謳うもの。幕府には、危険思想に他ならん。京都所司代に与する、摂関家はこれを危惧し、式部の門下生となった公家らの、武術稽古を見咎めてこれを制した。
「俗に言う、宝暦事件。桃園帝の側近らが、多く処分を受けた。ご公儀の軋轢に絶えかねる、若き公家もや。平穏に見える徳川の世も、様々に、水面下の問題を抱えておるわけや」
一介の芸人、庄助には、理解できん大事だ。
「儂は京の町に遊学しておった。京の町ではやはり、帝がこの国の王だとの、認識は高い。臣下に下ったはずの源平の争いや、朝日将軍の狼藉は、今も京の町の人々にとって、謀反として語られる。安徳天皇の悲劇は、京の町の人々には、許されん歴史やろ」
勢力争いに巻き込まれ、幼くして入水した安徳天皇様のお話は、時に間の山でも、童興行に組まれる。大神様を祀る伊勢は、尊皇思想の式部を受け入れる要素は十分だ。
「平穏の世に溺れるとは言え、将軍は武士の頭や。一声掛ければ、多くの兵力が集まるやろ。だが、大神様は戦を好んではおられん。公卿らが、今さら武術を学んだとて、武士どもにはかなわん。ならば何を以て対抗するか。それが学問や」
徳川と豊臣の戦を最後に、武士の時代は終わったと、春庵先生は言う。徳川の世となって、扶持を失った浪人は多い。
「水戸家のように。本来のこの国を取り戻そうとされる大家もある。血で血を洗う戦は、終いや。将軍の首は、いくらでもすげ替えができる。権力者の奢りよな、奢れる者は久しからず。そこらにちぃと、きな臭い臭いもするが」
素間の話はちっともわからん庄助だが、春庵先生の話は、大きすぎて更にわからん。
もそもぞと腹の下で付髷が蠢いて、庄助はせぎょうの衣を纏った。
「春庵先生は、王政復古を?」今一つ、掴み所のない松坂の放蕩息子を訝って、
「儂は、誰が世を取ろうが同じやと思う。大事なんは、この国の人の心や」
春庵先生は、またまた、庄助には理解できん大事をのたまう。
「古事記から始まったこの国の歴史に、他国にはない大事を極めれば、何かが見えてくる。島国の我が国には、美しき文化がある。他国には決して、真似できん文化や。ちまちまと木綿なんぞ売っとっては、大事は掴めん。母上は、ちぃともそれを理解せん。女はあかんな、目の前のものにしか興味がない。儂が興味を持つもんは、もっと大きなもんや」
唯一、理解できる事実に、庄助は頷いた。男は誰でも、母親に苦労するらしい。
「せんせ、そろそろ」
促した童は七つばかり。うむと、頷いた春庵の薬箱を手にとって、庄助に笑顔を向けた。あらためて見れば、大層な美童だ。
「これは幸助という。母上が、夕刻に拾ってきた童や。儂が素間と懇意なんも、大神様の思し召し。伊勢には、変わったもんがようけおるなぁ。間の山はまだらの世界や。幸助、お前は橋谷の邸で、儂の言うた庄助の連れに会うたか?」
膝を立てた春庵に、幸助ははい。と頷いた。
「さらしを頂いた折に。お連れ様は、作兵さんの横で寝てはりました」
とんでもない助っ人だ。
「そらまぁ。ぶっ魂消たやろ。まさか、こんな場所で儂に会うとは思わんものな。庄助、素間に言うとけ。あまりまだら者に無茶させるなと。伊勢には様々なもんが集うぞ、妖怪変化と、退治されては気の毒や」
ますます以てわからん庄助に、幸助が袖を引いて耳打ちした。
(斑の子猫でした。うちのせんせは、不思議が大嫌いなお人ですんやけど、物の本質がよう視えますんや。せんせはそれもまた、いとおかしと書に綴っておられますけど。研究の対象には、ならんようです)
素間が面白いと、興味を持つ所以はそこか。放蕩息子は、変わり者ばかりだ。
「そこの男、お前の案じる、竹内式部は健在や。松坂の門弟んとこに、居を移したようやで。お前の案じる通り、摂関家の手先が剣呑な動きを見せとるようやな。頑是無い童が、間違いで死んで、ここのご隠居がよそへ移したんや」
庄助の腹で、付髷が総毛だった。かなり腹が気持ち悪い。
(せんせは、王政復古に興味はありまへん。ただ、この国の元を正す学問の一つとして、講義を聴きたいようです。けどちょっと、剣呑な気配があります。深く関わらんほうが、ええと思います。庄助さん、無理はせんように)
耳打ちした童は、ぺこり、と頭を下げ、春庵の後を追った。
(十二)
死人の付髷は役立たず。
顔見知りの多いおはらい町で、物売り童から菅笠を買い、顔を隠した庄助に、伊勢屋の女中は、五つもの握り飯を振る舞った。満腹に腹を抱えて道を急ぐ。
津田屋の女将の強引な勧めに、あおさ汁をしこたま飲まされ、湯立て神事の御師の興行に、五十鈴川の聖水を振る舞われた。庄助の腹は、破裂寸前だ。
歓声を上げて走り寄った人々の波にもまれ、くたり、と倒れた庄助に、御札の雨が降る。
せぎょうのはっぴを着た中間に担ぎ上げられ、「大神様のお恵みやぞ」と、今度は山と積まれた赤福に、胃の腑がせり上がった。伊勢のせぎょうは、大神様の試練か。
牛谷坂を駆け上がり、袖を引く遊女を振り切り、ようやく村に辿り着いた庄助は、門前で、大鼾を掻く男の腹に狙いを定めた。
勢いを付けて飛び上がり、ぐうぇっ。牛蛙のような声に押されて、手を伸ばす。矢来の先を掴んで身を捻る。ひらり、と身を返す芸当は、間の山一の若衆には他愛ない。
きれいに着地を決めたつもりが足下が崩れ、がこん。といきなり闇の中。酒の臭いに辟易とし、ころころと転がって、飯粒と赤福が胃の腑をひっくり返した。
「酒かい?」母の声に安堵して、「母ちゃんっ」と叫べば、「なんだい庄助か」
母はふんっ、と鼻を鳴らす。
「それが生還した息子に対する言葉かっ!」酒樽から顔を出した庄助が、噛み付けば、
「お前を案じて飲んだ酒が、廻り過ぎてるんだよ」
首根っこを掴んだ声がくくく、と笑う。庄助の衣を剝いだ素間は、むつきを捲くって手を叩いた。「治ってるじゃないかっ」ついでにぺしっ、と尻を叩く。
お前は絶対に、医者になるなと、眉を寄せ、
「春庵先生に会うた」と返せば、素間はふぅん、と背を向ける。
「若旦那ぁ、これって幽霊かい?」母が杯を口に当てて呟き、
「弥平さん、お疲れ様」おねうが、付髷を拾って、にっこりと笑った。
*
「春庵先生が、垂加神道に興味があるとは、意外だが。先生の話なら、間違いはないだろう。竹内式部は松坂に移ったか。太兵の卒塔婆代は、お前持ちだね」
庄助の話を聞き終えた素間は、赤く充血した目を、ぐりぐりと擦った。
「わては卒塔婆代を、取り立てに行ったんか?」
そんな話は聞いてない。
「玉助は言わなかったのかい? んー、あれは良い子だが、ちょっと、言葉が足りないようだねぇ。もうちぃと、教育が必要か……」
猫に、言葉は必要かと、首を捻り、いやいや、あれは春庵先生に、誑かされたのだと、思い直す。松坂の変わり者は、信用ならん。素間の知り合いならば、なおさらだ。
「橋谷家に居候する、京の町から来た医者と聞いてぴん、ときたのさ。宝暦事件から、そろそろ一年が経つ。橋谷の隠居は、式部の熱心な門弟なんだ」
橋谷の当主は、公家の門弟とも、付き合いがあると言う。式部の逗留先に、決まった由縁だろう。
「あたしゃ、垂加神道に興味はないが。尊皇思想に熱意を燃やす、式部の周りには、血生臭い輩もいる。将軍家が気に入らん輩には、天皇家は大義名分さね。式部に近づいた太兵を、危うしと見て始末したんだと思ってた」
式部が門人を増やし、尊皇思想が膨れあがれば、いずれ今上帝も立ち上がる。将軍家に与する摂関家が、子飼いの間諜を、放つ可能性はある。
「間諜って……。太兵は童やぞ」
「童のほうが、怪しまれずに済むんだよ。そんな童を育てる組織もあると言う。でも、式部がよそへ移ったんじゃあ、あたしの予想は外れたね。式部にとって、伊勢はお構いなしの土地だが、総髪の童の死を見て、油断はならんと判断したんだろう」
橋谷家は総髪のもんに、目を光らせとる――。
公卿、神職は幕府の管理下にない。いずれ月代を剃らぬ者の身分は、その辺りに由来がありそうだ。医者、学者、山伏に浪人。いずれも武家社会の秩序から、外れた者である。
易者、芸人、乞食、穢多、非人……庄助ら間の山の住人らも、幕府の秩序から外れた存在だ。
「古から朝廷の間諜を務める一族がいるんだよ。八瀬童子と言われるが。童髪だから童子。鬼の子孫だ」
目を剥いた庄助に、素間は「似てるだろ?」と、口の端を上げる。
「わてらは、鬼の子孫とちゃう」
「同じだよ。人は、恐れる者を鬼と呼び、畏れる者を神と呼ぶ。あたしから見れば、どっちも同じだ。神も鬼も、人の概念から外れた存在だ。善し悪しを決めるのは人の勝手さ」
素間にはいつか、罰が当たると思う。
「式部に近づいた間の山の童が、式部の近辺を守る門人の目には、八瀨童子に見えた。式部は良識ある学者だ。無実の童が間違いで門人の手にかかったと知れば、素直に謝罪するはずだ。謝罪の心を以て、朝熊岳に卒塔婆を建ててもらえれば、太兵も浮かばれるってもんだろ?」
太兵に罪はない。落とした命は戻らない。芸人の子でも、無下に殺されて泣き寝入りする必要はない――。素間の決着の付け方も、悪くはない。
「逃げられたぞ。どうすんや、松坂まで追うんか?」「何でだよ」
「謝罪は受けるべきや、太兵が浮かばれん」
「わからない子だねぇ、式部は松坂に、居を替えたんだよ。春庵先生は、何て言った?」
頑是無い童が間違いで死んで、ここの主が、よそへ移したんや、摂関家の手先が、剣呑な動きを云々……
あっ、と叫んだ庄助に、
「そういうことさ。太兵は確かに間違いで殺された。だが、摂関家の間諜としてじゃない。逆さ、式部側の連絡役と間違われ、摂関家の手先によって殺されたんだ。あたしの情報によれば、永蟄居中の公卿が、式部と密かに連絡を取っているらしい。面倒だね」と、素間は大きく息を吐いた。
摂関家は、追放中の式部への懸念が抜け切らん。これ以上の、危険思想の広がりを恐れれば、式部の動きに目を光らせて当然だ。
だが、摂関家の手先が、式部と永蟄居中の公卿との繋がりを危惧するとは、穏やかじゃない。一度事件となって裁かれたにも拘わらず、今なお、連絡を取り合っている両者には、具体案が進んでいるとも、考えられる。
(戦となる?)青くなった庄助に、
「公卿らに、尊王論を説いた人物が、事件発覚と同時に姿を消している。これが、裏切り者じゃないかと、騒がれてはいるが、当の式部は、否定も肯定もしていない。そいつが、こそこそと動いている可能性があるのさ。元々武家の出だというから、油断はならん。将軍家に反旗を翻す、気骨者を集めている可能性がある。ま、あたしにゃ関係ない話だが」
素間はへらっ、と笑った。
「摂関家の手先じゃあ、卒塔婆代の請求できん。根っからの権力好きは、穢人の童の死なんて屁とも思わんさ。八瀨童子も落ちぶれたもんだ。そもそもは、天皇家の冠者だったのにね。朝廷を仕切る、摂関家の犬となっちゃあおしまいだ。公儀の犬と変わりはないね」
素間の言葉に、おねうが「へっ」と声を上げた。庄助の頭にへとっ、と何かがへばりつく。
「なんだい、何か文句でもあるのかい?」にやっ、と笑った素間に、
「八瀨を悪う言われて、黙ってはおられまへん!」
勝手にしゃべり出した口を、庄助ははし、と押さえた。
(十三)
「儂は歴史深い八瀨に生まれ、駕輿丁として御役目を務めるべく、修行してきましたんや」
押さえた口から零れる言葉は、伊勢とは違う癖がある。
「弥平さん、八瀬童子か」おねうの問いに「へぇ」と口が答えた。
縋る目を向ければ、「弥平さんです」おねうが応えた。弥平さんらしい。
「身の程知らずの将軍家、保身に走る摂関家。御前様のご苦悩は、八瀨の村にも伝わっとります。童を殺ったんは摂関家の手先かもしれまへんが、八瀨のもんやありまへん」
将軍家の介入により、帝は外出もままならん。故に八瀨童子は、お役御免のようなものだが、帝のお声が掛かれば、いつでもお役を務める気構えがある。
八瀨童子がお仕えするのは、御前様一人。誇り高き鬼の一族は、決して御前様を裏切らぬと、弥平は捲し立てた。
公儀の犬となり果てた、摂関家と一緒にするな、己は一族の繁栄を願って、お伊勢参りに来たのだと、庄助の口が唾を飛ばす。
「じゃあ、弥平さんは人攫いに来たんじゃないんだ」
素間の言葉に、付髷が飛び上がった。庄助の髪が逆立って、おこうとおねうが、ころころと笑う。
「何言うてんのやっ。ちぃともわからんわっ!」
飛び出した、自身の声にほっとすると同時に、「ぼんは黙っとりなさい」おこうが庄助の口を塞いだ。素間が庄助に耳打ちする。
「弥平さんはね、重要な死に証人なんだよ。あたしゃ神隠しの話をしてるんだ。いいからお前も黙ってお聞き。否、黙ってお話し……かな?」
ますます以てわからない。そもそも、死人が証人とは間違っていないか。
「牛谷の長と話を付けたのは、八瀨の長かい? お互いが合意の上なら、問題はなかろうが。童なんてどうするんだい。まさか獲って喰うわけじゃないだろ?」
「何やとっ! こいつが神隠しの犯人かっ。とんでもない野郎だっ」
庄助は、手を伸ばして浮いた髷をぐい、と引っ張った。
「痛いやないかっ」と、自身の行動に文句を言い、「阿呆ですがな」おこうが庄助の手を叩いた。
「大事な話の途中です。ぼん、人の話に横槍を入れたらあきません」乳母の言葉に、庄助は口を尖らせる。
「あんたはんは、何もんです?」
尖った口から言葉が飛び出した。
「あたしゃ伊勢の放蕩息子さ。そこな庄助は、あたしが贔屓にする若衆なんだ」
間の山芸人は、伊勢の大神様にお仕えする一族だ。八瀬と同じく誇り高い。間の山は拝田と牛谷で成り立つ。牛谷の長が承知でも、勝手な神隠しには、大神様の罰が当たると、説く素間に、「そうですやろ」と、庄助の口が、わなわなと震えた。
「儂の親爺は反対したんや。けど、先を思えば四の五の言うておられんと長が……」
将軍家が滅びれば、天子様が再び政を執られる。多忙となった天子様の駕籠を担ぐは、八瀨童子を置いて他におらん。だが、男童がおらぬでは話にならん。先祖の誉れを、再び手にする好機を、他所の村に奪われて良いのか――。
村を訪れた法師が村長に進言し、ご丁寧にも、牛谷村の存在を告げたと言う。
伊勢の大神様お抱え芸人の牛谷の村は、元を辿れば牛鬼の子孫。牛と言えばそもそも。帝が、女人の元に通われる折に、使われた車を引いたものである。
両村が協力し、天子様の駕籠を担ぐは良縁である。是非に牛谷の村と協力し、来たるベき日に、備えるがよろしかろう――。
何だか、とっても胡散臭い。
「男童がいないとは? 流行病でもあったのかい?」
「ここ数年育つ赤児は、女童ばかり。男童は、生まれてすぐに死んでもうて。加えて二年続きの大水で、若い衆が、多く亡うなりましたんや。村長の危惧もわかりますが、男童とひき替えに、送る女の身を思えば、牛谷とはどないな村かと」
庄助は、茂吉の嫁取り話に合点がいった。穢多村に娘がなく、嫁不足となった牛谷が、八瀨の話に乗った由縁は、おそらくは鬼の血筋。天子様にお仕えする、由緒正しい鬼の一族とあれば、牛谷に文句はなかったはずだ。
「牛谷の童らは、八瀨にいるんだね?」
「へぇ。そらもう大事に。赤児を亡くした母親なんぞ、我が子のように、可愛がっとります」
手放した童らが、八瀬の村の期待を背負うとなれば、牛谷の誇りも保たれる。
「あんたの姉さんか妹がまず、男童と引き替えになったかい。それで、あんたは牛谷の様子が気になって、伊勢にやってきた」
素間の言葉に、付髷がぎくり、と震えた。「あんたはんは、千里眼ですか」庄助の口がわなわなと、震える。
「簡単な推測さ。あんたの親爺様は、長に反論できる立場にある。さしづめ、長の弟あたりか。村の大事の犠牲となるもんはまず、長に一番近い身内と、相場が決まってる」
脈々と続く、一族を率いる長の血筋は、重んじられる。長の直系を、絶やすわけにはいかんとなれば、一番の近親者に、犠牲が強いられるわけだ。
「もしくは、あんたの大事な女。頭を丸めるくらいだ、そっちが当たりかね」
権力に服さず生きる、間の山芸人の総髪は誇り。まつろわぬ民は、世の倣いには従わん。月代を剃る付髷弥平は、一族の誇りを捨てた者だ。
「とんでもない!」と、伸び上がった髷に、庄助の顔が引き攣った。庄助の大事な姫髪が、抜けんようにと祈る。
「剃りを入れたんは、村のためです。誇りを守る八瀨の村とて、生きていかねばなりまへん」
薪炭や木材の商いを村の糧にと、弥平は、八瀨の誇りを捨てて、京の小商人から身分を買った。
(一族のためにか)
ただの付髷かと思いきや、弥平は立派な男だと、見直した庄助に反し、「ふぅん」と、素間は素っ気ない。
「ま。あんたの心意気は買ってやろう。村のほうは、あたしが何とかしてやる。だけど童は、返してもらう。間の山は、大神様の宝だからね。勝手は、許されないんだ」
拝田、牛谷両村が互いに競い合い、協力しあって、芸を織りなす間の山。大神様は、そんな芸人を好み、慈しんでいるんだと、素間は弥平に言い聞かせた。素間も、たまには良いことを言う。
「で、あんたは、何で死んだんだい?」
「儂もわかりまへんのや。式部せんせが、伊勢におられると聞いて、ひと言挨拶をと、思いまして」
帝を奉じる、八瀬の村には当然、式部の教えは広まっている。
重追放の式部とは、この機を逃せば会う機会を失うと、一通りの大事を終えた弥平は、橋谷家を訪れた。
橋谷家の手代に、離れに回るよう言われ、築地塀に沿って歩き出して、急に体が重くなった。気が付いたら、死んでいた、と。死人の説明は簡潔だ。
ふーむ、と素間が腕を組んだ。
「持病は?」「ありまへん。丈夫、そのものでした」
「何か、変わったことはなかったかい? 誰かに、何か貰ったとか」
「何も。会うたんは、中年の手代一人。ひと言ふた言、話しただけです。何や、忙しそうで……」
多忙な御師に、ご隠居の客に愛想を振りまく暇はないだろう。
「あぁ、そう言えば狸が」「狸に何か貰ったかい?」
「んな阿呆な。築地塀の向かいの竹林に、何や、気配を感じたんですわ。儂も八瀨童子の端くれ、気配には敏感です。何やと思って覗き込めば、黒い影が蹲っとります。あぁ狸かと、身を返してすぐ、体が重うなったんですわ。狸に祟られたんかいな。狸鍋喰うたんがあかんかったやろか……」
(阿呆らし)くたり、と項垂れた髷を押し上げた庄助に、素間が真顔で呟いた。
「弥平さん、どっかにちくり、とこなかったかい?」庄助の眉がひくり、と上がる。
「そらもう、慣れっこでして。木ぃが相手の仕事です。常に、どこぞに木屑が入り込んでますわ。ちょっとや、そっとでは気にもしまへん」
庄助は、自身の血の気の引く音を、聞いた。
「天狗やわ」
頓狂な母の声に、庄助は飛び上がり、常より量の増えた、母の髪に目を剥いた。
(十四)
「や、おすずか?」「覚えとってくれはったん、嬉しいわっ」
突然始まった、母子芝居に素間が嬉しそうに手を叩いた。付髷弥平と、付髪おすずは許嫁だったらしい。
「もう、生きて会えへんと思うとった」母の口を借りたおすずには(生きとらんて)と、突っ込みを入れる。
器量の良さが禍し、おすずは弥平との仲を裂かれて公家に召された。屋敷で、女衒の手に渡ったおすずは、女郎屋を転々として、古市に辿り着いた。
「落ちぶれた公家は、質が悪い。将軍家に、反旗を翻す気骨のあるやつらは、まだましさ。大体が、やくざもんと連んで、あくどい商売に手を貸してる。京の町は、娘の神隠しが頻繁に起こる」
備前屋の売れ奴となったおすずだが、病を得て、終い部屋に押し込まれた。
「終い部屋に入れば、後は死を待つばかり。うちは、せめてあの世で、弥平さんを待とうと決めたんどす」
花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、生きて帰らぬ死出の道――。
素間の咽が、しみじみと間の山節を唄う。おねうがそっと、目頭を押さえた。
古市の女も、弔ってくれると聞いた、有り難い金剛證寺の住職に、おすずは願い文を届けた。
私が死んだらどうか。お経の一つでも唱えてやってください。お礼に私の髪を差し上げます――。
「和尚様に、女の髪など不要とは、思いましたが、外に何も差し上げるものがありまへん。けど、あないに喜んで頂けて、ほんまにようございました」
くつくつと笑う素間は、付き合いの長い住職の行動が、予測出来るらしい。
「そないな目に遭うとるとは、思いもせぇへん。お前やなかったら、女房なんぞいらんと、すっぱり月代も剃ったのに」
口を突いた弥平の言葉に、(話がちゃうで)感心して損したと、庄助は、膝を立てた。
とにかく話は済んだ。乳母二人が鼻を啜る、悲恋話の続きは、あの世でやればいい。
母に背を向けた庄助の髪が引かれ、「何すんのやっ」と、文句を言った庄助に、「無事にこの世で会えたんや。後生ですから今しばし」と、弥平が庄助の口で哀願する。
「無事とちゃうて。この世やけどあんたは死んでるんや」「わかってますがな、けど……」
庄助の一人芝居に、素間がぽんっ、と膝を打った。
「あぁ、弥平さん……」ひし、と腰にしがみついた母は、果たしてどっちか。
「離さんかっ」「嫌だね、良い機会だ」
「弥平さん、こうして会えたんも、何かの縁」
「冥途の土産におすず、今宵は儂と、しっぽりと……」
「何て、不思議な縁ですやろ」「お美衣様、ようございました」周りは勝手に、盛り上がる。
何とかしろと、庄助は素間を睨んだ。
「さては憐れな二人の恋路、邪魔をするのは鬼か蛇か」素間はさらり、と合いの手を入れる。
「いい加減にせんかっ! 生還した息子に、何て扱いやっ」
「だからこそだよ。息子はいつ、死んじまうかわからない」
母親の言葉とも、思えん。
「何っ! 母子かっ」飛び上がった髷に、「そやっ」と、返せば「そらあかん」と、庄助の頭から、髷が滑り落ちた。弥平が良識人で、ほっとする。
「なんだ、終いか」と、素間はごろり、と横になり、母は、無造作に付髪をむしり取る。
付髷はおねうの手に、付髪はおこうの手に収まって、まずは一件落着。
「こら、てめぇ素間っ」膝を立てた庄助を、おこうが押さえた。静かな寝息を立てる素間の顔が青白い。
眉を寄せた庄助に、「おやぁ? 心配ですかぁ」茶化したおこうに、庄助は背を向けた。
「ぼんは、優しゅうてええお子です。けど、若松様としての気構えが足りまへん」
おこうの言葉に、庄助は口を尖らせた。
此度の神隠し事件では、十分に気骨を見せた。命を狙われても怯まず、付髷までして奮闘した庄助に、気構えがないとは、聞き捨てならん。
「ぼんは、特別なお人です。間の山に宿った、神さんの子ぉですよって」
「神さんの子ぉは、大仰やで。そんなんは、ただの言い伝えや」
伊勢の民人は、穢れを口実に、間の山と一線を引く。だが、何よりも穢れを嫌う伊勢の民人にとって、間の山は、なくてはならん存在だ。
伊勢の言い伝えは、そんな特異な存在を、畏怖した思いが産んだ俗信だ、と庄助は思っている。まこと、神さんの子が、人の世に宿るとは、考えがたい。
「ぼんはちぃとも、わかっておられまへんな。間の山はまだらの世界。そやから神さんの子ぉも宿るんや」
伊勢名物の一つとあげられる、間の山を見ずして帰れば後悔すると、噂の元は、お伊勢さん。誰もが焦がれるお伊勢参りには、華がなくては、成り立たん。
お杉お玉は言わずもがなの人気者、老若男女が入り混じり、独特の世界を作り上げる間の山は、まだらだ。
「間の山は、外宮と内宮の間の山やから、間の山とちゃいますんや。聖と濁を併せ持つから間の山。そこに、うちらが住み着いたんには、わけがあります」
天の岩戸を開いた、ウズメ神の踊りは猥雑で滑稽。女神の誇りを捨て、いかに己に気を集めるか、に徹したウズメ神の心意気こそが、芸の真髄である、と拝田村の者は、胸に刻む。
きれいごとに拘っては、本物の芸は生まれん。だが、芸への思いは清らかでなくては、ウズメ神の心意気には、近づけん。
「間と名の付く場所には、様々なもんが立ち寄ります。神さんも、そやないもんも、生きたもんも、死んだもんも」
まだらの世界を織りなすのは芸人だが、間の山には、不思議な色がある。
季節によって変わる木々の色や、朝日や夕日の焼ける色は、童衆の幼顔に、晴れやかな色を描く。日射しの中に降る雨は、虹色に輝いて、若衆の艶やかさに色を添える。
降り注ぐ陽が、お杉お玉の頬を艶めかせ、光る稲妻が、大男の逞しい体を、より一層見事なものに仕立て上げる。
しっくりと芸人に添う色は、決して、観衆には添わん。間の山が織りなす四季折々の色は、芸人らに溶け込んで初めて、独特のものとなるのだ。
「混ざりますんや。そやからまだら。単色では、成り立たん世界です。神さんの子ぉは、まだらの中に生まれます」
間の山に、神さんの子が宿る――。
耳許に、囁いた声にぎょっとする。素間はいつだって、気配を感じさせない。
「脅かすなっ」身を引いた庄助の顔が、強ばった。血の気の引いた素間は死人のようだ。
「お前も、天狗にやられたんかっ」
いかん、春庵先生をと、立ち上がった庄助の手を、素間の冷たい手が掴んだ。ぞくり、と、背が震え上がる。
「なんだい。えらい信用じゃないか。あの人は駄目だよ、効きもしない、飴薬を渡しておしまいさ。医者は本懐じゃないんだ。弟子のおかげで、成り立ってるようなもんさ。ついでに、あたしゃ弥平のように鈍くない。天狗になんか、負けてたまるか」
口だけは達者だ。
「お前のせいでこうなっちまったんだ。無理が祟ったのさ。何せ、あたしゃ生身だからね。あたしにも、良い弟子がいたらねぇ、歯くそっ子は、出来がいいが、はなくそっ子は、からっきし。困ったもんだ……」
「誰がはなくそやっ」息巻いた庄助の腕の中で、「お前だよ」呟いた素間は、白く透けたような瞼を閉じた。