忍び寄る手
保健室から伸びた手はコキアケ様のものだろう。
外から追ってきた二体を含めると、今見える範囲には三体ものコキアケ様が迫っている事になる。
もう言葉を交わすまでもなく、二人そろって音楽室までの階段を駆け上がった。
目的地に辿りついたところでこの状況が解決出来る保証はないのだが、もう退路は断たれているので、今更逃げる事は出来ずひたすらに進むしかない。
二階に上がり、コキアケ様の姿が見えない事に安堵して再び階段を駆け上がる。
しかし、三階に踏み込みかけたところで――聞き覚えのある、湿った足音が耳に入る。
振り向けば既に廊下を駆けて此方に一体のコキアケ様が接近してきている状態で、今四階への階段を昇れば確実に足場の悪い中で接敵されてしまう未来しか見えなかった。
「降りて二階の情報室に行きましょう!」
「じょ、情報室? 何で……」
「俺に考えがあるんで!」
マサキが何を考えているかは解らないが、もうその意図を探っている時間は残されていない。
慌てて引き返し、今度は階段を駆け下りて二階の廊下に躍り出た。
やはりこの階にコキアケ様はいないようで、走って到着した情報室の中もそれは同様らしかった。
「……なんで鍵、かかってないんだろ……」
全ての教室に施錠されていると思い込んでいたのだが、すんなり開いた引き戸に疑問を抱く。
マサキも反対側の扉から入り、二人で内側から鍵をかける。
「どうせ二人で塞いでも時間の問題ですし……先輩、コレ持っておいてください。あと、出来るだけランダムに多くのパソコンを起動してログインしておいてください!」
そう言われて後輩から渡されたのは、金属バットとメモ用紙だった。
メモには各パソコンの番号、ログインユーザー名とパスワードが記載されている。
アカリに割り当てられたパソコンの番号も存在するが、ユーザー名とパスワードが異なるので全て一年六組のものなのだろう。
どうやらクラス全員分のパスワードを入手したという話は本当であったらしい。
事前に用意したのか、マサキもコピーと思われる白い紙を手に持って教師用のパソコンに走る。
起動すれば放置して、パスワード入力が要求されるまで他のパソコンの電源を入れに奔走しているようだ。
それと今の状況の何が関係あるのか全く解らないままアカリもひたすら電源を入れていき、パスワード入力画面が立ち上がってくれば戻って一気に入力してエンターキーを叩く。
ログインできたパソコンの数が二人合わせて十を超えたあたりだろうか、扉にはめ殺し状態で設置された窓に赤い顔面が映った。
マサキは一瞬申し訳なさそうに表情を歪めつつ、ログインを終えた教師用のパソコンに向かって疾走する。
直後に教卓と反対側のアカリに近い方の扉が蹴破られ、吹き飛んで倒れたそれから窓ガラスが飛散した。
踏み入ってきたコキアケ様は恐らくアカリが食い止めなければならないのだろう、そう覚悟してバットを構える。
機材が密に並べられた狭い通路では戦いづらいためあえて扉が倒れた教室の後方に躍り出て、コキアケ様の行動を待つと――相手は瞬時に距離を詰め、異様に滑らかな腕を振るってアカリをなぎ倒しにかかった。
敵は俊敏な部類に入るだろうが、アドロスピアでシオンを介してヒットアンドアウェイ方式の戦い方を一応は経験したアカリ。
辛いながらも無駄の少ない動きで身を躱し、起動していなかったパソコンを破砕した腕が瓦礫に取られる一瞬の隙をついて懐に飛び込み、両手に全力を込めてバットを振り上げ顎を掬い上げた。
――化物の首は大きく反り返っているし、衝撃により本来であれば頸椎と下顎骨が損傷している筈だった。
だが、バットを介して伝わった反動は人肌と人骨のそれよりも、ゴムや泥のそれに近い異様に弾力の強い感触であった。
瞬時に肌が粟立つのを感じるが、さらにありえない角度に折れ曲がった首が何事ともなく立ち上がって元の位置に戻る様を目の当たりにし、内臓の底から身体が冷えるような恐怖を追い打ちで味わう事になる。
「だ、駄目……全然攻撃が効かない……どうなってるの……」
状況は絶望的であったが、それでも攻撃が効かないなりに足止めをしなくてはならない。
何度通用するか解らないが、バットでの打撃よりも足払いに力を入れて転倒させるべきか――そう自分の中で方針を固め、アカリは先手を打って一歩踏み出す。
――踏み出したところで、再び扉の爆ぜる音。
前方を見遣れば、教卓の前にいたマサキに衝突する寸前で倒れた扉。
そしてその奥に立つ二体目のコキアケ様が見えた。
それだけではない。後ろの扉からももう一体、アカリを挟み撃ちにするように出現していた。
思わず、後ずさる。
いくら何でもバット一本で三体の魔物から自分と後輩を守り切れる筈がない。
絶体絶命。
そんな言葉が脳裏を過ぎった瞬間、唐突に周囲から鼓膜を引き裂くような爆音が溢れた。
思わず驚愕に目を見開いてバットを持たない手が耳を塞ごうとするが、よくよく聞けばこれはアカリとマサキの歌声で、それは先程起動したパソコン達から流れていた。
マサキの方を見れば、度重なる危機に血の気を失い冷や汗まみれではあるものの、その顔で勝利の笑みを形作っている。
三体の魔物は明らかな戸惑いを見せ、方向感覚を失ったように教室に入ったりアカリを通り過ぎたりという一貫しない行動を繰り返している。
――その瞬間、この状況の意味を理解した。
図書館でコキアケ様の特性を探ろうとしていた時、マサキはアカリの話を真剣に聞いていた。
恐らく並外れて優れた聴覚のみで人間を追っているのだという推測はアカリがいたからこそ辿り着いた結論で、その自慢の聴覚を封じるための舞台装置はマサキが揃えていた。
別に教師のパソコンを通じて他のパソコンに爆音で音楽を流せれば音源は何でも良かったのだろうが、あえて自分達の歌声を用意してくるあたりが彼らしい。
大声を張り上げても教卓側のマサキに声は届かないだろうし、そんな事をすればコキアケ様に察知されるかもしれないと判断したアカリは後輩に視線を向け、窓を指さす。
窓の外は裏庭であり、自転車置き場が設置されている。
直に二階から飛び降りたりコキアケ様の近くを通り抜けられるまで待つよりは、例え着地には頼りないトタン屋根であってもその上に飛びおりる方が安全面でも時間の面でもマシだろう。
彼も言外の提案に同意したらしく、覚悟を決めたように頷いた。
教室の前方と後方から二人が同時に駆けだして、窓に飛びついて鍵を開け放つ。
波打った薄っぺらい鋼板は錆びと経年劣化が目立ちひたすらに不安感を煽ってくる。
が、精神に異常をきたしそうな爆音と三体の化け物がいる狭い空間に滞在し続けるより何倍もマシだ。
この場から逃れたい一心が、逡巡を短くさせる。
ほぼ同時に窓から飛び降り、二人は自転車置き場の屋根にそれぞれ離れて着地。
ほぼ成人に近い人一人分の重量が落下による加圧を加えて襲い掛かり、見事に着地地点の屋根は歪んでしまう。
が、一定間隔で柱が立てられているため倒壊はしなかった上、思ったよりずっと歪みは少なかった。
存外に頑丈であった自転車置き場に感謝しつつ、柱を伝って裏庭に着地する。
「ありがとう創路君」
「いやー、パイセンが図書館でヒント出してくれたからっすよ。……しっかし、完全に音漏れしてるっすね」
裏庭に降りてもなお、情報室からは凄まじい音量で二人の歌声が響いていた。
危機からひとまず開放された安堵感が、一気に羞恥心に変わる。
「……これ、もし近所に響き渡ってたらもう学校来れなかったよ。……まあ、大丈夫なんだろうけど」
裏庭からでも見える高層マンションが近くにあるが、そこから住民が出てきて学校の方を見ている様子はない。
当初警戒していた警報も一向に鳴る気配がないし、もう何らかの力で音か、そもそもこの学校の存在自体が周囲から遮断されていると思った方が良いだろう。
「この後だけど、これじゃ帰っても遅かれ早かれ襲撃されるだけだし……また音楽室を目指す、でいいんだよね?」
「勿論すよ。また表に回って家庭科室から上を目指しましょ」
再び二人は視線を合わせて頷き合うと、急ぎ足で校庭側へと向かった。




