※天使の輪
もはや有り得ないだとか非現実的だとか、何処から入ったのだろうという疑問は沸いてこなかった。
この白い羽を背負った奇妙な少年を見て、迎えが来たのだと瞬時に判断してしまう程にマコトは憔悴していた。
「この世界に見捨てられましたーって顔してるねー。思い通りにならない人生なんてクソだよねぇ、うんうん」
マコトは何も答えていないのだが、どうやら少年は勝手に納得して勝手に頷いているようだった。
かと思えば突然向き直り、得意げに一本立てた指をマコトに向けてきた。
「ねーねー、この世界に住んでるなら皆もよく知るアレしない? 小説によく出てくるから知ってるでしょ? したくない?」
変わらず怠そうに横たわったまま天使の言葉に耳を傾けていたが、次の言葉を聞いた瞬間に鈍っていたマコトの意識が瞬時に現実に引き戻される。
「異世界転生」
どうでも良さそうな眼差しが一転して、異質な物を眺めるそれに変わる。
その変化を感じ取ったのだろう、天使は愉快そうに氷色の双眸を細めた。
「あー、信じてないでしょ。でもそうだよね、普通に生きてたら異世界になんて行く事ないもん。けど君は僕に察知される程に異世界を求めちゃった。悲しいねー、この世界じゃもう君はどうあっても幸せになれないって気づいちゃったんだ」
それから狭間の図書館で世界が繋がれているだの何だのと長い説明が続くが、疲労の溜まった頭にはあまり内容が入って来なかった。
だが、それでも今の人生を捨てて別の世界に行く事が出来るという事だけは理解出来る。
「どうするー? 異世界に移住したくない?」
――不思議な事に、返答に躊躇は全く生まれなかった。
「……ああ、行けるものなら」
その答えを聞いて天使の笑みが深まる。
「いい返事じゃん。ちなみにもう二度とこの世界に戻ってこれないけど、その様子じゃ後悔もないね? ……じゃあ後は天使の輪を付けて空に浮かぶだけだよ、思い切りやっちゃいなー」
天使の輪を風呂場に用意する間、ふと行きたい世界について問われた時――マコトは自作小説の世界と答えていた。
新しく自分のための世界を作るのであれば全てが思うまま、自分が最強になる事すら叶うと説明を受けてもなお、意思は揺るがなかった。
あれだけ嫌な思いをさせられた筈の小説に入りたいなどと自分でも不思議に思ったが、恐らく――自分の隙にデザインした世界観の中で、人生をやり直したかったのだろう。
首を括る瞬間に恐怖が無かったと言えば嘘にはなるが、それよりも早くこんな世界から離れてしまいたかった。
未練よりも異世界を夢見る気持ちの方が圧倒的に大きかった。
いよいよその時となって首に縄が食いこみ、意識が落ちるまでの一瞬に今までの人生が走馬灯の如く頭の中を駆け巡る。
記憶の幻燈の中には大嫌いな登場人物達がめまぐるしく現れていった。
幼い頃から自分と兄を比べては疎んでいた両親。
いつもいつも悪気なく存在するだけで劣等感を植え付けてくる兄。
仕事が出来ないなりに必死に努力するマコトの心を容赦なく折りに掛かってくる上司。
男なら多くが羨むであろう兄の横に立つ知的で美しい花嫁。
自分と同じで優秀な両親に似ず平凡に生まれたくせに自分と違って愛されている甥。
全部全部、心の底から大嫌いで憎かった。
早くこんな奴らのいる世界から旅立ちたかった。
首に縄が食いこむ苦痛よりもずっと今までの人生の方が苦しかった。
――ふと、最近生まれたばかりの姪が脳裏を掠めた。
彼女もまた会えば自分の真似ばかりして鬱陶しいしゲーム類を荒らすし、何故か付き纏うし大嫌いだった。
そう思った直後に、意識は落ちていた。
「――良き来世を!」
自分の他に生き物が存在しなくなった部屋で、天使が一人そう告げた。
†
「……は? まさかその女がユイだってのかよ……? いや、何で……それにその姿……お前も転生……?」
魔物に転生した創路誠――リッチは明確に動揺していた。
元の世界に戻れない、それは元の世界の人間と会う事はもう二度と有り得ないと、そういう事だと思い込んでいたからだ。
よもや自分を追ってくる者が存在しようとは想定すらしていなかったのだ。
「……い、いや……だから何だってんだ。今度こそ俺は下等生物どもに恐れられる存在になるんだ……」
真面目に生きて馬鹿を見るのも、弱いまま惨めに生きていくのももう御免だった。
間合いを詰めて斬りこんできたアカリとアデルから離れ、腕を振り上げる。
飛ばした無数の石槍が後方にいたエルフと悪魔に防がれ、はたまた相殺され。
どこまでも自分を邪魔する存在に、腸が煮えくり返る思いだったのだろう。
裂帛の気合と共に、魔物は再び闇色の刃を宙に出現させる。
「俺の邪魔をするなぁぁああああああああああああ!」
主の声と同時に案山子を利用したゴーレムが押し寄せ、苦戦するアカリ達。
愉快そうに笑う魔物も、追い込まれた本人達も――誰もが間近に迫った術を避ける余裕などなく無傷では済むまいと思っていた。
だが、結果的に言えばアカリ達は無傷だった。
「は……?」
突如として現れた無数の人型が立ち塞がり、アカリ達を庇ってズタズタになっていた。
南瓜頭に見えたが、どうも色からして全て黒い土で出来ているようだ。
人々は、見る。
リッチの真似をして拾った杖を振り上げ、見様見真似で似たような人形を生成したユイの姿を。
「何……で、テメェは――ウゼェんだよ! いつも俺の真似ばっかりして馬鹿にしやがって!」
相変わらず呆けていたユイだったが、自分に向けられた怒号には流石に驚いたらしく、身を竦ませる。
そうでなくとも言葉が出ない彼女の代わりにアカリが一歩、庇うように前に出て魔物と対峙する。
「――真似する程大好きだったんでしょ、会いたかったんでしょ! それだけ想われてたのに、あなたはユイちゃんを置いていったんだよ!」
きっと、言葉が紡げない彼女もそう思っている。
だから、きっと危険を冒してまでここに来た。
そう信じて、彼女の代わりにその想いを伝えるべくリッチの浮かぶ上空に向かって叫んだ。
――だが、それに答えたのは本人でも彼女の叔父でもなく、全く聞き覚えのない男の声だった。
「そうよぉ、悪魔に魂を売ってまで愛しの叔父さんに会いたかったんだもんねぇ。念願叶って良かったじゃない」
乾いた拍手が響き、全員がその方角を見遣る。
いつの間にか、人知れずそこに立っていたのは――肌の黒い悪魔だった。
黒いというのはと言うのは褐色の比喩ではなく、本当に文字通り炭を塗ったような彩度のない灰黒色という意味だ。
本来であれば人間に近しい造形をした生物の肌には似つかわしくない、不気味な色。
肌につい目が行きがちだが、よくよく見れば髪から蝙蝠羽まで他のパーツ全ての彩度がゼロだ。
まるで白黒テレビか漫画の世界からそのまま現実に飛び出してきたような違和感。
目元だけは黒い包帯のような布で覆われているため、その色は伺いしれないが。
筋肉質な体格もまた彼の特徴なのだろうが、その色彩が原因であまり生命力を感じさせない。
「……あなた誰……」
警戒しつつも、ようやくアカリが乱入者に対して最初に誰何の声を発していた。




