傀儡楽団の迷宮※
――静謐を唐突に引き裂いた、異音。
瞼を上げてフィルのちょうど下に位置する、食堂に繋がる大扉。
一時間以上前に無人となり、閉ざされたままになっていた筈だ。
――使用人達が、誰もいない事を丁寧に確認した筈だ。
アカリもその光景を見ていた。
アデルも見ていた。
皆、見ていた。
だから、絶対に誰も居なかった筈だった。
居てはいけなかった。
「……」
歳の頃は二十代半ばくらいに見える、長い黒髪の女が一人経っていた。
蜘蛛の巣の意匠を施したとんがり帽子に、胸元がレースに切り替えられ両脚に大きくスリットの入った豊満なボディラインを強調するドレス。
向かって右側の目元にある泣き黒子が特徴的な、色香の漂う風貌の女だ。
――しかしながら蠱惑的そのものの外見と、何も考えていないような呆けた表情で人々を凝視している様があまりに不釣り合いで、状況も相俟ってひどく不気味な印象を与える。
暫くは女と民衆が互いに動かず、硬直したままの時間が過ぎた。
だが、突然。
女が破顔した。
何の脈絡もなく唐突に表情筋全てを余す事なく使い目も口も半開きで限界まで弧を描いた。
その顔面を終始無言で人々に向け続けていた。
得体のしれない恐怖が、予測不可能で異質な存在感が、彼らの中で膨らんでいた不安を瞬時に爆発させる。
「何だお前は! 食堂には誰も居なかっただろう、どうやって入った!」
「誰なのよあんた! 何しに来たの!?」
ある者は半狂乱で掴みかかり、ある者は不安から生じる憤怒をぶつけるようにがなり立てる。
階下の異変を察知しているらしいフィルが眉根を寄せているが、彼は歌う事を止められず詳しい状況が確認出来ないらしい。
彼も気がかりだが、アカリやアデルも突然現れた正体不明の女から注意を逸らせず、どうにも出来ないまま無為に時が過ぎていった。
残りの人々も自らの命が掛かっているこの状況でこの異端者と会話を試みようと思える者などおらず、最終的に女を食堂に突き飛ばし、観音開きの扉を勢い良く閉ざした。
「なっ、何なんだあいつは!? 昨日まではあんな奴居なかったぞ!」
「昨日どころか、今日も見ていません……一体どこに潜んでいたというのでしょう」
小太りの男が喚き、詰め寄られた老執事が不可解そうに食堂の扉を一瞥している。
件の女をどうするべきか決めあぐねているのだろう、全員が眠るどころではなくなり部屋の中がざわつき始める。
「とっ、とりあえず落ち着こう! これじゃフィルの歌が届かなくなっちゃう!」
得体のしれない女が不気味だが、あまり騒ぐと聖歌の効力が弱くなる事を危惧した人々は割とすぐにアカリの声に従い黙り込んでくれた。
雑音が消失し、再び館内が神聖な空気で満たされていく。
澄んだ空気によく響く声が人々の精神に働きかけ、荒ぶる心から毒気も憎悪も削ぎ落と
びたびたびたびたびたびたびたびたびたびたびたびたびたびたびたびた
――屋敷の外に案山子がいる限り、聞こえる筈のない音が食堂の奥から発生している。
扉一枚隔てた先に密集する、人ならざる者の気配。
「……あ」
食堂の奥には、窓が何枚もある。
そんな中に何をしでかすか解らない者を放り込んだら――
結論を導き出すより早く、扉が決壊した。
意識を失う瞬間までに見えた光景は、南瓜頭の案山子が黒い泥を引き連れ、壁床天井全てを黒塗りに変えていった光景である。
†
――歌。
声は老若男女様々でありそれぞれが個性的かつ好き勝手に主張しているが、誰もが自重しない事で逆に誰も突出できず一個人の声を拾い出す事が出来ない。
彼らは彼ら自身に呑み込まれ群像としての姿を成し、迷宮の一部として機能するのだ。
――
――――
意識が覚醒した瞬間は、さほど不快でもなかった。
まだ視界が拓けない中で聴こえる極端な低音と高音の入り交じる歌声。
主旋律を奏でる提琴や節目を彩る鐘琴。
それらが高揚感を齎し、床に寝ていた事による身体の痛みから意識を逸らしてくれる。
祭り騒ぎじみた楽しげな音楽は、周囲でハロウィンパーティーでも行っているのかという期待を想起させる。
だが、期待のままに瞼を上げた者は眼前に広がる光景に絶望するのだろう。
実際、アカリも一気に現実に引き戻された。
くり抜いて顔を作った光る南瓜が点々と埋め込まれ、休みなく歌声を響かせる黒い泥の壁。
照らされた端々には同素材の手が幾つも散見され、その殆どが金古美の楽器を奏でていた。
どれもこれもが現実味に欠けるからこそ、今自分が置かれている状況を思い出す。
「……! アデル、フィル……皆!」
名を呼んだ者は誰一人として周囲に存在しないようだ。
慌てて所持品を確認するが装備品を含め手元にきちんと存在しており、ひとまずは安堵の溜息をついた。
立ち上がり改めて周囲を観察してみるが、十余メートル四方の玄室は一体どこの部屋なのか全く見当がつかない。
最後に見たのがホールに立っていた光景なので、ここもホールなのかと考えたのだが――それにしては明らかに狭すぎるし、他の者は何処に行ったのだという話だ。
「そういえば無傷だし、殺されてないし……何のために転がされてたんだろ」
自分だけがこうされる理由も解らないし、恐らくは全員が引き離されて似たような状況にあるのではないだろうか。
「って、だとしたらあんまり悠長に構えてられないかも……!」
この部屋はひとまず安全のようだが、他の部屋もそうであるという保証は全くない。
そう思い立った瞬間、居ても立っても居られずに扉を探していた。
結果、扉は左手に一つのみ。
他の壁とは異なり、南瓜は壁の左端に一つだけ。
その下部に位置する泥の手も左右一組だけで、黒管を地面に対して垂直に構えている。
配置から察するにドアノブを模しているのだろうが、不気味な造形は触れることに躊躇をもたらす。
だが先の通り時間の猶予がない可能性が高いので、思い切って楽器を握り扉を押し開く。
その一連の流れだけでも勇気を要求されたものだが、扉が軋む音と同じ音調を態々手の内の楽器が演奏してくるなどとは予想できず、思わず全身が強張った。
だが心を折られる前に何とか扉を開ききり、次の部屋の構造に注意深く目を走らせる。
「……敵はいないみたい? ……いや……」
黒剣に違和感を感じ、手元に目を落とす。
アカリ本人には全く感知できなかった魔力の痕跡。
それを剣が察知したらしく、アカリにもその旨が伝わってきた。
「無数の気配って、それ大丈夫なの……」
数え切れない程に魔力の痕跡が見て取れるなら不用意に踏み込むのは危険なのではないだろうか。
そう懸念するも、強く反応しているのはどうやら二つだけらしい。
「……とりあえず何か出ても二体の可能性が高いって事か」
いざとなれば来た道を戻り立て籠もる事も出来ると自分に言い聞かせ、深呼吸を幾度か。
覚悟を決め、ドアノブを離し部屋の中に踏み込む。
両足が次の部屋の床を踏んだ時、部屋の中央付近の床が輝いた。
片方は青、片方は白。
光はサークルを描き、その中に南瓜頭の案山子を召喚する。
片方は冷気を纏う斧を持ち、もう片方は十字架のついたメイスを構えていた。
どちらもぽっかりとくり抜かれた三角形の眼窩の奥からアカリを睨めつけている、そんな気配。
「……本当に二匹だったね。この場合、まずは……」
迷った末、少女は斧を持った方に駆けていく。




